「…ここは…?」
白い天井が紫野の視界に入って来た。何度も過ごしたため見慣れてしまった光景。でもなぜ私はここにいるのだろう…。
「目が覚めたみたいね、大丈夫?紫野ちゃん」
「よかったーっ!あたしね、おねーちゃんが、このままめがさめなかったらどーしよーって、ふ…ふぇぇぇ〜んっ!」
「千枝子ちゃん、泣いちゃだめだぞ。泣いていたら紫野が心配する」
「でも、あたしだってしんぱいしたんだもぉん…っ」
紫野はベッドに寝た状態で顔を向けると、そこにはべそをかいている小さな女の子と白衣姿の女性、そして彼女の兄がいた。全員見慣れた顔である。
「千枝子ちゃんに伯母様、兄様まで…どうしていらっしゃるの?それに私は一体…?」
上体を起こそうとすると白衣姿の女性――草薙静がそれを制止する。
「だめよ、まだ起きたら。調子が良くないのに無理して走ったりするから発作を起こしたの。付き添いが一緒に倒れたのは初めてよ。まったくもう、この間検診したばっかりなのに…」
「はい…」
――そうだった。私は草薙様の所にオロチの気配を感じて――
「でもそのおかげでうちのバカ息子は無事だったのよね。ありがとう三人とも、京を助けてくれて」
静は微笑みながら三人に声を掛けた。
「いえ、そんな…こちらこそご迷惑ばかり…」
「あたしはなんにもしてないよ。おねーちゃんのてあてがよかったんだよ」
「そんな事ないわ。あなたが庵君を呼んで来てくれたから早く治療ができたのよ。えらかったわね」
そう言うと静は千枝子の側にしゃがみ込んでその頭をなでる。
「ほんとに?」
「そうよ」
「えへへ…」
照れた様に千枝子が笑う。静はカルテを見ると紫野に向き直り口を開く。
「さて、今日はここでゆっくり休みなさい。家には庵君が連絡してくれたから」
静は傍らにいる庵を指した。庵はいつものポーカーフェイスで紫野を見詰めていたが、彼女には兄が怒っていることが手に取る様に分かった。
「兄様…すみません…」
「俺に謝るより父さん達に謝るんだな。全く無理ばかりして心配をかけてばかりじゃないか」
「はい…」
叱られてしゅんとする紫野を見て静が庵をなだめる。
「庵君、今回は紫野ちゃんを許してあげて。すべてはうちのバカ息子がいけないんだから」
「その『バカ息子』ですけど、さっき見てきましたよ。怪我がひどい割に威勢は良かったから、大丈夫じゃないでしょうか」
「あら、意識が戻ったのね。なら大丈夫だわ」
静は庵の言葉にほっとした表情を見せた。庵は静の方から千枝子の方に向き直るとその頭をポンと叩き、声を掛ける。
「うちの父さん達がもう直ぐ来るだろう、そうしたら千枝子ちゃんは帰ろうな」
「やだ」
即答する千枝子に庵は困った顔をしながら千枝子の目の前に腰をおろし言い聞かせる。
「もう遅いし、さっき電話をしたらおじさん達も心配していただろう?」
「やだよ、きょうはおねーちゃんのとこにいたい!」
泣きそうな千枝子を見て紫野が言った。
「千枝子ちゃん、私はもう大丈夫ですからお帰りなさい」
「でもぉ…」
「お家の方を心配させてはいけませんよ、ね?」
「…ん…」
渋々うなずく千枝子を見て紫野は微笑んだ。静もそれを見て微笑むとカルテを置いた。
「じゃ、私は京の様子をちょっと見てくるわ。庵君、ここお願い…」
そこまで言った時、いきなり荒々しい音を立ててドアが開く。そこにはかなり慌てた様子の紅丸と大門が立っていた。
「おばさん!京が、京が病室を出て行っちまった…!」
「えっ…」
「何ですって!」
「あいつ、意識が戻ったんだけど何か知らない奴にボコボコにされたのが悔しかったらしくて…。それに八神のヤローが挑発する様な事を言ったから…って何でてめーがここに…それにさっきのチビまで…」
「ちびじゃないもん!ちゃんと『ふじしろちえこ』ってなまえがあるんだから!」
「んなこたどうでもいい!おばさん、説明してくれよ!何でこいつが…」
激昂する紅丸に対し庵は冷静に答える。
「俺は妹の付き添いだ。他意はない」
「…妹…?本当なのかよ!」
「庵君の言うとおりよ。それに、京を助けてくれたのは他でもないそこのお嬢さんなんだから。無理して具合が悪くなったから庵君に付き添ってもらったんだけど…」
「けっ、どうだか。八神の妹だぜ、京を助けるなんざ信じられねぇな」
「…」
「待て、紅丸」
紫野の表情に翳りを見た大門が紅丸の言葉をさえぎろうとする。しかし興奮した紅丸はそのまま一気にまくしたてた。
「言わせてくれよオッサン、八神は今まであれだけ京を敵視してきたんだ。妹だってそうじゃないとは言い切れないさ。案外そいつが京をボコボコに…」
――パァン!――
甲高い音がして紅丸がよろける。そこには怒りの色を露にした庵が仁王立ちに立っていた。
「…にすんだ!」
「俺のことはいくら言ってもかまわん。しかし、妹を侮辱する事だけは決して許さん!」
千枝子も紅丸の体をポカポカと叩く。
「そーだよ!おねーちゃんはいっしょうけんめいこわいおじさんからあのひとをまもってたんだよ!きゅうきゅうしゃがきてからだって、じぶんがぐあいわるいのににあのひとをはこばせたんだから!それなのにひどいよぉ!あやまってよ!あやまれぇ!」
そう言うと千枝子は泣き出した。大門はなだめる様に千枝子の頭を撫でると口を開く。
「…どうやら、お前の負けの様だな」
紅丸はフンと顔を背けた。悪いと思ってはいるが謝るのはしゃくにさわるらしい。その様子を見ていた静も泣いている千枝子をなだめながらそこにいる全員に声を掛ける。
「喧嘩はやめなさい。それよりも早く京を見付けないと…まあ紫野ちゃん、だめよ!」
その声に全員が紫野のいた方向を向く。彼女はすでにベッドから起き出し、おぼつかない足取りで病室を出ようとしていたのだ。ドアに近いところにいた大門がそれを引き止めた。
「放して下さい!」
「その様な状態で行けばどうなるか分からんぞ、それでもいいのか」
「私はかまいません、それよりもあの方を…」
「あなたはそれでいいかもしれんが、他の人間が悲しむだろう。さあ」
「…」
彼はそう言うと紫野を庵に引き渡した。
「…すまんな」
「いや…では医師、私と紅丸で京を探して来ます」
「お願いするわ」
大門はうなずくと紅丸を促した。
「行くぞ、紅丸」
「おーよ」
「…お待ちになって下さい」
二人がドアの方へ歩いていこうとするのを紫野は引き止めた。
「…んだよ、まだ何かあるのか」
「ただ闇雲に捜しては時間もかかりましょう。私が大体の場所を見付けます」
「そんな事が出来るのか?」
「ええ、草薙の方の気なら簡単に…ただし私たちの事は内密に…」
そう言って暝黙しようとする紫野を表情をいつものポーカーフェイスに戻した庵が止める。
「待て、今のお前では体が持たん。俺も力を貸す」
「八神…」
「貴様等の為ではない、医師とこいつの為だ…紫野、いいな」
「はい」
紫野が瞑黙するのに合わせて庵が彼女を炎で包む。そこにはオロチの影など微塵もなく、二人の姿はむしろ神々しいまでに輝いていた。
「すげぇ…」
「おねーちゃんたち…きれい…」
ふっと紫野の目が開く。ぐったりとした紫野を倒れない様に庵が支えた。
「分かりました、東の…木に囲まれた所です…」
「この辺で木がある所っつーと…裏山か!よし行くぜ、オッサン」
「うむ」
紅丸は飛び出そうとしたが、ふと立ち止まり紫野達に近付いた。
「…悪かったな」
それだけ言うとくるりと引き返し出ていった。疲れ切った表情の紫野を庵がベッドに戻す。
「おねーちゃん、だいじょうぶ?」
「ごめんなさいね、紫野ちゃん。まったくあのバカ息子ったら…見付かったらお礼を言わせなくちゃ」
「いいのです、私が勝手にしたことですもの」
そう言って微笑む紫野の額を庵は撫でる。
「…また無理をして…あいつにも何かを仕掛けただろう」
「…治癒の為に自分の能力を分けただけですわ」
「嘘をつけ…まあいい、今日はゆっくり休め」
「はい」
――
そう、今日は何も考えずに休もう。兄様のことはきっと草薙様が何とかして下さる…私はとにかく体を整えてオロチを鎮める方法を見付けよう…そのためにも今日は何も考えずに――