土井垣はある事から入院している恋人の葉月がいる病院へと向かっていた。しかしその足取りは重い。彼女には心配を掛けたくないからとなるべく平静な態度で接しているが、その心中は申し訳なさと苦しさで張り裂けそうであった。何故なら今の彼女の心は14歳で、彼との記憶は全く彼女にはないのだ。彼女は彼の事が大切な存在で、思い出したいと言ってくれているが、それでも胸の苦しさは収まらない。何故なら彼女をそこまで追い詰めてしまったのは、自分達の仲がスクープされ、マスコミに追い掛け回されていた彼女を守れず死の寸前まで追いやった、自分のせいなのだから――そんな気持ちで病院に着き駐車場に車を止め車から出た時、不意に見知った、しかし今は会いたくない男の姿を見つける。その男はふっと笑って手を上げたが土井垣は淡々と、むしろ追い返そうという気持ちを込めて問いかけた。
「山井さん…どうしてここにいるんですか?」
 『山井さん』と呼ばれた男は土井垣の態度も気にせず、ふっと温和な表情を見せてその問いに答える。
「いや、ここに君の恋人が入院しているっていう情報を手に入れてね。例の騒動の後の事も知りたいし、できれば取材でも…と思って来たら君がいたって訳だ。君にも取材させてもらおうかな」
「…東日スポだけは彼女に関して正確な報道をしていたのは知っています。しかし、自分ならいくらでも取材は受けますが、今の彼女にあなた方を会わせる訳にはいきません。いや、それだけじゃない…本当は自分も、彼女も…お互い会うのが辛いんです」
「土井垣君、それはどういう…?」
 山井の問いに、土井垣は哀しげな表情を見せる。それで山井は二人に何かがあった事を察した。
「彼女に…何かあったのか?」
「言えません…言ったらスクープにでもするつもりでしょう?だから…言いません」
 表情は哀しげながらも、口調は決して彼を追い返す事に引く事はない姿勢を見せている土井垣の言葉に山井はしばらく沈黙していたが、やがて呟く様に口を開く。
「よっぽどの事があったんだな…その口の固さと、あれ程仲が良かった上君に優しい彼女に君が会うのが辛いって言う位だ。俺の勘も鈍っちゃいないってところだな」
「山井さん…?」
 山井は呟く様に続ける。
「あの、彼女の病院に俺達も含めた報道陣が押し寄せて、彼女が一喝して追い返した一件から、俺は個人的に彼女を追ってみたんだ。メッツを見詰めていくのが俺の使命だとは思っているが、追い返されて怒っていた番記者の様子を見ていて、そのメッツと同じ様な匂いを、彼女にも感じたんでね」
「山井さん」
「それで知った。彼女の仕事に対する使命感も、患者や君に対する愛も。それに…過去の真相も。だから君には全部話そう。俺が見たこと、した事、そして思った事を…な」
「…」
「俺は『あの事』も最初のスクープが出た時、事が事だから冷静に対処して真相をきちんと調べる様に番記者に言った。とはいえその番記者はまだ若いから、その後素人にものすごい剣幕で追い返された腹いせもあって冷静な対応ができそうになくなってね…権限を使って、無理矢理俺が後を引き継いだ。そして、幸か不幸か真相を知った。…番記者はスクープにしようと言ったが、俺にはどうしてもそれはできないし、許せなかった。あんな酷い事を記事にするのは、彼女に対して余りにも…残酷過ぎる」
「山井さん…」
 土井垣は言葉を失うのみ。山井は続ける。
「その後俺は彼女の本質が知りたくなって、実際に彼女の働いている病院や出張先にこっそり入って彼女を見た。俺がそうして見た彼女はいつも心優しく、誠実に仕事をこなしていた。それを見て彼女にとって病院や健診会場はただの職場じゃない、彼女の愛を与える場所だって事が痛い程伝わってきたよ。そしてそれだけじゃない…彼女はそれが全てじゃないが、無意識に過去の傷を癒すために、患者や受診者に対してあれだけ入れ込むんじゃないかと思った」
「…そうですか」
「…それからこれは言うべきか迷ったが…言おう。本当の事を言うと、俺はあの最初にスクープされた場面も偶然見ていたんだ。…その時はまだ彼女の事を知らなかったが、彼女も君も、お互いを大切にする事しか考えていない事だけは見ていて分かった。そしてその後彼女を知って確信した。お互いの気持ちは本物だとね。でも、その時の俺は最初の事はスクープとして取り上げたくなかったし、実際彼女の事も普通の記事として取り扱った。気持ちは本物だとしても、触れたら壊れてしまいそうな程…お互いが脆くも見えたからね。しかし別の社があんな風に取り上げる事までは止められなかった…」
「そう…ですか…」
「そんな彼女が患者や受診者を、何よりそんな風に大切に思っている君を放り出して入院するなんて相当の事だ。…なのに俺の取材目的の面会はともかく、彼女も辛いとはいえ君が会いたがらないなんて、理由はどうであれ哀し過ぎやしないか?君は彼女を包んであげるべきだ。会うのが辛いなんて、これ以上お互いの想いを壊してしまう様な哀しい事を言わないでくれ。これは記者としての言葉じゃない。…一個人、山井英司としての願いだ」
 山井が彼女と自分を気遣っている事は充分分かる言葉だった。しかしそう分かっていても、土井垣には耐えられなかった。土井垣は呟く様に口を開く。
「じゃあ…恋人が自分の事を覚えていなくても、山井さんは平気で会いに行けますか?」
「土井垣君、それは…?」
 訳が分からず問い返す山井に、土井垣はまくし立てていく。
「…守りきれなかっただけならまだ取り返しがつきます。でも…彼女は自分から死のうとして…命と引き換えに、今までの俺との記憶を全て失ってしまったんですよ!?守れずに死の寸前まで追いやった事も辛いですけど、それ以上に彼女が俺の事を覚えていないのが辛いんです!守れなかった代償としては俺にとっては重過ぎます!」
「…」
 いつの間にか土井垣は全てを吐き出していた。山井はそれを呆然として見詰めていたが、やがてふっと溜息をつくと、静かに問いかける。
「じゃあ…君はそこから逃げるのかい?」
「山井さん…?」
「逃げて、彼女との事をなかった事にして、新しい相手を見つけるのかい?…それもいいよね。彼女は君の事を覚えていないんだから」
「山井さん!何て事を…!」
「俺は一つの考え方を言っただけだよ。でも会って辛いならそれが一番お互いのためなんじゃない?楽に生きる方法はいくらでもあるものだよ」
「…っ!」
 山井の言葉に、土井垣は憤怒の形相で彼の襟首を掴み上げる。山井はふっと笑うと言葉を続けた。
「…ほら、想いはこんなにちゃんと残ってるじゃないか。その想いを大切にして、彼女を支えてあげなよ。命まで失うところだったんだろ?だったら命が助かっただけ幸いじゃないか。だから尚更彼女を支えてあげる事が必要なんじゃないかな?」
 山井の言葉に土井垣は彼の真意を知り解放すると、小さく溜息をつき、呟く様に言葉を紡ぐ。
「でも…自分には何をすれば彼女の支えになるのかが…分からないんです。彼女は自分が来ると、心底嬉しそうな表情を見せてくれます。でも、時折ふっと哀しげな表情を見せるんです。自分がいる事で、そんな哀しい表情を見せる彼女は…痛々しくて見ていられません」
「いいじゃないか…それで」
「え?」
「今の話を聞いていると、彼女は君が傍にいるだけで、きっと救われているんだと思える。哀しい表情になるのは、それに対して君にちゃんと気持ちを返したいけれど、どうやってその気持ちを返したらいいか分からないからなんじゃないかなって思うよ」
「山井さん…随分とこなれた回答ですね」
「伊達に君より長く人生生きてないよ…でも今の話で分かった、君達の今のお互いに対する想いがね。…それにしても、入院の真相がこんな三文芝居みたいな話だったなんてね。記事にしても馬鹿げてるって笑われるだけだろうから、彼女の事は記事にはしないよ。…だから土井垣君、彼女が回復するまでちゃんと守ってあげる様にね」
「…はい」
 山井の悪戯っぽい言葉に隠された優しさを感じ取り、土井垣は微笑んで頷く。二人の沈黙の間を初夏の風が通り過ぎていき、しばらく後に、土井垣が改めて口火を切る。
「そうだ山井さん」
「何だい?」
「自分の頭を冷やしてくれたお礼と言っては何ですが…取材はしないでただ見舞いをすると言うだけなら…彼女と会ってもいいですよ。いや…会ってあげてくれませんか」
「いいのかい?」
「はい。自分と一緒ならそれ程事情を聞かれずに入れますし、人が遊びに来るのを、本当は人懐っこい彼女は喜ぶんです。とはいえ彼女の病状については身内以外秘密で、その身内も忙しかったり遠方に住んでいますから、滅多に見舞いに来なくて彼女は寂しい思いをしているんです。ですから、面会人が来れば彼女はきっと喜びます。身元は…自分が世話になっている人という事にしますよ。そうすれば彼女も警戒しないでしょう」
「そうか…じゃあお言葉に甘えようかな。一応取材をするつもりだったからカムフラージュのための花は持って来てるし、これを本当のお見舞いの花束にしよう」
「そうですか…ありがとうございます。じゃあ行きましょう」
 二人はふっと笑い合うと、病院の入口に向かった。