総師の病とその急な悪化により渋民に戻った義経は、自らの目で師の無事を確認し師のために道場を継げと引き留めようとした武蔵坊との投打勝負にも投げ勝った上で彼を説得し、意識を戻した総師自身に見送られ東京に戻る。そして昨夜の試合中に召集の法螺の音を聞いた不安感と、おそらく帰還を望んだ師の念が重なった事によって放たれたろうバットを折った上での奇跡の勝ち越しソロホームランとは違い、自らの周囲の憂いが消えた安心感だけでなく、彼の更なる成長を望む師の心を改めて実感し、その望みに対する良い意味で身の引き締まる思いに包まれた状態で実際に自らの成長から放つことができたと自負する満塁ホームランを放ち、スターズを勝利に導いた。そして昨日からの不安と混乱がやっと落ち着いた時、不意に彼はその安心感でこの一日忘却していた存在に意識がやっと行き、その事で申し訳なさが押し寄せてきた。その存在――彼の実質の恋女房――は、仕事が休みになる週末に彼が首都圏での試合である時そうしている通り、昨夜から上京して自分のマンションに滞在しているはず。しかし、自分は師の異変に対する不安に思考の全てが行ってしまっていたとはいえその『彼女』の事を忘れて昨夜一切連絡せず家を空け、そのまま何事もなかったかの様に試合に出場していたのだ。以前あまりに自分達の仲がうまくいきすぎている事で、いつか裏腹に必ず別れが必ず訪れると心を痛めた『彼女』だ。連絡もなく帰らなかった上、揚句何事もなかったかの様に試合に出た自分に対して、どう思っただろう。連絡もなく帰らない自分にその事を思い出し確実に不安を抱いただけでなく、彼女がその不安を零した時に『自分はそんな事はしないしあなたにもさせないから絶対にない』と『彼女』のその不安に対して怒った自分がその言葉とは裏腹に起こした昨日から今までの行動と様子で、自分が『彼女』を裏切って不貞を働いたのでは、と怒りや悲しみを覚えているかもしれない。しかし、自分はそれだけの事をしてしまったのだとも自覚している。いくら大切な師の危機で頭が混乱していたからといって、最愛の女房を蔑ろにするどころか忘れ去るなんて、自分はどれだけ冷たい男なのだろう――彼は自身の無神経さに暗澹たる気持ちになった。
そして電話口では弁解になる様な気がして『彼女』に電話を掛ける事もできず、それでもこの溢れる申し訳なさを少しでも早く『彼女』に伝えたくて、彼は家路を急ぐ。そしてマンションのオートロックの前に来た時、そんな焦燥感とは裏腹にふと迷った。いつもなら彼女にこのドアを開けてもらって部屋に入るのだが、もし自らのこの一日の行動で彼女が悲しみや怒りからここを開けてくれなかったら…いや、それならまだいい。もしその心のままに帰ってしまっていたら――恐れと不安で荒れ狂う心を感じながら、しかし同時に一刻も早く『彼女』と向き合った上できちんと事情を話して謝りたいという気持ちが沸き上がり、その心のままにインターフォンにつながる番号を押した。なじられるか、無視されるか、いや、もう帰ってしまってそもそもここにいなかったら――そんな心を抱えた自分には、『彼女』の返答までの間がとてつもなく長く思えた。そしてスピーカーから『彼女』の声が帰ってくる。しかしその声は彼が恐れていた様な怒る口調でも、悲しむ口調でもなくいつもと同じ――いや、いつも以上に自分を気遣い、包み込んでくれる様な優しい声と口調だった。
『…光さん?』
その声と口調で彼は彼女がいてくれた安堵と共に、今までの申し訳なさが押し寄せてきて、そのまま言葉が溢れ出ていた。
「…ああ。若菜さん、本当にすまなかった。昨夜から何も連絡せず帰らなかっただけじゃない、理由があったとはいえ、俺はほんの少し前まであなたの事を忘れていた。こうして謝ったところで許してもらえなくても文句は言えない。でも、俺は…」
そこまでまくし立てたところで、彼女はそんな自分の状態を落ち着ける様に優しくその言葉を制した。
『…光さん、いいですから。…それより、疲れているでしょう?早く部屋に入って休んで下さい』
「…若菜さん」
彼女の言葉の優しさに彼はふと言葉を失い、目の前で開いたオートロックのドアに吸い込まれる様にそのまま中に入った。
部屋のドアもいつも通りチェーンロックが開いていて、ドアを開けるといつもの様に、しかしいつも以上に自分を気遣い、労る様な優しい微笑みで彼女が出迎えた。
「お帰りなさい…それから、お疲れさま。光さん」
その優しい微笑みで彼は申し訳なさと彼女に対する愛おしさが溢れてきて、その心のままに彼女をきつく抱き締めて、精一杯の謝罪の言葉を零していた。
「若菜さん、すまなかった。…俺は…」
そうして自分を抱き締める彼を彼女も包み込む様にその背に腕を回し、優しく囁き返す。
「大丈夫、私はちゃんと分かっているから…それより、今日は夜食より先にまずゆっくりお風呂に入って休んで。…この一日で渋民と東京を往復して前後に試合して、疲れてるでしょう?」
「若菜さん、何でそれを…」
全てを見透かしている様な彼女の言葉に彼は驚く。しかし彼女はそれに対しては何も応えず、ただ彼を気遣った優しい口調のまま言葉を重ねた。
「それは後でゆっくり話すから…まずはお風呂で身体を休めて。疲れて身体を壊したらいけないもの」
「あ、ああ。じゃあ…」
そうして彼女に促されるままに風呂に入って心身をほぐし、部屋着に着替えてキッチンに行くと、彼女はいつもの様に彼の夜食の汁物を用意し、微笑んで彼の席の前に座っていた。彼は彼女のそんなさりげない優しさに感謝しながら席に座り、汁物に手をつける。その汁物の温かさにも彼女の心遣いが感じられて、その心遣いの温かさが彼の身にも心にも染み通り、段々申し訳なさや焦燥感で高ぶっていた心が落ち着いてきた。そして彼が平常に近い状態になったのを察してか、彼女がおもむろに口火を切った。
「それで…総師様の状態はどうでしたか?」
その言葉と口調で、彼は彼女がある程度まで状況を分かった上で総師を心配しているのが分かり、その事を不思議に思いながらもならば、と静かに状況を話していく。そして一通り話し終わると彼女は安堵した様に言葉を零した。
「そうですか…まだ完全に安心、とまではいかないですけど、まずは大丈夫みたいですね。…よかった。おようもとっても心配してましたから、後で今の事伝えてもいいですか?」
「ああ、宮田さんは総師をとても慕っているし、総師も彼女を心底可愛がっているからな。心配は掛けたくないだろうし、俺からも頼む。…でも、俺は何も言わずにここまでいたのに、あなたは何故分かったんだ?」
彼の素朴な問いに、彼女は静かに答える。
「私はまだそれ程道場の事を知りませんが、道場の方が試合中に法螺貝を吹いた事で、道場に何か大変な事があったんだという程度は分かります。だからすぐに経緯を知っているだろうって思った武蔵坊さんの工房に電話を掛けたんです。もう武蔵坊さんは道場に向かっていましたが、残っていた彩子さんから大体の状況を聞いて、その後やっぱり何かあったんだって気付いたおようが心配して何か知らないか聞いてきた事もあったから、念のため土井垣さんにも連絡して光さんが戻った事を確認したんです。確かに不安はありました。でも、そこまで分かったから…ひと段落すれば必ず何かしら連絡をくれるって、あなたを信じて…待てました」
「若菜さん…」
彼は彼女の不安を乗り越えた冷静な対応と自分に対する信頼に驚くと共に、やはり自分の行動が申し訳なくなって、謝罪の言葉がまた零れていた。
「そうか…ありがとう。以前あれ程俺達の仲が壊れる、と恐れを抱いていたあなたなのに、俺をそんな風に信じてくれて。でも…だからこそ、それ以上に俺はあなたに申し訳ない。師の危機だったとはいえ、あなたをほんの少しの間でも忘れてしまっ…」
そこまで言ったところで彼女は優しく微笑んだまま、彼の言葉を制する様にテーブル越しに指先で彼の唇を覆う様に触れた。その行動で言葉を止めた彼に、彼女は微笑んだまま言葉を返していく。
「…いいんです。光さんにとって総師様は親にも等しい大切な師匠でしょう?そんな大切な存在に命に関わる様な事が起きたら、それ以外の事に目が向かなくなるのは当たり前です。私だって、おばあ様に何かあったらきっと…同じ様になります。それに」
「それに?」
「もし…あなたがそうして私の事を忘れたままになったとしても…もう私は前の様に、そんな簡単にあなたと離れる事を考える気はありません。昨日だって事情を知ったから待てましたが、それでももし今夜もあなたが連絡なしでここに帰って来なかったり、そもそも試合に出なかったら…私は押し掛けと言われても、今あるものを投げ出して生活が大きく変わる事になると分かっていても、あなたの後を追って…道場に向かうつもりでした」
「若菜さん」
「光さんが私の事を一番に考えて、私が一番いい様に生活の形を整えようとしてくれているのは分かっていますし、その気持ちは嬉しいです。でも、私も同じ様にあなたの一番いい形の生活に整える方向になる様何ができるか考えたり、そうなった時の準備はちゃんとしていますから…あなたももっと自分自身の事を考えて、どうしたいかを私に伝えて下さい。それが…今の私にとっては幸せですから」
彼女の言葉に彼は申し訳なさの代わりに、自分をこれ程に想う彼女に対する嬉しさと愛おしさが溢れてきて、その心のままに言葉を零した。
「若菜さん…ありがとう。あなたがそうして俺の事をちゃんと考えてくれていたんだと改めて分かって嬉しい。だから…今夜はもう一度ゆっくり話そう。様々な形になった時の…俺達のこれからについて」
「…はい」
彼女は自分の心がちゃんと彼に伝わった嬉しさで微笑む。そして二人は長い間自分達のこれからの幸せについて話し続けた。
そして電話口では弁解になる様な気がして『彼女』に電話を掛ける事もできず、それでもこの溢れる申し訳なさを少しでも早く『彼女』に伝えたくて、彼は家路を急ぐ。そしてマンションのオートロックの前に来た時、そんな焦燥感とは裏腹にふと迷った。いつもなら彼女にこのドアを開けてもらって部屋に入るのだが、もし自らのこの一日の行動で彼女が悲しみや怒りからここを開けてくれなかったら…いや、それならまだいい。もしその心のままに帰ってしまっていたら――恐れと不安で荒れ狂う心を感じながら、しかし同時に一刻も早く『彼女』と向き合った上できちんと事情を話して謝りたいという気持ちが沸き上がり、その心のままにインターフォンにつながる番号を押した。なじられるか、無視されるか、いや、もう帰ってしまってそもそもここにいなかったら――そんな心を抱えた自分には、『彼女』の返答までの間がとてつもなく長く思えた。そしてスピーカーから『彼女』の声が帰ってくる。しかしその声は彼が恐れていた様な怒る口調でも、悲しむ口調でもなくいつもと同じ――いや、いつも以上に自分を気遣い、包み込んでくれる様な優しい声と口調だった。
『…光さん?』
その声と口調で彼は彼女がいてくれた安堵と共に、今までの申し訳なさが押し寄せてきて、そのまま言葉が溢れ出ていた。
「…ああ。若菜さん、本当にすまなかった。昨夜から何も連絡せず帰らなかっただけじゃない、理由があったとはいえ、俺はほんの少し前まであなたの事を忘れていた。こうして謝ったところで許してもらえなくても文句は言えない。でも、俺は…」
そこまでまくし立てたところで、彼女はそんな自分の状態を落ち着ける様に優しくその言葉を制した。
『…光さん、いいですから。…それより、疲れているでしょう?早く部屋に入って休んで下さい』
「…若菜さん」
彼女の言葉の優しさに彼はふと言葉を失い、目の前で開いたオートロックのドアに吸い込まれる様にそのまま中に入った。
部屋のドアもいつも通りチェーンロックが開いていて、ドアを開けるといつもの様に、しかしいつも以上に自分を気遣い、労る様な優しい微笑みで彼女が出迎えた。
「お帰りなさい…それから、お疲れさま。光さん」
その優しい微笑みで彼は申し訳なさと彼女に対する愛おしさが溢れてきて、その心のままに彼女をきつく抱き締めて、精一杯の謝罪の言葉を零していた。
「若菜さん、すまなかった。…俺は…」
そうして自分を抱き締める彼を彼女も包み込む様にその背に腕を回し、優しく囁き返す。
「大丈夫、私はちゃんと分かっているから…それより、今日は夜食より先にまずゆっくりお風呂に入って休んで。…この一日で渋民と東京を往復して前後に試合して、疲れてるでしょう?」
「若菜さん、何でそれを…」
全てを見透かしている様な彼女の言葉に彼は驚く。しかし彼女はそれに対しては何も応えず、ただ彼を気遣った優しい口調のまま言葉を重ねた。
「それは後でゆっくり話すから…まずはお風呂で身体を休めて。疲れて身体を壊したらいけないもの」
「あ、ああ。じゃあ…」
そうして彼女に促されるままに風呂に入って心身をほぐし、部屋着に着替えてキッチンに行くと、彼女はいつもの様に彼の夜食の汁物を用意し、微笑んで彼の席の前に座っていた。彼は彼女のそんなさりげない優しさに感謝しながら席に座り、汁物に手をつける。その汁物の温かさにも彼女の心遣いが感じられて、その心遣いの温かさが彼の身にも心にも染み通り、段々申し訳なさや焦燥感で高ぶっていた心が落ち着いてきた。そして彼が平常に近い状態になったのを察してか、彼女がおもむろに口火を切った。
「それで…総師様の状態はどうでしたか?」
その言葉と口調で、彼は彼女がある程度まで状況を分かった上で総師を心配しているのが分かり、その事を不思議に思いながらもならば、と静かに状況を話していく。そして一通り話し終わると彼女は安堵した様に言葉を零した。
「そうですか…まだ完全に安心、とまではいかないですけど、まずは大丈夫みたいですね。…よかった。おようもとっても心配してましたから、後で今の事伝えてもいいですか?」
「ああ、宮田さんは総師をとても慕っているし、総師も彼女を心底可愛がっているからな。心配は掛けたくないだろうし、俺からも頼む。…でも、俺は何も言わずにここまでいたのに、あなたは何故分かったんだ?」
彼の素朴な問いに、彼女は静かに答える。
「私はまだそれ程道場の事を知りませんが、道場の方が試合中に法螺貝を吹いた事で、道場に何か大変な事があったんだという程度は分かります。だからすぐに経緯を知っているだろうって思った武蔵坊さんの工房に電話を掛けたんです。もう武蔵坊さんは道場に向かっていましたが、残っていた彩子さんから大体の状況を聞いて、その後やっぱり何かあったんだって気付いたおようが心配して何か知らないか聞いてきた事もあったから、念のため土井垣さんにも連絡して光さんが戻った事を確認したんです。確かに不安はありました。でも、そこまで分かったから…ひと段落すれば必ず何かしら連絡をくれるって、あなたを信じて…待てました」
「若菜さん…」
彼は彼女の不安を乗り越えた冷静な対応と自分に対する信頼に驚くと共に、やはり自分の行動が申し訳なくなって、謝罪の言葉がまた零れていた。
「そうか…ありがとう。以前あれ程俺達の仲が壊れる、と恐れを抱いていたあなたなのに、俺をそんな風に信じてくれて。でも…だからこそ、それ以上に俺はあなたに申し訳ない。師の危機だったとはいえ、あなたをほんの少しの間でも忘れてしまっ…」
そこまで言ったところで彼女は優しく微笑んだまま、彼の言葉を制する様にテーブル越しに指先で彼の唇を覆う様に触れた。その行動で言葉を止めた彼に、彼女は微笑んだまま言葉を返していく。
「…いいんです。光さんにとって総師様は親にも等しい大切な師匠でしょう?そんな大切な存在に命に関わる様な事が起きたら、それ以外の事に目が向かなくなるのは当たり前です。私だって、おばあ様に何かあったらきっと…同じ様になります。それに」
「それに?」
「もし…あなたがそうして私の事を忘れたままになったとしても…もう私は前の様に、そんな簡単にあなたと離れる事を考える気はありません。昨日だって事情を知ったから待てましたが、それでももし今夜もあなたが連絡なしでここに帰って来なかったり、そもそも試合に出なかったら…私は押し掛けと言われても、今あるものを投げ出して生活が大きく変わる事になると分かっていても、あなたの後を追って…道場に向かうつもりでした」
「若菜さん」
「光さんが私の事を一番に考えて、私が一番いい様に生活の形を整えようとしてくれているのは分かっていますし、その気持ちは嬉しいです。でも、私も同じ様にあなたの一番いい形の生活に整える方向になる様何ができるか考えたり、そうなった時の準備はちゃんとしていますから…あなたももっと自分自身の事を考えて、どうしたいかを私に伝えて下さい。それが…今の私にとっては幸せですから」
彼女の言葉に彼は申し訳なさの代わりに、自分をこれ程に想う彼女に対する嬉しさと愛おしさが溢れてきて、その心のままに言葉を零した。
「若菜さん…ありがとう。あなたがそうして俺の事をちゃんと考えてくれていたんだと改めて分かって嬉しい。だから…今夜はもう一度ゆっくり話そう。様々な形になった時の…俺達のこれからについて」
「…はい」
彼女は自分の心がちゃんと彼に伝わった嬉しさで微笑む。そして二人は長い間自分達のこれからの幸せについて話し続けた。