「老兵はただ去るのみ…」
 ブロッケンJr.は救急車で運ばれていく自分の弟子を見送ると、コートの衿を正しながら踵を返す。
『…とりあえずドイツに帰るか。…あいつには…もう会わない方がいいだろうな』
 ぼんやりと考えながらその場を立ち去ろうとすると、背後から女性の声がする。
「…どこへ行くんですか」
 もう誰も見向きもしないであろう自分に、声を掛ける人間がいる事に驚きながらも振り返ると、そこには見慣れた、しかしここにはいるはずのない人間が立っていた。
「マノン…どうしてここに…」
 『マノン』と呼ばれた黒髪にすみれ色の瞳の少女は、咎めるような表情で言葉を返す。
「そんな事はどうでもいいです。何を呑気に構えているんですか。ジェイドの一大事ですよ、師匠のあなたが付いていかなくてどうするんですか」
 マノンの言葉に、ブロッケンJr.は自嘲気味の笑みを見せて口を開く。
「あいつが自分で戦おうとした時点で、わしの役目は終わった。…今あいつに必要なのはわしではない、年若い仲間の励ましだ…」
「…」
「これからは、あいつが自分で学んでいくのだ…仲間や戦う相手からな。わしの存在はもう必要ない。わしの存在が必要ではなくなった今、わしが付いていく事もない…わしはこのまま帰り、あいつに会う事はもうないだろう…」
「…」
 マノンは何も言わず彼を見詰めていた。彼は一息つくと、話を打ち切ろうとする様に口を開く。
「さあ、分かったらもうわしを一人にしてくれ…」
 そう言って立ち去ろうとするブロッケンJr.の背中に、マノンはぽつりと、しかしはっきりと言葉を掛ける。
「…そうやって、また逃げるんですか」
「『逃げる』?」
 マノンの言葉にブロッケンJr.は振り返る。マノンは厳しげな表情と口調で、更にきっぱりと続けた。
「そうでしょう。前は自分の目標を失って酒に溺れ、今度は弟子が自立した事で自分はもう必要ないと姿を消す。…逃げてるじゃないですか」
「…」
 ブロッケンJr.は沈黙する。マノンはそれに構わず厳しげな表情のまま続けた。
「…ジェイドが自立したと言っても、あなたがあの人の師匠である事に変わりはないんですよ。師匠であるあなたがあの人を拒絶したら、あの人はどこへ帰ればいいんですか?」
 マノンの言葉に、ブロッケンJr.は苦笑いを見せながら口を開く。
「…手厳しいな」
 ブロッケンJr.の言葉に、マノンはさらりと応える。
「はい、私は両親とは違って、あなたに気を遣うという事を学んでいませんから。…言いたい事は言わせてもらいます」
「…そうか」
「たとえ教える事がなくなったとしても、あの人が迷った時、一番に導けるのはあなたです。そしてあなたがあの人の帰る場所である事は、変わりがありません。…少なくとも私はそう思います」
「マノン…」
 苦笑いを見せたままのブロッケンJr.に、厳しげな表情だったマノンは真剣なまま、しかし悲しげに表情を変え更に言葉を掛ける。
「ジェイドを見捨てないで下さい。あなたはあの人の師匠というだけでなく、育ての親を亡くしているあの人にとって、今ではたった一人の家族でもあるんです。そのあなたまで失ってしまったら、いくら仲間ができたとしても…あの人はもう立ち直れないかもしれません」
「…」
 マノンの表情と言葉に、ブロッケンJr.はふと表情を変える。マノンはそれを見ると、自分の気持ちが伝わったと思ったのか、畳み掛ける様に言葉を続けた。
「さあ、ジェイドがどこに運ばれたかは分かりませんが、探せば見つかります。行って下さい」
 マノンの言葉に、ブロッケンJr.は少し考える素振りを見せていたが、やがてふっと笑うと応える。
「…いや、やはりわしは行かないでおこう」
「そんな…」
 ブロッケンJr.の言葉に、マノンは今にも泣きそうな表情を見せる。それを宥める様に穏やかな笑みを見せながら、彼は更に言葉を続けた
「そう悲しい顔をするな。わしは何もジェイドを見捨てるから会わない訳ではない…」
「それじゃ…どうして…」
「ジェイドに伝えてくれ、これからは自分自身で学んでいくのだと、そしてもっと成長して、わしの元へ戻って来い。…それまでは会わん…とな」
「ブロッケンレーラァ…」
 ブロッケンJr.の言葉にマノンの表情が少し明るくなる。彼はその表情を見ると、ふと真剣な表情に戻り彼女に『依頼』をする。
「さあ、あいつが運ばれた病院だが…この辺りで本格的な超人医療が行えるのは超人病院しかない。おそらくあいつもそこに運ばれただろう。…すまないが、わしの代わりに行ってくれるか?」
「はい…分かりました。私が行ってもいいのなら行かせてもらいます…いえ、行かせて下さい。お願いします」
 マノンの真剣な言葉と表情に、ブロッケンJr.はぽつりと口を開く。
「お前の両親がわしを案じてくれる様に、お前もジェイドを案じてくれるのだな…」
「はい、それが私達一族の仕事ですから」
「そうではないだろう。お前の態度を見ていると、完全にお前の意思だと分かる…」
「…」
 ブロッケンJr.の言葉に、マノンは沈黙する。彼はその様子を見詰めつつ、穏やかに続けた。
「…今のお前の姿は、わしを主としてではなく、親友として案じてくれるお前の両親と同じだ。…ただ一つ違うところがあるとすれば…まあいい」
「何ですか?その『違う所』というのは」
 ふと言葉を濁すブロッケンJr.に、マノンは不思議そうな表情で問い掛ける。マノンの問いにブロッケンJr.は穏やかな笑みを見せて応えを濁し、続けた。
「その答えは自分で見つける事だ…さあ、行ってくれ。後は頼んだぞ」
「はい…では失礼します。ブロッケンレーラァ、お気をつけてお帰り下さい。ジェイドの容態は、両親を通じてお伝えします」
「分かった…よろしく頼む」
「はい」
 マノンは一礼すると踵を返し、小走りに去って行った。ブロッケンJr.はそれを見送るとふっと笑った。
「ジェイドもいい仲間に恵まれそうだな。…しかしその分、苦労も多くなりそうだ…」
 ブロッケンJr.は先程とは違った晴れやかな表情に変わる。
「俺も…新たな日々がまた始まるのだな」
 これからの日々がどうなって行くのかは自分にも分からない。しかし一つだけ言える事がある。それは、もうあの時の様に酒に溺れる事はないだろうという事。なぜなら今の自分はかけがえのない存在があり、その存在のために生きる事ができるのだから――自分の手を離れた時はその存在を失う時、そう思っていたが、手を離れる事と存在を失う事は違うのだという事を、思いもかけず気付かされた。ブロッケンJr.はその事を気付かせてくれた少女の事を思う。
「両親同様…いや、それ以上か…苦労をかけるが、あいつをよろしく頼むぞ。そして…頑張れ」
 ブロッケンJr.は雨が上がり明るくなった空を眺め、晴れやかな表情で歩き出した。