「えっと、ここだったかな…」
 ある夜の事、ジェイドは自分の部屋を捜していた。師匠に引き取られ、彼の家に住む様になって二週間。屋敷の造りをまだ把握していないジェイドにとってただでさえ広い上に、同じ様なドアが並んでいるこの屋敷は巨大な迷路も同然で、その迷路でたった一つの自分の部屋を捜し出すのは一苦労である。しかしジェイドにとって部屋捜しは同時に楽しい探検でもあり、部屋を見付けるよりもにそのまま探検自体を楽しんでしまう事もしばしばだった。
「…あ、ここでもないや」
 ドアを開けて中を覗くと、そこはまた自分の部屋ではなかった。これで5回目の外れ。
「あ~あ、何だか疲れちゃったなぁ…そうだ、ちょっとここで休ませてもらおうっと…おじゃましま~す」
 部屋を捜し疲れたジェイドは部屋の中に入ると、電気をつけてそばにあった椅子に座る。
「この部屋は初めてみたいだ。…どんな部屋なのかなぁ…あれ?」
 何気なく部屋を見渡したジェイドは壁に女性の肖像画が掛かっている事に気が付いた。流れる様な薄い金髪に蒼みがかった緑の瞳の美しい女性は、暖かな笑顔でこちらに向かって微笑み掛けている。
「うわぁ…きれいな人だなぁ…誰だろう…」
 ジェイドはしばらく肖像画に見とれる。肖像画に見とれているうちに何だかこの部屋に興味がわいてきたジェイドは、あれこれ部屋を調べ回った。部屋を調べているうちに、ジェイドはこの部屋が屋敷の他の部屋とどこか違う事に気が付く。他の部屋はただ使うだけのための部屋という感じで良く言えば機能的、悪く言えば無機質な部屋なのだが、この部屋は家具一つとっても少し凝った造りで、壁紙も他の部屋の白一色と違って柔らかな色合い。そして何よりこの屋敷の主人、すなわち彼の師匠には全く縁がなさそうな物が置いてあったのだ。
「これ、ピアノだ…」
 トレーニング棟にもピアノが置いてあるが、昔は学校代わりでもあったと聞いていたジェイドは、ピアノは音楽の勉強に使ったのだろうと単純に考え、別段違和感を持たなかった。しかし屋敷内でこの楽器を見付けたとなると、話は別である。師匠がピアノを弾けるなんて話は聞いた事がない。
「ここ、一体誰の部屋なんだろう…?」

 それから数日経ったが、ジェイドはあの部屋の主の謎が頭から離れない。師匠か自分達の世話に来てくれる元使用人(だと本人達が言っていた)夫婦に聞けば簡単なのだろうが、何か聞いてはいけない様な気がして言い出せなかった。訓練の時にはこの事は何とか頭から消して集中していたが、食事中や夜の自由時間には部屋の主の推理に没頭し、ぼんやりと考え込む事が多くなった。そんなジェイドを見て、師匠のブロッケンJr.は不審に思って声を掛ける。
「…おい、ジェイド」
「…え?…あっ、はいレーラァ何でしょう」
「また何か考え込んでるな。ここ何日かおかしいぞお前」
「そうかな…」
「ああ。訓練にも身が入ってない様だ。…訓練が辛くて嫌になったか」
「そんな事ないよ!ボクはムチャクチャ強くなりたいんだから訓練は全然辛いとは思わないよ!」
「ほう、なら何を考えているんだ」
「あ…ええと…その…」
 ジェイドは師匠の誘導尋問に引っ掛かった事に気付き慌てる。何とかごまかそうと四苦八苦するジェイドにブロッケンJr.は真剣な顔を向けた。
「…師匠の俺にも言えない事か?」
「あ…いえ、そういう訳じゃ…」
「なら話してみろ」
「…はい」
 ここまで来たらもう隠せない。ジェイドは自分がしていた事を全て正直に話した。話していく内に何故か師匠の表情がみるみる驚きの表情に変わっていく。
「…お前、あの部屋に入ったのか?」
「レーラァ…?」
 ブロッケンJr.は何やら考え込むと、やがて複雑な表情で言葉を紡いでいく。
「入ったのならあの部屋の事を話さないとな…あの部屋は元々、俺の母親の部屋だったんだ」
「レーラァのお母さん…?」
「ああ。…肖像画を見たろう?あれがそうだ」
「えっ?…あのきれいな人がそうなんですか…?」
「何だその反応は」
「…あ、ええと、その…ごめんなさいレーラァ」
「…まあ、俺は親父似だからな…お前が驚くのも無理はない」
「でも、どんな人だったんですか?レーラァのお母さんって」
 ジェイドの問いに、ブロッケンJr.は少し考えると口を開く
「かなり高名なピアニストだったらしい。人の心に訴える表現力が愛されていたが、絶頂期に突然引退して伝説の存在になっているとも聞いている」
「…ピアニスト?…そうか、だからピアノがあったのか…」
「人間的にも賢く優しい女性だったそうだ…まあ、俺が物心ついた時にはもう死んじまっていたから、良くは知らないがな」
「レーラァ…ごめんなさい」
 淋しそうな表情を見せるブロッケンJr.を見て、ジェイドは心配そうな表情を見せる。
「…ああ、お前が謝る事はないジェイド」
「でもレーラァ…」
「もう過ぎた事だ。お前が気にする必要は無い」
「はい…でもやっぱりごめんなさいレーラァ」
 ジェイドはもう一度謝ると、頬杖をつきしばらくぼんやりと何か考えていたが、やがて残念そうに呟く。
「1度でいいからあのピアノで何か聞いてみたいなぁ…でも使ってた人が死んじゃってるって事は、もうピアノを弾ける人はいないんですよね。あ~あ…」
「…いいや、弾ける奴がいるぞ」
 ジェイドの残念そうな声の後に続けて、不意にドアの方向から声がする。
「エルンスト」
「エルンストさん」
「やあ2人とも。食事はもう済んだか?」
 二人が驚いて振り向くとそこにはブロッケンJr.の親友であり、かつてはこの屋敷の執事を務めていたエルンスト・ベルガーが立っていた。
「ザワークラフトが切れてたから持って来たんだ。邪魔するぞ…そうだ、お茶をいれようか」
「いや、いい。…でもお前、それだけのためにわざわざ来たのか?ザワークラフトくらい明日でもいいのに」
 お茶を入れようとするエルンストを止めつつ呆れた表情でブロッケンJr.が言うと、彼は決まりの悪そうな表情で苦笑いする。
「いや…ルイーゼが持って行けってうるさくてな。お前らが食生活に頓着してないのを、あいつなりに心配してるんだよ」
「そうか。お前を顎でこき使うなんてさすがはルイーゼだ…しかしいつも悪いな」
「いいや、俺らは元々お前に仕えるのが仕事だ。気にするな」
 エルンストの一族は、ブロッケン一族に代々執事として仕えている家系で、エルンスト自身も成人すると祖父の跡を継ぎ執事となった。とはいえ元々ブロッケンJr.の遊び相手としてこの屋敷に上がったエルンストは、ブロッケンJr.とは兄弟の様に育ったため、二人の関係は主人と使用人というよりもむしろ親友同士という感じの関係で、執事として、何より親友としてブロッケンJr.に忠実なエルンストは、ブロッケンJr.が酒に溺れる様になって使用人を全員辞めさせざるを得ない状況になった中でも絶対に彼を見捨てず、女中頭を務めていた妻のルイーゼとともに代わりに実務をこなしたり屋敷の管理をしたりなど、さりげなく世話を焼いていた。ブロッケンJr.が20年もの間酒に溺れていても、屋敷を手放したり路頭に迷う事がなかったのは実は彼の働きによるところも大きい。
「台所に置いておいたから悪いけど後でしまっておいてくれないかい、ジェイド」
「あ、はい。分かりました。でもエルンストさん、ピアノを弾ける人がいるって…一体誰が弾けるんですか?」
 ジェイドの問いにエルンストは笑いながらブロッケンJr.の背中を叩く。
「決まってるじゃないか。こいつだよ」
「ええっ?レーラァが!?」
 ジェイドは意外な事実に驚く。エルンストは続けた。
「こいつは奥様…こいつのお袋さんの事だが…の血のせいか昔から音楽が好きでな。それを見ただんな様…こいつの親父さんだな…はこいつにピアノ教師を付けて徹底的に技術を叩き込んだんだ。俺も一緒に習わせて頂いた…っていうのはおまけだが。ジェイドもトレーニング棟にピアノがあるのを知ってるだろ?あれは訓練の合間にこいつがピアノを習える様、あそこに置いたんだよ」
「そうだったのか。…ボクは学校代わりだったって聞いてたから、元々あったのかと思ってました」
「ま、普通はそう思うだろうな。こいつがピアノを弾けるなんて知られてないし」
 そう言って微笑んだエルンストはふと虚空を見詰める。その表情には懐かしさとともに、心なしか翳りが表れていた。
「…しかしだんな様はあの時、何でよりによってピアノを選んだんだろうな。…お辛かったろうに…」
 エルンストの言葉にブロッケンJr.も虚空を見詰め呟いた。
「…多分、辛くても無意識のうちに母さんの面影を求めなきゃいられなかったんだろうよ…」
「…そうだな」
「あの…どうしたんですか?二人とも」
 何かを回顧する様に虚空を見詰めて呟く二人の表情にジェイドは戸惑い、思わず声を掛ける。二人はジェイドの表情に気が付くと彼を宥める様に笑った。
「…ああ悪い。ちょっとした昔話だ」
「別に知らなくてもいい事だよ、ジェイド」
「そうですか…ならいいんですけど。でもレーラァってピアノが弾けたんですね…」
 ジェイドはまじまじと師匠の顔を見る。ブロッケンJr.は、ばつが悪くなり横を向いた。その様子を見ていたエルンストは、さらりとした口調で一つ提案をする。
「…そうだ。折角だからジェイドにお前のピアノを聞かせてやれよ。俺も久し振りに聞きたいし」
「あっ、ボクも聞きたいです!弾いて下さいレーラァ!」
 エルンストの提案にジェイドも期待に満ちた目で頼む。ブロッケンJr.は苦虫を噛み潰した顔でエルンストの腕を掴むと、部屋の隅へ連れて行った。
「…おい、エルンスト」
「何だよ、渋い顔して」
「俺はここ20年ピアノには触ってないんだぞ、もう弾けねぇよ。そうでなくともピアノは使わないと駄目になるだろうが」
「ああ、ピアノの方は大丈夫だ。お前が外へ出てる合間を縫って、調律してもらってたからな。俺も時々弾いて確かめてるが、どっちのピアノもバッチリ現役だぞ」
 にっこり笑って答えるエルンストを見て、ブロッケンJr.は一種呆れたような表情を見せ、口を開く。
「…自分で言うのも何だが…あれだけ俺が飲んだくれてたのに、よくそんな余裕あったな」
「…まあ、それ位のやりくりは何とかな。…それに奥様の部屋のピアノは、数少ない奥様の形見だ。絶対に手放したり駄目にしちゃいけないって思っていたからな」
「そうか…ありがとう。…でもそれとこれとは話が別だ」
 エルンストのさりげない心遣いには素直に感謝しているが、だからといってピアノを弾くのは気が進まない。何とかこの場を切り抜けようと四苦八苦するブロッケンJr.の様子を面白がっているのか、エルンストはしれっとした態度でからかう様に言う。
「ほぉ~、天下のブロッケンJr.は、弟子の期待を裏切るのか」
「何言ってんだ!元はといえばお前が勝手に言い出した事だろうが!」
「ま、そうだが。…でもあの様子だと、多分弾かないと終わらないぞ」
 ブロッケンJr.は思わず声を荒げるが、エルンストはしれっとした態度のまま期待できらきらと輝く目でブロッケンJr.を見詰めているジェイドを指す。もしここで自分が『嫌だ』と言ったら、ジェイドは相当がっかりするだろう。可愛い弟子のがっかりする姿など見たくないブロッケンJr.は大きな溜め息をついた。
「仕方無いな…でも20年弾いてねぇんだ。腕は保証しねぇぞ」
「大丈夫さ、体は覚えてるもんだ。それにお前は『ピアノの歌姫』の息子だしな」
「何ですか?その『ピアノの歌姫』って」
 不思議そうに尋ねるジェイドにエルンストは微笑んで答える。
「奥様のピアニスト時代の呼び名さ。奥様が弾くとピアノの音が歌う様に聞こえたから、そう呼ばれたんだそうだよ」
「へえ…すごい人だったんですね。レーラァのお母さんって」
「そうだね…でもジェイド、師匠のピアノもすごいぞ」
「本当ですか?」
「ああ、何せ彷徨っていた幽霊までピアノで天国へ送ったくらいだからな」
 エルンストはジェイドの頭を撫でるとブロッケンJr.の方を見る。
「ホントですか?レーラァってやっぱりすごいんですね!」
 ジェイドも尊敬で目をきらきらと輝かせたまま師匠の方を見た。ブロッケンJr.はその視線を避けながらエルンストに耳打ちする。
「…おい、余計な事を言うなよ。あれは俺のピアノのせいじゃねぇだろうが」
「でもお前が弾いたからこそ、あのお2人は逢えたんじゃないか。やっぱりお前の力だよ」
「そう言われればそうかもしれねぇが…あんまり期待させてこけたらかっこ悪ぃじゃねぇか」
「…お、やっと乗ってきたな。その意気で弾けば大丈夫さ…じゃあ、奥様の部屋へ行こうか。トレーニング棟は遠いしな」

「…で?何を弾けばいいんだ?」
 指を慣らすために軽く弾きながらブロッケンJr.が聞く。エルンストは少し考えるとにっこり笑って答えた。
「そうだな…ジェイドに『あれ』を聞かせてやれよ」
「えっ?…『あれ』を弾くのか?」
「ああ、もちろん歌も付けてな」
「…まさかお前、最初から『あれ』を弾かせようと思って、こっちの部屋にしたんじゃないんだろうな」
「何だ、今頃気づいたのか。長い間の深酒で勘が鈍ったか?」
「お前なぁ…」
 呆れた様な、苦々しい様な表情を見せるブロッケンJr.に、エルンストは静かな笑みを見せたまま口を開く。
「俺は今のお前に奥様のピアノであれを弾いて欲しいんだ。…ジェイドに聞かせるためだけじゃなくて、お前が復活した事を天上のお二人に知らせるためにも…な」
「しかし、あれは人に聞かせるには少し気恥ずかしいな…」
「いいじゃないか。お二人にできなかった親孝行も一緒にできると思えば」
 渋るブロッケンJr.にエルンストは続ける。ブロッケンJr.は少し考えていたが、やがて頷いた。
「…そうだな、母さんのピアノには『あれ』が一番ふさわしいかもな。…そうするか」
「あの~…『あれ』って何ですか?」
 二人の会話が今一つ理解出来ないジェイドがエルンストに尋ねると、エルンストは柔らかな表情をジェイドに向け答えた。
「だんな様と奥様が結婚前に作った曲だよ。奥様がだんな様に、だんな様が奥様に、それぞれお互いの想いを伝えようとしてね」
「レーラァのお父さんとお母さんの想い…?」
 言葉の意味が理解できず首を傾げるジェイドの頭を撫でながらエルンストは続ける。
「…まあ、聞いた方が早いかな。世間には知られていないけど、とても素敵な曲だよ」
「そうですか…」
 ジェイドは分かった様な分からない様な表情で頷いた。
「…よし、それじゃあやってみるか…」
 ブロッケンJr.は深呼吸をするとピアノを弾き始める。澄んだピアノの音と低い歌声が部屋に響いた。

――浅い眠りに浮かぶのは
   私を照らすあなたの微笑み
   叶わぬ望みを胸に抱き
   私は歌う恋の歌
   風に乗せればこの歌は
   あなたの耳に届くでしょうか
   私の想いはどうすれば
   あなたに伝えられるでしょうか…

  …かすかに聞こえる囁きは
   我を導く君の歌声
   変わらぬ想い胸に秘め
   我はさまよう恋の闇
   この白き花の言葉借り
   君に伝えん我が想い
   果て無き闇を切り裂いて
   我たどり着かん君がもと――

 ブロッケンJr.は手を止めるとほっと息をついた。エルンストは拍手しながら彼に近付く。
「…まあ、20年振りにしちゃまともに弾けたかな」
「いいや、見事だったぞ。さすがだな…あれ、ジェイド」
 ふと二人が見るとジェイドが涙を零している。
「どうしたんだい、ジェイド」
「…ごめんなさい…何だか胸が一杯になっちゃって…」
 エルンストはジェイドの側に行き彼を抱き締めると、その背中を優しく叩く。
「そうか…師匠のピアノ素敵だったな。ジェイド」
「はい…」
 ジェイドはしばらく泣いていたが、やがて手の甲で涙を拭くと口を開いた。
「…ねぇ、レーラァ」
「何だ、ジェイド」
「ボクにピアノを教えて下さい…できればこの曲も。…ボク、この歌を覚えて歌いたいんです…ボクもこの曲をレーラァといっしょに歌えたらいいなって…」
 ブロッケンJr.は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐにいつもの厳しい師匠の表情になり口を開く。
「よし…と言いたいところだが…お前には訓練があるだろう。ピアノを弾く暇があるのか?」
「…あ」
 厳しい現実を突き付けられしゅんとするジェイド。そうした二人の様子を見たエルンストは、今までに見せた事がない様な厳しい表情でブロッケンJr.を見詰め、声を上げる。
「訓練訓練って…何言ってんだ!身体能力だけじゃいい超人になれないのは、お前が一番良く分かってるだろ!あれだけ色々な知識や技術を得ていたのに、『戦う事だけしか能がない』って20年も悩んだのは誰だよ…そうさ…あの時ずっとお前を見ている事しかできなかった俺の気持ちが分かるか!?」
「エルンスト…」
「お前は同じ事をしてジェイドをお前の二の舞にするのか?…俺は嫌だ!ジェイドまでお前みたいに苦しむのを見るなんて…!」
「…」
 涙を流しまくし立てるエルンストを、二人はどうすることもできずに見詰める。やがてブロッケンJr.は涙を流すエルンストの肩をそっと叩いた。
「そうだった…真の正義超人になるためには心が一番必要だ。…それは俺が一番分かっていたはずなのにな…訓練にかまけて大切な心の部分を軽視するなんて、俺はどうかしていた。すまない、エルンスト…」
「いや…俺こそきつい事を言ってすまなかった…」
 エルンストはすまなそうな表情を見せると、やがて穏やかな表情で口を開く。
「それに俺はジェイドをいい超人にするとか以前に、俺はこの曲を絶対後に伝えたいと思ってる。そして伝えるならお前の後を継ぐ奴がいいともな」
「『後を継ぐ者』…?」
 ブロッケンJr.が聞き返す。エルンストは頷くと続けた。
「そうだ。…ジェイドはお前を継ぐ奴だろ?それだけじゃない。ジェイドは何も知らないのに、詳しい事情を知らなきゃ陳腐な恋歌って取られても仕方ないこの曲の良さが、ちゃんと分かった。この曲を継ぐのにふさわしい奴だよ」
「そうかな…」
「そうさ」
 エルンストが笑う。ブロッケンJr.はしばらく考え込んでいたが、やがてふっと笑って頷いた。
「そうだな。…曲の事はともかく折角こいつが興味を持ったのだし、ピアノを覚えさせてみるか。しかし20年弾いてない俺は教えられねぇし、どうするか…」
「お前が駄目なら俺が教えるよ。お前ほど上手くはないが、基礎くらいは教えられるから…それとも俺じゃ嫌かい?ジェイド」
「いいえ、お願いします」
「俺からも頼む、エルンスト」
 二人の言葉にエルンストは頷くとジェイドの肩を叩いて片目をつぶる。
「よし、決まったな。でも訓練の合間の練習はきついぞ?ジェイド」
「はい!ボクがんばります!よろしくお願いしますねエルンストさん!」
「よかったなジェイド。…そうだ、今度はお前が弾けよエルンスト。ここまでやったんだ。今夜は折角だから歌おうぜ」
「そうだな…じゃ、お言葉に甘えて。…今度はジェイドも知ってる曲にしようか。何がいいかな?」
「そうですね…何にしようかな」


 その夜屋敷に響いた恋歌とその後の楽しい歌声。それは全ての過去に終止符を打ち、そして新たな未来への第一歩を踏み出すための序曲だったのかもしれない。