「…すいませんボンベ先生、無理を言ってしまって。今日は休診って言っても処置室を占領はさすがにまずいですよね」
少しラフなシャツにロングスカート姿の女性――美山絵里香は、ここの医師らしき白衣姿の男性に申し訳なさそうに頭を下げた。頭を下げられたボンベ――正確にはドクターボンベJr.――は穏やかに笑いながら口を開く。
「いいんだよ。彼女も慣れない外国で大変だったんだろうし、休ませてあげよう。それに本当にめまいが酷いみたいだから、しばらく動かない方がいいだろうしね」
「そうですか…じゃあやっぱり一晩は入院した方がいいですか?」
心配そうに口を開く絵里香にボンベは穏やかな表情のまま首を振った。
「いや、入院する程ではないよ。むしろ入院だと彼女の負担も大きくなるだろうから美山さんが付いてあげてゆっくり動く様にして帰ればいいよ。それに、君の所にいるなら入院しなくても大丈夫だろ?」
そう言うとボンベは悪戯っぽい表情で片目をつぶる。その表情に絵里香もその言葉の意味を理解し、くすりと笑って口を開く。
「そうですね…うちには医療のプロがごろごろいますっけ」
「そういう事。いざとなったらここにも近いだろ?」
「確かに…看護師寮ですからね」
そう言うと二人は明るく笑った。しばらく笑った後にボンベは絵里香の姿をみて不思議そうに口を開いた。
「そういえば美山さん、白衣はどうしたんだい?健診にいた時には着ていたみたいだけれど…」
ボンベの素朴な問いに、絵里香は不機嫌そうに表情を変える。
「脱ぎましたよ、あんな堅苦しい物。健診の手伝いは終わりましたし、こっちでは患者様や受診者様に関わる訳でもないですから。事務の私には白衣なんか汚れよけ位にしか役に立ちませんし」
不満げに言う絵里香に、ボンベは呆れた様な困った様な口調で口を開く。
「…でもその格好だと、病院に用事がある時また患者と間違われるよ。いくら半年の研修だからと言っても、一応ここのスタッフなんだから…」
ボンベの言葉に、絵里香は更に不機嫌な声で続ける。
「だったら先生からも、私に事務用の制服か、せめて名札を支給してくれる様に事務長に言って下さいよ。ここにいるのは半年だけだし、内向きの仕事でめったに患者様達とは関わらないからって、制服も名札もケチられて困ってるのは私なんですから。手伝いに出た時、白衣だからって何度ドクターに間違われたと思います?」
「…確かにね」
もっともな絵里香の言葉にボンベも言葉を失って苦笑する。
「…まあ、半年の研修だからアパートとかマンション借りるのももったいないって事で、事務なのに看護師寮を特別に使わせてもらってるのは、ありがたいんですけどね」
そう言って溜息をつく絵里香に、ボンベはしみじみとした口調で声を掛ける。
「その研修もあと少しだねえ。どう?超人医療について少しは分かったかい?」
ボンベの問いに絵里香は少し機嫌を直したのか、楽しげに口を開いた。
「そうですね、普通の医療と違う所が多くて戸惑う事も多いですけど、医療行為はできないにしても事務も外に出て直接関われるのは楽しいですね。超人救急救命士の資格も取らせてもらいましたし、有意義ですよ」
「…で、超人MSWの方も取る気になったと」
ボンベの言葉に絵里香は少し驚いた表情を見せると、明るい口調できっぱりと口を開く。
「あ、もう聞いたんですか?はい、東京に帰ってから資格を取るための勉強をするつもりです。後、私東京で健診部門に戻りますから、衛生管理者の勉強もしてみようかと。うちの病院は超人医療と職業病が売りじゃないですか、現場にいる私が色々と知らないと、何かと不便だって良く分かりましたから」
「熱心な事だね。まあ、無理はしない様に。うちの奥さんも『えりちゃんは無茶が多くてすぐ身体を壊すから心配だ』って言っていたからね」
「楓さんが…嬉しいな、心配してくれてるんだ。ありがとうございますっていう事と東京に帰ったら遊びに行くって言っておいて下さい…っと、そういえばボンベ先生もそろそろ楓さんや萌ちゃんに会いたいんじゃないですか?今はオリンピックで日本中回ってて、帰れない訳でしょう?」
絵里香の言葉に、ボンベはのんびりとした口調で答える。
「そうだねえ。電話もメールも最近してないし、少し会いたくなったかな」
「メールもしないって…もしかしてオリンピックの仕事だけじゃなくて、東京から健診のフィルムをゴロゴロ送られてメールもろくにできないとかですか?ここ、それ位やりかねないし…」
少し怒った様に声をあげる絵里香にボンベは笑って否定する。
「いや、フィルムは石原先生と松山先生に代わりに見てもらっているよ。あのお二方なら塵肺の読影もできるし。連絡しないのは、オリンピック中は選手達の方に全力をあげたいからだよ。奥さん達には申し訳ないけどね」
ボンベの言葉に絵里香はほっとした様に頷く。
「そうですか…ならいいんですけど。でも塵肺が診られるドクターって少ないらしいですけど、超人医療ができるドクターはもっと少ないんですよね。良く考えると」
絵里香の言葉に、ボンベは穏やかに口を開く。
「そうだね、どっちも専門的な知識が必要だからね。それでなくてもただでさえ専門性が高くなった今の医療だと、普通のドクターが診るのは難しいかな」
「そういう意味では松山先生すごいですよね。超人医療も含めて何でもできるんですから…何でボンベ先生と交互にでもいいから、オリンピック回らなかったのかな…そうすればボンベ先生も楽なのに…あ、でもお歳の先生に全国回れって言うのは酷か…出歩くの大好きなご本人は喜びそうだけど…」
ぶつぶつとボンベに対しては気遣いからとはいえかなり失礼な発言を呟く絵里香に、ボンベはそれでも彼女の言葉に悪意が全く無い事が分かっているので、のんびりと口を開く。
「まあね。若い僕が回った方が経験になるだろ?それに松山先生が東京にいないと、東京で頚腕を診るドクターがいなくなるじゃないか。僕が残っても頚腕は診られないからね」
「そうですか…って…あ、すいません。何だかものすごく失礼な事を言っちゃいましたよね、今」
「いいんだよ、気にしなくて。…しかし、あと少しでそのオリンピックも終わる…か」
しみじみとした口調で言うボンベに合わせて絵里香もしみじみと口を開く。
「早いですね~。長いかな~と思ったんですけど、もう後決勝だけですからね」
明るく言う絵里香の言葉に、ボンベは少し沈んだ声で続けた。
「ああ、無事に終わってくれるといいんだけれど…医師としてやりがいはあるとはいえ、大きな怪我や病気を診るのはあんまりいい気持ちはしないよ。…あのジェイドみたいに、命に関わる怪我をされると特にね」
「そうですね…万が一のときに残された人達の事を考えると悲しくなりますね…」
絵里香はボンベの言葉にふと今処置室で眠っている少女に思いを馳せ、溜息をついた。その溜息に気付いたボンベは彼女を励ます様に背中を叩き、口を開く。
「その万一が無い様に、僕達が頑張らないとね。美山さんもそのためにこの世界に入って、もっと頑張りたいから資格を取るんだろ?」
ボンベの言葉に絵里香は一瞬驚いた表情を見せ、その後ゆっくりと微笑んだ。
「そうですよね。…皆がそれぞれの所で頑張っているのを支えたいと思って私、この世界に入ったんでした。それを忘れないで頑張らないといけませんね」
ボンベはその言葉を聞くと満足げに頷き、いつもの医師の表情に戻り穏やかに口を開く。
「…さあ、仕事が残ってるんだろ?事務長が『美山さんどこ行った』って探していたよ。彼女の事は心配いらないから、事務所に戻りなさい。…僕もジェイドの様子を見に行かないと。意識は回復したとはいえ、まだ安心はできないからね」
「はい、じゃあマノンとジェイド君の事よろしく頼みます。マノンは帰りに処置室に迎えに行けばいいですね?」
絵里香の言葉に、ボンベは穏やかに答える。
「ああ、それがいいかな。彼女が処置室にいるのが落ち着かない様なら、そっちに行ってもらうよ。君の傍の方が落ち着くかもしれないし、ゆっくり事務所の見学でもしてもらってもいいかもね」
「そうですね。…そうだ、少し位なら仕事を手伝ってもらってもいいですか?書類の送り作業がかなり忙しくて、皆パニクってるんですよ」
ふと思いついた様に口を開く絵里香に、ボンベは呆れた様な表情を見せる。
「…ちょっと殊勝な事を言ったかと思うと…ホントに不良職員だね、君は」
呆れた様に言うボンベに絵里香はにっこりと笑って口を開く。
「その位開き直らなきゃ、この職場では生きていけませんから」
「確かに」
そう言うと二人は明るい声で笑う。二人分の明るい笑い声が青空の中に吸い込まれていった。
少しラフなシャツにロングスカート姿の女性――美山絵里香は、ここの医師らしき白衣姿の男性に申し訳なさそうに頭を下げた。頭を下げられたボンベ――正確にはドクターボンベJr.――は穏やかに笑いながら口を開く。
「いいんだよ。彼女も慣れない外国で大変だったんだろうし、休ませてあげよう。それに本当にめまいが酷いみたいだから、しばらく動かない方がいいだろうしね」
「そうですか…じゃあやっぱり一晩は入院した方がいいですか?」
心配そうに口を開く絵里香にボンベは穏やかな表情のまま首を振った。
「いや、入院する程ではないよ。むしろ入院だと彼女の負担も大きくなるだろうから美山さんが付いてあげてゆっくり動く様にして帰ればいいよ。それに、君の所にいるなら入院しなくても大丈夫だろ?」
そう言うとボンベは悪戯っぽい表情で片目をつぶる。その表情に絵里香もその言葉の意味を理解し、くすりと笑って口を開く。
「そうですね…うちには医療のプロがごろごろいますっけ」
「そういう事。いざとなったらここにも近いだろ?」
「確かに…看護師寮ですからね」
そう言うと二人は明るく笑った。しばらく笑った後にボンベは絵里香の姿をみて不思議そうに口を開いた。
「そういえば美山さん、白衣はどうしたんだい?健診にいた時には着ていたみたいだけれど…」
ボンベの素朴な問いに、絵里香は不機嫌そうに表情を変える。
「脱ぎましたよ、あんな堅苦しい物。健診の手伝いは終わりましたし、こっちでは患者様や受診者様に関わる訳でもないですから。事務の私には白衣なんか汚れよけ位にしか役に立ちませんし」
不満げに言う絵里香に、ボンベは呆れた様な困った様な口調で口を開く。
「…でもその格好だと、病院に用事がある時また患者と間違われるよ。いくら半年の研修だからと言っても、一応ここのスタッフなんだから…」
ボンベの言葉に、絵里香は更に不機嫌な声で続ける。
「だったら先生からも、私に事務用の制服か、せめて名札を支給してくれる様に事務長に言って下さいよ。ここにいるのは半年だけだし、内向きの仕事でめったに患者様達とは関わらないからって、制服も名札もケチられて困ってるのは私なんですから。手伝いに出た時、白衣だからって何度ドクターに間違われたと思います?」
「…確かにね」
もっともな絵里香の言葉にボンベも言葉を失って苦笑する。
「…まあ、半年の研修だからアパートとかマンション借りるのももったいないって事で、事務なのに看護師寮を特別に使わせてもらってるのは、ありがたいんですけどね」
そう言って溜息をつく絵里香に、ボンベはしみじみとした口調で声を掛ける。
「その研修もあと少しだねえ。どう?超人医療について少しは分かったかい?」
ボンベの問いに絵里香は少し機嫌を直したのか、楽しげに口を開いた。
「そうですね、普通の医療と違う所が多くて戸惑う事も多いですけど、医療行為はできないにしても事務も外に出て直接関われるのは楽しいですね。超人救急救命士の資格も取らせてもらいましたし、有意義ですよ」
「…で、超人MSWの方も取る気になったと」
ボンベの言葉に絵里香は少し驚いた表情を見せると、明るい口調できっぱりと口を開く。
「あ、もう聞いたんですか?はい、東京に帰ってから資格を取るための勉強をするつもりです。後、私東京で健診部門に戻りますから、衛生管理者の勉強もしてみようかと。うちの病院は超人医療と職業病が売りじゃないですか、現場にいる私が色々と知らないと、何かと不便だって良く分かりましたから」
「熱心な事だね。まあ、無理はしない様に。うちの奥さんも『えりちゃんは無茶が多くてすぐ身体を壊すから心配だ』って言っていたからね」
「楓さんが…嬉しいな、心配してくれてるんだ。ありがとうございますっていう事と東京に帰ったら遊びに行くって言っておいて下さい…っと、そういえばボンベ先生もそろそろ楓さんや萌ちゃんに会いたいんじゃないですか?今はオリンピックで日本中回ってて、帰れない訳でしょう?」
絵里香の言葉に、ボンベはのんびりとした口調で答える。
「そうだねえ。電話もメールも最近してないし、少し会いたくなったかな」
「メールもしないって…もしかしてオリンピックの仕事だけじゃなくて、東京から健診のフィルムをゴロゴロ送られてメールもろくにできないとかですか?ここ、それ位やりかねないし…」
少し怒った様に声をあげる絵里香にボンベは笑って否定する。
「いや、フィルムは石原先生と松山先生に代わりに見てもらっているよ。あのお二方なら塵肺の読影もできるし。連絡しないのは、オリンピック中は選手達の方に全力をあげたいからだよ。奥さん達には申し訳ないけどね」
ボンベの言葉に絵里香はほっとした様に頷く。
「そうですか…ならいいんですけど。でも塵肺が診られるドクターって少ないらしいですけど、超人医療ができるドクターはもっと少ないんですよね。良く考えると」
絵里香の言葉に、ボンベは穏やかに口を開く。
「そうだね、どっちも専門的な知識が必要だからね。それでなくてもただでさえ専門性が高くなった今の医療だと、普通のドクターが診るのは難しいかな」
「そういう意味では松山先生すごいですよね。超人医療も含めて何でもできるんですから…何でボンベ先生と交互にでもいいから、オリンピック回らなかったのかな…そうすればボンベ先生も楽なのに…あ、でもお歳の先生に全国回れって言うのは酷か…出歩くの大好きなご本人は喜びそうだけど…」
ぶつぶつとボンベに対しては気遣いからとはいえかなり失礼な発言を呟く絵里香に、ボンベはそれでも彼女の言葉に悪意が全く無い事が分かっているので、のんびりと口を開く。
「まあね。若い僕が回った方が経験になるだろ?それに松山先生が東京にいないと、東京で頚腕を診るドクターがいなくなるじゃないか。僕が残っても頚腕は診られないからね」
「そうですか…って…あ、すいません。何だかものすごく失礼な事を言っちゃいましたよね、今」
「いいんだよ、気にしなくて。…しかし、あと少しでそのオリンピックも終わる…か」
しみじみとした口調で言うボンベに合わせて絵里香もしみじみと口を開く。
「早いですね~。長いかな~と思ったんですけど、もう後決勝だけですからね」
明るく言う絵里香の言葉に、ボンベは少し沈んだ声で続けた。
「ああ、無事に終わってくれるといいんだけれど…医師としてやりがいはあるとはいえ、大きな怪我や病気を診るのはあんまりいい気持ちはしないよ。…あのジェイドみたいに、命に関わる怪我をされると特にね」
「そうですね…万が一のときに残された人達の事を考えると悲しくなりますね…」
絵里香はボンベの言葉にふと今処置室で眠っている少女に思いを馳せ、溜息をついた。その溜息に気付いたボンベは彼女を励ます様に背中を叩き、口を開く。
「その万一が無い様に、僕達が頑張らないとね。美山さんもそのためにこの世界に入って、もっと頑張りたいから資格を取るんだろ?」
ボンベの言葉に絵里香は一瞬驚いた表情を見せ、その後ゆっくりと微笑んだ。
「そうですよね。…皆がそれぞれの所で頑張っているのを支えたいと思って私、この世界に入ったんでした。それを忘れないで頑張らないといけませんね」
ボンベはその言葉を聞くと満足げに頷き、いつもの医師の表情に戻り穏やかに口を開く。
「…さあ、仕事が残ってるんだろ?事務長が『美山さんどこ行った』って探していたよ。彼女の事は心配いらないから、事務所に戻りなさい。…僕もジェイドの様子を見に行かないと。意識は回復したとはいえ、まだ安心はできないからね」
「はい、じゃあマノンとジェイド君の事よろしく頼みます。マノンは帰りに処置室に迎えに行けばいいですね?」
絵里香の言葉に、ボンベは穏やかに答える。
「ああ、それがいいかな。彼女が処置室にいるのが落ち着かない様なら、そっちに行ってもらうよ。君の傍の方が落ち着くかもしれないし、ゆっくり事務所の見学でもしてもらってもいいかもね」
「そうですね。…そうだ、少し位なら仕事を手伝ってもらってもいいですか?書類の送り作業がかなり忙しくて、皆パニクってるんですよ」
ふと思いついた様に口を開く絵里香に、ボンベは呆れた様な表情を見せる。
「…ちょっと殊勝な事を言ったかと思うと…ホントに不良職員だね、君は」
呆れた様に言うボンベに絵里香はにっこりと笑って口を開く。
「その位開き直らなきゃ、この職場では生きていけませんから」
「確かに」
そう言うと二人は明るい声で笑う。二人分の明るい笑い声が青空の中に吸い込まれていった。