「ほら、こっちが一塁で…」
「知っているわよ、それくらい…」
裕海がくすくすと笑い、源三は席から浮いていた腰をようやく下ろす。
久々にお互いのスケジュールが合い、二人は揃って帰国していた。
今回は、かねてからの裕海の希望もあり、日本公演のスケジュールの合間を縫って野球観戦へ出かけることに。
帰国前に実家の両親に観戦チケットを頼んだところ、野球好きの長兄が喜んで席を用意してくれたのだが…。
「それにしても、部屋で野球を見られると思わなかったわ。」
「そうだよな…」
源三は、苦笑しながら大判のガラス窓を見る。
ごく普通に、スタンド席での観戦を予定していた二人は、球場に着くと、VIPルームに通されたのだった。
しかしそれだけではない。
ふいにインターホンが鳴り、源三は受話器を取る。
「若林さん、そろそろお願いします。」
係員から案内があり、返事をすると源三は受話器を置いた。
「凄いわね、こんなことってあるのかしら。」
目を輝かせて裕海は源三を見る。
「…いや、さすがに普通はそれはないな…。」
ドアの前で源三は裕海を振り返ると、また苦笑した。
*****
「本日の始球式は――ハンブルガーSVで活躍中のGK、若林源三さんです――!」
アナウンスと共に、周囲から拍手の音が落ちてくる。
トレードマークの帽子(一応ちゃんと被ってきた)を脱ぎ、四方に挨拶した。
とはいえ、その帽子は今日だけ野球のキャップなのだが。
鮮やかなブルーの真新しいキャップは、兄からチケットと共に贈られたもの。
VIP席の方からは、裕海が立ち上がって見ているのがぼんやりとだが分かる。
サッカー選手だというのに、マウンドに立つのが何故こんなに緊張するのか、源三は不思議だった。
始球式の投球だけで、もちろんゲームに参加するわけではない。
それなのに…。
緊張とともに地から湧き上がる熱。
高揚する気持ち。
どんなスポーツでも、フィールドには神聖な空気がある。
若林一家の男たちは皆スポーツ好きだ。
源三が幼少よりずっと続けているサッカーはもちろんのこと、野球もまた、一家に長く親しまれてきたスポーツである。
よく父や二人の兄達とキャッチボールをしたものだ。
父は球団関連の会社の役員と付き合いがあり、この手のセレモニーなどには子どもの時には何度か参加した覚えがある。
なので、この色の帽子を被るのも初めてではない。
思えば、自分も大きくなったものだと、あの頃被った帽子の場所を思い出せない自分に苦笑する。
つばをきゅっと下げ、帽子を被り直す。
大体…この帽子を兄から渡されたときから、何となく予感はしていたのだ。
*****
ここから見る景色は、確かに凄いのだが、臨場感に欠けるような気がする。
裕海は数回源三の試合を観戦したことがあるのだが、こんな風にガラスに隔てられた空間では初めてだった。
あれこれと、世話をしてくれた恋人の兄弟には申し訳ないのだが…。
「あ~あ、源三の投球シーン、私も近くで見たかったなァ。」
裕海は大判のガラス窓に張り付くようにして遠い源三の姿を眺めていた。
サッカーの試合を見に行ったときは、意外と源三は気づいてくれている(らしい)のだが、この透明な板一枚だけで、それは無理そうに思えてしまう。
写真も撮ろうと思っていたのだが、ここからでは無理そうだ。
仕方がないので、裕海は源三に向かって大げさに手を振る。
球場の大きなスクリーンには源三の姿が映っていた。
裕海は彼が野球のグローブを着けた姿も、そしてあんな風にマウンドに立つ姿も初めて見る。
妙な気持ちだが、それはそれでよく似合っていた。
源三の手から離れた球は、真っ直ぐに捕手のミットに投げ込まれ、予想外の出来事に会場も大いに沸く。
そんな源三の姿を、大きなビジョンでしか良く見られないことが残念だった。
今まで、そんなことは何度もあった。
けれど、違うように感じてしまうのは、このガラスの壁のせいなのだろう。
こつん、とガラスを軽く小突き、裕海は椅子に腰掛けた。
遠く見える源三が帽子を掲げ、拍手の中を退場しているとことだ。
*****
久しぶりの感触だったが、まずまずの結果だったと、源三は少しばかり高揚した気持ちのまま、裕海の待つVIPルームへ戻ってきた。
「裕海!」
源三の声に振り向いた裕海は、柔らかく微笑んだだけで、再び視線をガラスの外へ戻す。
「???」
習慣的に開いた両手を、元に戻すのが気恥ずかしく、背を向けた裕海の前で気まずい思いがした。
頭を軽く掻きながら、裕海の隣にそっと腰を下ろす。
裕海はじっと視線を試合場に注ぎ、何も言わない。
別に今更何を期待していたという訳でもないが、どことなく気持ちがしゅんとなったように思うのは…やはり、何かを期待していたということなのだろう。
子どものような感覚だが、実際そうなのだから仕方がない。
大体、野球を観るために来たのであって、自分を見せるためにここへ来たわけではないのだから。
そのように裕海の反応の薄さを自分でフォローしながら、源三もまた、裕海に倣って視線を移すのだった。
「源三、随分小柄な人が居るわ。わっ、変なバットの持ち方…。」
「あ、ああ、あれはだな、〝秘打〟って言うんだよ…」
裕海はバッターボックスに立った選手に釘付けになっている。
その選手が独特の打法でヒットを打つと、手を叩いて喜んだ。
「すごいわ!…そういえば…どこかで見たような気がする方ね…。」
「ああそうか、彼は確か…ピアニストとしても結構有名人だからな。」
世の中には想像もできないような才能の持ち主が居るものだと、源三はその選手を見る。
「ねぇ、あの人は走るのも面白いのね!!」
個性的な動きにいちいち裕海は感動し、手を叩いてはしゃいでいた。
*****
球場からすっかり人気がなくなってから、源三と裕海は帰路につくことに。
別に時間をずらす必要はなかったのだが、目立つからと関係者に止められたのだ。
数時間前とは逆に、すっかり静まった球場を何度か振り返りながら、源三は少しばかり寂しい気分がした。
「源三、何しょんぼりしてるの?」
そんな源三の心を見透かしたような台詞と共に、裕海の瞳がこちらを覗きこむ。
「ん、いや…。」
源三は立ち止まってきちんと振り返る。
煌々と照らす外野のライトは消え、もうバットの快音も、歓声も聞こえない球場。
「そういえば、源三はしばらくこんな風にスタジアムを振り返ることなんてなかったんじゃない?」
「そうだな…」
試合が終わっても尚…いつも背に聞こえるファンの声。
こんなに静かで暗いスタジアムを振り返ることは久しくなかった。
「私は、寂しかった。すごく。」
「えっ…?」
「一度目は源三の出ていない試合を一人で観に行った時の帰り。二度目はハンブルクの練習場の帰り。」
数年前の出来事を思い出した源三は、ちくんと胸が痛む。
この痛みは裕海と居るときあまり感じたことのない種の傷みだった。
こういうやり取りは多くのカップルが経験し――時々それは喧嘩などに発展することもある。
合宿などで友人から恋人に対する愚痴を聞いているなかで、何人かに一人は言う話題。
〝過去の過ちについて責められる〟
と言うヤツ。
確かに、これは少し堪えると源三は思った。
〝分かってるんだけど、こっちだってその時は謝ったし、今でも申し訳ないと思うことあるんだけど…とんでもないタイミングで持ち出されると…全く参るよな。〟
とある人物の顔をふっと思い浮かべる。
その話題が出るたびに落胆したり、その落胆を隠そうとついつい恋人に辛く当たり返してしまったり…面倒になって恋人と別れてしまったり。
過去の過ちとは、すなわち武器なのだろう。けれどそれは諸刃の剣にもなる危険なもので。
〝そんなキミの鈍感な心に気づいてもらいたくてわざわざ爪を立ててるんだろ?リスクを背負ってまでさ。〟
〝それはむしろラッキーなことだよ。それと引き換えに何をして欲しいかよく分かるじゃないか。〟
こなれた返答を返した友人が嫌に大人びて見えたが…。
裕海とは長い付き合いだが、そういえば今までその典型的な問題は起こらなかった。
責められるべき事はやっぱりお互いの中にあって、いつそれが起こってもおかしくない状況ではあったのに。
それはなぜかというと、つまり、裕海は過去のすれ違いをこんな風に源三に話したことがなかったのだ。
もし、あり得るとしたら、源三自身がそれを言う方だと思っていた。
裕海はどこか飄々としていて、いろんなことを知らないうちに風呂敷の中に包んで持って行ってしまう。
わざわざお互いが気まずくなることを自らしないようにしているのかも知れない。
だから、その何気ない一言は、いやに源三を驚かせたのだろう。
こんな時カッとなって言い返してしまう、という友人を思い出し、自分はそういうタイプじゃなくて良かったと、ひとまず安堵する。
「そうだな」
裕海の細い指を握り直し、そういえばあの時のことを、自分はきちんと彼女に謝ったのだろうか、と思う。
「寂しかったよな。ごめんな、裕海。」
あれこれ振り返るより、素直な言葉をすぐに言う方を選ぶことにする。
同じ方向を向いていたはずの裕海が驚いた顔をして源三を見た。
「…源三…ごめんなさい…そんな言葉を聞きたいわけではなかったのに…。」
「何で謝るんだよ、俺は素直な気持ちをそのまま口にしたまでだから。」
握り合った裕海の手が少し緩む。
さっきまでしょんぼりしているのは源三の方だと思って居たのだが、いつの間にか逆転してしまっている。
それはまだ裕海が不安だからなのだと、自省させられる。
源三はさらにぐっと力を込めて裕海の手を握った。
「…スタジアムって、試合が終わると本当に静かになるじゃない…?何だか自分があの場所に本当に居たのかどうか…まるで夢の中の出来事だったみたいに思えるの。」
しばらくしてから、裕海はようやく先ほどの台詞の続きを口にする。
「大丈夫だよ、大丈夫。」
源三はそう言うと、そっと裕海に口づけた。
目を丸くした裕海は、源三が先に目を閉じると、ぱち、ときちんと音を立てて瞼を閉じた。
「夢じゃない」
互いの顔が離れきる前に源三は裕海の頭を胸にそっと抱き寄せる。
「そうね、夢じゃない。」
顎の下で裕海のくすくす笑う声がこよばゆく、源三も同じように笑った。
「ねぇ、明日キャッチボールしてみたい」
「OK…・でも、怪我しないようにしないとな。」
運動音痴の裕海のおねだりに苦笑しながら、彼女の手を取ってまた歩き始める。
*****
――「おう、いい演出だったろう?」
受話器の向こうでは少々興奮気味の兄の声が聞こえる。
そんな状況に苦笑しながら、源三はとりあえず「ありがとう」と言った。
――「彼女は外国暮らしが長いからな~日本の野球なんて久しぶりだから喜んだだろ!始球式はどうだった??」
男三人兄弟の若林家では、降って湧いたように現れた源三の恋人、裕海をかなり歓迎している。
初めは母が、そして父が…そこからは二人の兄へ一気に広がっていった。
それは時に微妙なお節介を呼ぶ。そう、今回のような。
――「サインはどうだ?誰のが欲しい?裕海ちゃんに聞いておいてくれよ、源三。」
そしてこんな風にやたら裕海に何かプレゼントしたがるのである…。
「いや、別に…」
――「なんだなんだ、遠慮しなくていいんだぞ?山田か?犬飼か?それとも殿馬か?!」
「いいんだよ、兄さん。裕海はすごく喜んでいたから。」
――「それなら早く俺の義妹に代わってくれよ」
素っ気無い弟には用は無いと言うことらしい。
渋々裕海に受話器を渡した。
「お義兄さん、今日はすごく楽しかったです。ありがとうございます。」
裕海は傍で先ほどまで会話をほぼ聞いている。
何せ声が大きいため、受話器から兄の声が洩れてしまっているのだ。
――「そうかそうか、楽しかったか…義妹ってのはいいなぁ…弟なんて冷たいもんでさ…。また野球が観たくなったらいつでも言うんだぞ。」
「ええ、そうします。またお義兄さんも、コンサートのチケット…」
――「何を言ってるんだよ~そんな気を遣わなくてもいいからな!!」
そろそろ兄のテンションに裕海がついて行けなくなる頃である。
それを見計らって源三は裕海の手から受話器を取り上げた。
「兄さん、携帯の電池が切れそうだから、そろそろ切るよ。今日はありがとう。」
――「え、何?!いつの間に市外局番が3桁になったんだ??」
それには答えず、源三は携帯電話の〝切〟ボタンを押す。
その静けさに、裕海は少しばかりばつの悪そうな顔をしている。
「気にするなって。」
「でも」
「今日泊まってるホテルはちなみに俺が予約した。」
源三は裕海のボレロをさっと手に取り、裕海の肩に掛けてやる。
そっと裕海の右手を取って軽くキスした。
「これからは、本当に俺たちの時間。」
…と、いう訳で、K'm様のサイト『どかC』で500を斬った記念のリクSSでございます。見ての通り『どかC』はキャプ翼がメインでございますので若林源三氏とその相手キャラのオリキャラ裕海ちゃんがメインでドカの描写は少しなのですが、私の傾向を知ってちゃんとドカ要素を入れて下さったK'm様に感謝です☆
…って言うか斬りっぱなしで何もせずすいませんと土下座したくなる程斬ってる私に快くリクをさせて下さるK'm様、本当に感謝です。本当に何かありましたら何でもやります、はい。