「…じゃあ、姫二人は引き渡すぞ。後は任せた」

 柊司はにっと笑うと弥生と葉月をそれぞれの『恋人』に引き渡し手を挙げてその場を立ち去る。その痛む胸のままにほんの少し早足で歩き、地下鉄の入り口まで来た所で立ち止まると先刻まで見せていたいつもの癖にしているにっとした笑顔も消しふっとため息をついてどんよりと曇った空を見上げた。
「…ったく、仕事振りは冷血だの剃刀だの言われてる俺が、一皮むけばこのどうしようもないお人よし…なんだよなぁ…それに」
 柊司は葉月を思う。彼女の事は誰よりも…そう、土井垣よりもよく分かっていると自負しているし、彼女に対する想いだって土井垣には負けていないとも自負している。ただ一つ彼と違うとしたら、自分は彼女の『傷』を知り過ぎる程知っていたために、彼と違い彼女に対して『もう一歩』がどうしても踏み込めなかった。そのたった一つの事で今現在の葉月との間の彼と自分の位置関係ができてしまったのだとも分かり過ぎる程分かっていた。その悔やんでも悔やみきれない、そして悔やんでもどうしようもないとも分かっている後悔を思いながら、柊司は葉月が土井垣から今日の企画を話されチケットをもらい、今の自分に似合うものをと今年縫い上げた浴衣をこの日に着たい、記念品も欲しいし申し訳ないけれど一緒に来てもらえないかと躊躇いがちに自分に持ちかけてきた時の事を思い出す。彼はその気持ちを思い、自分を頼ってくれる嬉しさとそれでもその姿を一番に見せたい相手は自分ではないという胸の苦しさを覚えながらも、彼女の笑顔が何よりも嬉しいと思い、ならば最高に美しくしてその美しさも引き立たせてやろうと彼女の祖母の春日にも協力してもらい、帯も髪飾りも下駄も厳選して自分も普段用に使っている適当に仕立てた安物ではなく、浴衣姿でも礼を尽くさねばならない時のためにと身長が高い自分専用に特別に仕立ててもらった浴衣と、春日の夫が亡くなった時に形見分けでもらって大事にしていた角帯を選んで着る事にした。そうしてそれら全ての打ち合わせが終わった後、春日は言い聞かせて葉月を先に帰し、柊司にお茶をいれ、自分も飲みながら静かに語りかけた。

「…辛くないの?あの子が他の男のために綺麗になる手を貸すなんて」
「…ほんの少しだけ辛いですが…でも、ずっと言っている通り俺は葉月が幸せになれるならそれでいいんです。だからその手助けは全力でします」
「…そう」
 春日は一口お茶を飲んだ後しばらく沈黙していたが、やがてまた静かに語り始める。
「柊司君、今更だと思うかもしれないけどね。あなたには話した私があの子の成人式に振袖を仕立てた時あの子には内緒で『あれ』も一緒に仕立てていたのは、元々はあの子が振袖を仕立てた時遠くない将来、早ければ大学を卒業したらすぐにもあなたと一緒になるって龍太郎さん共々…きっとその時事故で亡くなられていた達吉さんもね…思っていたからなのよ。でもあなたは『葉月はまだ『事件』から立ち直っていません。そんな葉月に俺の気持ちを押し付ける様な無理強いはできません』って無邪気に懐いているあの子をずっと傍で優しく見守るだけ。それが私にはとても歯がゆくて…そうしているうちに、一番あの子の花嫁姿を見たがっていた龍太郎さんが若い頃から色々患った方だったとはいえ急に亡くなって…私は龍太郎さんの死もそうだけど、あの人の望みが叶えられなかった事が哀しくて…自分の手で早く龍太郎さんのその望みを叶えないとって焦って…丁度その時に弔問にいらした将さんのおじい様が持ちかけたお見合い話に乗ってしまった。…そのままあれよあれよと進んで行ってしまって、結果一番あの子を大事にしてくれたあなたをないがしろにしてしまったわ。…葉月は確かに今の状態も幸せそうだし、私が望んだあの子の花嫁姿にも近づけたかもしれない。でも私は後悔したわ。あの時…将さんのおじい様がお見合い話を持ち掛けた時にあれだけ葉月が強硬に断っていたのだから…あなたの事を考えて、将さんのおじい様に『この子にははっきりした約束こそないですが、夫にしてもいいと思っている男性がいます。簡単にお見合いは受けられない身の子なんです』と私も一緒に断っていたらって…」
 春日の苦しげな表情に柊司は宥める様に笑うと、静かに言葉を返す。
「おばあちゃん、そんな風に自分を責めないで下さい。何にせよ、葉月はちゃんと土井垣に恋をしています。だから俺の事はどうだってかまわないんですよ。ずっと想い続けて近くにいても、あいつはそれに気づかなかった、でも土井垣とは出会ってすぐに恋をした。…そこの違いが今なんですから」
 柊司の言葉に春日は頭を振って返す。
「いいえ、恋をしているとは限らないわ。誰であれ、嫌悪感さえ持たなければ、縁ができた相手には恋じゃなくてもそれなりの情が湧いて離れられなくなるものなのよ。…私の話で悪いけど、私が龍太郎さんとの結婚が決まった時の反応の事、知らないでしょ。それを話すわ。あなたが見ていた私達からは信じられないでしょうけど…当日まで直に会えなくて、私は『結婚なんて嫌』って泣いて抵抗したのよ?それでも結婚は覆らなかった。だからその生活に馴染んでいくしかなかった。もちろん龍太郎さんは患いが多かったけど優しい人だったし、あの頃の男性にしては珍しく私がやりたい事も自由にやる様にって言って好きな事はもちろんだし、洋裁の仕事も続けたければ続けなさい…いや続けないといけない、自分も家事も子供の世話もできる限りの事はするからって言って実行もしてくれたとってもいい人だった。まあ私は結局その当時の慣例に従う道を選んで専業主婦になった訳だけど。そうして子供にも恵まれて、長く一緒に暮らしていくうちに愛情は持てたし、今思い返せばとても幸せで、いい結婚生活だったと思う。でも恋愛って意味ではどうだったかしらって今でも思うの。それがいいとか悪いとかじゃないけど、情でも人は一緒にいられるし、離れられないものなのよ。だから葉月が将さんと本当に恋をしているとは思い込まない方がいいわ…それにね」
「それに?」
「もしかすると、葉月は柊司君に恋をしなかったんじゃなくって…『事件』のせいで『傷』を負ったあの子は…無意識かもしれないけど柊司君の事は…恋愛って位置に置きたくないのかもしれないわ。『事件』から立ち直れてたとしても…『傷』のせいで男女の面で睦み合う恋愛とかがまだ汚いってどこかで思っていて…小さい頃からずっと一緒で大好きだった大切な柊司君はそんな汚くて生臭いって思っているものじゃない、もっときれいな所…宝物みたいに一番大切な所に置いておきたいのかもしれない。柊司君はそれだと辛いかもしれないけど」
「…そう思いますか」
「ええ」
「…そうですか。…じゃあ俺は…自分からその『宝物』の座をかなぐり捨てて、葉月が一番俺を置きたくなかった汚くて生臭い所に飛び込んだって事ですね。俺は…土井垣に『宣戦布告』をして、葉月にも俺の想いをはっきり告げましたから」
 そう言って微笑みながらお茶を口にする柊司を春日は驚いた表情で見詰める。
「柊司君」
 驚いて自分を見る春日に、柊司は微笑んだまま、しかし眼差しと口調は真剣なもので静かに言葉を返していく。
「確かに俺は葉月の幸せを願っていますし、そのためなら何でもします。だから一生俺は何も言わないで独りのまま葉月の幸せを見守っていこうって思っていました。でも…土井垣のはっきりしない態度は長過ぎましたし、あいつは葉月に対してあんまりにも無神経な扱いをし過ぎました。だから…あえて俺も名乗りを上げました。葉月は苦しいと思います。愛しているから土井垣は切り捨てられない…かといって、こう言っては何ですけど…愛か情かは分かりませんけど、俺を切り捨てる事も…絶対できないと思いますから」
「…そう」
「…はい」
 柊司の言葉に春日はまたお茶を一口飲むと、不意ににっこり微笑んで言葉を紡ぐ。
「…それ位『悪い男』の方が葉月のためにはいいわ。今までのあなたは『いい人』過ぎた。それで割り切りも早ければそれで良かったのかもしれなかったのかもしれないけれど…割り切れなかったでしょう?だったら必要以上に『いい人』でいるのはやめなさい。悪意があるならともかく、本気で愛してくれるなら、『悪い男』でも構わない。その想いを受け取るかどうか位でボロボロになる様な育て方を、祖母としてだけじゃなくて、忙しかった六花子と一緒に『母親』としてあの子に接していた私は…あの子にはしていないわ」
「おばあちゃん」
 今度は逆に驚いた柊司に春日はにっこり微笑んだまま続ける。
「確かに二人を選ぶのにあの子は迷うし、苦しい思いをするでしょう。それにどちらを選んでも…あなたを含めた三人ともそれなりに傷つくのは確かよ。でもね、二人のどちらを選んでも、それぞれ違った幸せが…あの子には待っている。それも確かだって私はちゃんと分かっているわ。だから『あれ』にあの子が柊司君と将さんどちらのために袖を通す事になるか…私に見届けさせて。約束よ、しっかり本気で取り合いしなさい。…でもね、あなたが勝った場合、もれなく雅昭さんから…松太さんからもね…殴られるのは覚悟なさいね」
「…はい」
 柊司は笑って頷くとお茶を飲み干した。春日はお茶をいれ直すと更に言葉を重ねる。
「でも決着は私にお迎えが来る前のなるべく早めにね。まあ今の調子だと一応美月ちゃんが成人するまでの後20年くらいは大丈夫だとは思うけど…龍太郎さんはともかく、どこも悪い所がなくてピンピンしてた達吉さんみたいにいきなり交通事故でぽっくり、なんて事もないとは言い切れないでしょ」
「はい、それも約束します」
 春日のおどけながらも心遣いのこもった優しい言葉に柊司も優しく微笑む。そして二人は和やかにお茶と煎餅を口にしていった――

『…とはいえ、今日はあいつの誕生日。あいつがしたい通りにさせてやらねぇとな。無理強いはできねぇやな。『悪い男』は休業。試合観戦と『織姫・彦星』のサプライズで我慢するか』
 そうして柊司は帯に提げた財布などを入れている小袋から小さなラッピングされた箱を取り出す。それは葉月の浴衣を見た後偶然京都に調査の仕事に出た時見つけた、浴衣にも、葉月にも似合うと思って買った簪。今日贈ろうと思っていた、しかし土井垣を見詰める葉月の表情を見ている内に贈りそびれてしまった誕生日プレゼント。そんな自分を思うと、まだ自分は春日が言う程『悪い男』にはなりきれていないのだろう。そのプレゼントを見て苦笑していると、ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。
「『雨降りフラレ、君にもフラレ』…か…この天気も含めると今日の俺は結局のとこは彦星じゃなくって『かささぎ』ってとこだな。…さて、久しぶりに何だか飲みたくなったぜ。『ノラ』に飲みに行くか。…マスターこのカッコだとびっくりするか…それとも『男前だね』って言ってくれるかな。んで本日の『かささぎ』の武勇伝でも話そうかね」
 その例えが何となく寂しいけれどおかしくてふっと笑うと、柊司は簪をしまって地下鉄の入り口に入る。
『…でも、『かささぎ』だって下剋上はするんだからな。その内本物の『彦星』になってやる。…油断すんなよ、土井垣』