全身を走る激痛に彼は意識が回復してきた。回復する意識とともに、彼はゆっくりと目を開ける。ぼんやりと見えてきたのは見慣れない天井だった。ジェイドは激痛の中ふと考えを巡らせる。


――そうか、俺はヒカルドと戦って、負けて――


 痛みとともに湧き上がる悔しさに彼は顔を歪め、ふと見ると病室には三人の人間がいた。そこにいた三人の人間…それは――
「よかった~!ボーヤ!意識が戻ったんだね~!」
「こらこらヘルガ、大きな声を出すんじゃない。ここは病室、しかも集中治療室だぞ?」
「おじさん、おばさん…それに…」
 そこには自分の師匠の姿は見えず、代わりにここにはいるはずのない人間が立っていたのだ。ジェイドは『その人間』を認めて、驚きの表情を見せる。
「マノン…どうしてここに…?」
 マノンと呼ばれた、すみれ色の瞳に黒髪であろう髪が感染防止用の帽子から見える少女は、涙ぐみながら微笑んで口を開いた。
「良かった…目が覚めてくれて。…容態は安定したからってお医者様はおっしゃったらしいけど、ずっと目が覚めないから心配しちゃった」
 そう言って安心した様に溜息をつく彼女に痛みを堪えながらではあるが、厳しい口調でジェイドは問う。
「ああ…でも俺の質問には答えていないぞ。何でお前がここにいるんだ」
 ジェイドの厳しい口調の問いに、マノンは寂しげな口調で答える。
「本当はね、ドイツでお父さん達と一緒にテレビで観戦しようと思ったの。…でも、やっぱり我慢できなくて…決勝トーナメントだけでも直に観戦しようって思って、飛び出して来ちゃったの。チケットは蛇の道は蛇…で何とか手に入れてね。本当はジェイドには会わないで、こっそり観てようと思ったんだけど…あんな事があったから…」
 そこまで言ってマノンは辛そうな表情で俯いた。その後を取って、ヘルガが言葉を重ねる。
「びっくりしたよ~。あたしと旦那が救急車に乗ってあんたの傍に付いてたんだけどさ、手術室から出て来た時にこの娘が立ってるんだもの。時々あんたと一緒にソーセージを買いに来てくれてた娘だろ?どうしてここにいるか聞いたら『あんな事があったから、心配で病院を探し回ってここに来た』って言うし、追い出しちゃ悪いと思ってさ。一緒にいてもらったんだよ」
「そうか…おばさん、ありがとう。悪い事をさせたな、マノン」
 ヘルガの言葉に多少は悪いと思ったのか、ジェイドは少し申し訳なさそうに口を開く。その言葉にマノンは静かに首を振って応える。
「ううん…あたしが勝手にした事だもの。ジェイドが気にする事はないわ」
 そうした二人の様子に何かを感じたのか、ヘルガとその夫は揃って口を開く。
「さーてと、意識が戻ったみたいだし、あたしたちはアルツトに報告に言ってくるわ。それにあんたの師匠がどっか行っちゃったから、入院の手続きもしなくちゃいけないしね」
「マノンちゃん…と言ったかな。そう言う訳で私達は少しここを外すから、アルツトが来るまでここを看ていてもらえないかな」
「え…?あ…はい…。でも、私がここにいていいんですか?」
 驚いた様に答えるマノンに、ヘルガが明るい口調で答える。
「いいんだよ、あんたもあたし達と同じ様に、ボーヤとは縁が深い様だからね。あんたに看てもらっていると安心だよ」
「そうですか…では、お言葉に甘えます」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
 そう言うと二人は出て行った。残された二人に気まずい沈黙が訪れる。暫くの沈黙の後、ジェイドがその沈黙を破る様に口火を切った。
「そういえば、準決勝は…」
「万太郎さんが勝ったわ。…あなた、万太郎さんに『ヒカルドに勝て』って言ったそうね。万太郎さん、ちゃんと…あなたとの約束を守ったわ」
「そうか…」
 ジェイドは暫く天井を見詰めていたが、やがてばつの悪そうな口調で口を開く。
「マノン…またかっこ悪いところを見せちまったな」
 その言葉にマノンは静かに首を振る。
「ううん…あたしはそうは思わない。試合は今度勝てばいい事だと思う…だって、あそこでの様子を見ていてあなたは確かに負けたかもしれないけど、もっと大切なものを得たと思ったわ。…それよりも…あたしは、自分が情けなかった…」
「マノン…?」
 ジェイドが不思議そうな表情を見せる。マノンは辛そうな表情を再び見せ、言葉を零していく。
「『こっそり見ているだけでいい』なんて言って、あたしはあなたに何もしてあげられなかった。…応援は確かにしてたわ。…でも、セコンドにいたあの女の子みたいに、一緒に辛い障害物競走を走ったり、試合があんなに凄惨になったのにブロッケンレーラァに意見する事も、タオルを投げて試合を止める事も…本当に何もできなかった。…ごめんなさい…」
「マノン…」
 再び涙ぐむマノンをジェイドは何も言えず見詰める。しばらく彼女のすすり泣きの声が続いたが、やがてジェイドが天井を見詰めながら呟いた。
「…もういいよ。マノン」
「もういい…?」
 驚いた様に顔を上げるマノンに、ジェイドは天井を見詰めたまま続ける。
「お前は俺に見付からない様に、こっそり応援してくれてたんだろ?俺の気を散らさない様にって…」
「…」
「リンコがした事はリンコがした事、お前がした事はお前がした事、どっちがいいとか悪いとかじゃない。だからいいんだ。そんな事で悩まれちゃ…俺が困る」
「…ありがとう」
 ジェイドの言葉にマノンは微笑んだ。しかしすぐにその微笑みも自嘲的なものに変わり、続ける。
「でも、あたしが傍にいたらあなたの気が散るなんて、変な考えよね。…あなたと私って、ただの幼馴染みなだけなのに…」
 自嘲的なマノンの言葉を察してか、少し真剣な調子でジェイドは言葉を返す。
「…いや、確かにお前が傍にいたら、俺は気が散ってたかもな」
「え?」
 不思議そうな表情を見せるマノンに、ジェイドはおどける様な、しかし真剣さのこもった声で続ける。
「だってお前はレーラァの次に、俺のファイトに厳しい奴だからな。しかもレーラァと違って、お前には悪い所は見せられないと思ってるから…お前が傍にいたら、気張ってもっと散々な目に遭ってたかもしれない」
「ジェイド…」
 そこまで言うとジェイドはばつの悪そうな表情を再び見せ、横を向く。と、ふと思い出した様に口を開いた。
「そういえば、レーラァはどこへ行ったんだ…?」
 その問いに、マノンは静かに答えた。
「ブロッケンレーラァは…先にドイツへ帰られたわ。『自分でジェイドが戦おうとした時点でもう教える事は何も無い、自分の役目は終わった』っておっしゃって…」
「そんな…レーラァが…っ!」
 驚きの余り起き上がろうとしたジェイドの全身に激痛が走る。その様子に、マノンは慌ててジェイドを押さえた。
「駄目よジェイド。あちこち骨折してるし、頭は打ってるし、暫くは絶対安静なのよ」
「そんな事知るか!レーラァが…レーラァが、俺を置いていくなんて…!」
 『信じられない』という表情を見せるジェイドに、マノンは更に静かに言い聞かせる。
「どんなに硬い絆の師弟だって、いつか弟子は師匠の下から旅立たなくちゃいけないのよ。ブロッケンレーラァはそれを知ってるから、そしてあの時の様子を見て、それが今だと思ったから…あなたを置いていったのよ」
「そんな…俺はもっとレーラァに教わりたい事が一杯あったのに…!」
 人前だというのも構わず涙を流すジェイドに、マノンはまた静かに続ける。
「ううん…今度はジェイド…あなたが自分で学んでいくのよ。先輩から…仲間から…そして戦う相手から。…ブロッケンレーラァはそうおっしゃっていたわ」
「…」
「でもね、ブロッケンレーラァはいつまでもあなたの師匠よ…そしてあなたが帰る所もね。…たとえ教わる事が何もなくなってもそれは変わらない…あたしはそう思う」
 マノンの言葉をジェイドは黙って聞いていた。暫くまた気まずい沈黙が訪れる。そしてどの位時が経ったのであろうか、ジェイドがぽつりと口を開いた。
「…なあ、この怪我が治るまでどの位かかるんだ?」
 ジェイドの問いにマノンは小首をかしげながら答える。
「さあ…でもしっかり安静を守っていれば回復は早いと思うって、お医者様はおっしゃってたわ」
「そうか」
 ジェイドは暫く考える素振りを見せていたが、やがて何か決心した様にゆっくりとその『決心』を口にする。
「…この傷が治ったら、俺は旅に出る。…先輩の所や仲間の所を回って、もっと強くなる様に訓練する。今度はレーラァの力を借りずに…自分でやるんだ」
「そう…それはいいわね」
「でも…俺が帰る所はいつでも、いつまでもレーラァの所だ。…それでいいんだよな」
「…ええ」
 ジェイドの言葉には、決してヤケになった様子はなかった。自分を旅立たせてくれた師匠に感謝し、新しい道を開こうとする静かな決心に満ちた声――それに気付いたマノンは静かに彼に微笑み掛け、ジェイドも顔を見合わせて微笑みを返した。やがて、ジェイドがぽつりと口を開く。
「そうして俺が戻ったら、皆は俺を迎えてくれるかな…」
「…大丈夫よ。ブロッケンレーラァも、あのおば様たちも、あたしの両親も、もちろんあたしも…みんなあなたが強くなって帰ってくるのを待ってるわ」
「ならいい。…帰る場所があれば、どこに行っても寂しくはならないだろうしな」
「ヤーデ…」
 ジェイドの言葉にマノンは言葉が詰まり、いつの間にか幼い頃の呼び方でジェイドを呼んでいた。懐かしい呼び名にジェイドは反応し、懐かしげに口を開く。
「…まだその呼び方で呼んでくれるんだな」
「ごめんなさい。つい昔みたいに呼んじゃって。…あなたは『ジェイド』なのにね…」
「いや…俺はその呼び方も好きだぜ。…育ててくれたファーター、ムッターやレーラァ、それに肉屋のおばさん達やお前の両親に『ジェイド』って呼ばれるのは構わなかったけど、他の人間がそう呼ぶ時には大抵俺を見下してるか、同じドイツの者だって見てくれてないのが分かったからな…」
「そう…」
「お前が『ドイツの超人なのに英語読みはおかしい』ってドイツ語読みで俺の事を呼んでくれたのは、幼心にも嬉しかったよ。…『ヤーデ』って呼ばれると、俺はドイツの超人なんだって思えて、本当に嬉しかった…」
「…」
 マノンは恥ずかしそうな、しかし嬉しげな表情を見せる。そして彼女は少し考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開く。
「ヤーデ…もう少しでお医者様が来るわ。…だから今だけ…もう少しだけこう呼ばせてくれる?」
「ああ…いいぜ」
 マノンの言葉にジェイドは何かを感じたのか、ジェイドは頷く。マノンは彼の手を取り、涙をこぼして呟いた。
「ヤーデ…本当に生きていてくれて良かった…」
「マノン…」
「旅に出てもあたしの事…忘れないでね。ヤーデが強くなって帰ってくるのをあたし、待ってるから…」
「…ああ」
 二人に今度は暖かな沈黙が訪れた。そしてほんの少しの時間だろうか、それとも長い時間が経っていたのだろうか。廊下から医師であろう、急いだ様子の足音が近付いてくる。マノンは取っていたジェイドの手をゆっくりと離すとシーツの中に入れ、集中治療室の入口を見詰める。と、医師と看護師が二人入って来た。医師はカルテとジェイドを交互に見ながら、やんわりとした口調でジェイドに話し掛ける。
「意識が回復したんですね。これならもう集中治療室でなくても安心です。とはいえ怪我は酷いですから暫く個室に入ってもらって入院となりますので、回復するまで我慢してもらいますよ」
「分かりました。しばらくお世話になります」
 医師は今度はマノンに向き直ると、やはりやんわりとした口調で言葉を掛けた。
「それからお嬢さん、ここは完全看護です。患者は酷い怪我ですし疲れさせるといけませんから、今日のところはお帰り願えますか?また面会にいらしたかったら日を改めてと言う事で…」
 その言葉にマノンは少し寂しげな表情を見せたが、すぐに微笑むと頷いて答える。
「はい。…それじゃあ、私帰るわ。おば様たちによろしく言っておいてね。…それでは申し訳ありませんでした。失礼します」
 マノンは医師に向かって一礼すると、踵を返して集中治療室から出ようとしたが、何かを思い出した様にもう一度振り返り、ジェイドに向かって口を開いた。
「そうだ…私、すぐに帰国しなきゃいけないの。…だから、その前にもう一度会いに来てもいい?」
 ジェイドはマノンを見詰める。マノンの表情に、ジェイドは先程と同様、ゆっくりと頷いた。
「ああ…待ってるよ」
「ありがとう…『ジェイド』」
 マノンは寂しげに微笑むと、もう一度踵を返して部屋から出ようとする。と、彼女は突然しゃがみこんだ。ジェイドと看護婦が驚いて声を掛ける。
「マノン!」
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
 看護師に声を掛けられて、マノンは暫く焦点の合わない目をしていたが、やがて弱々しげに微笑んで口を開く。
「すいません…何だか少しめまいがして…」
 マノンの弱々しげな状態に、ジェイドは慌てて医師たちに声を掛ける。
「すいません。そういえばこいつ、あんまり丈夫じゃないんです。アルツト、看護婦さん、診てやってくれませんか」
「もちろんよ。…ちょっといい?この指を見て」
 そう言うと看護師は指を上下左右に動かす。マノンの目の動きを見た看護師はマノンに声を掛ける。
「本当、めまいがあるみたいね。あなた、外来に回った方がいいわ。見た所外国の人よね?ツアーか何かで来てるの?」
「いいえ…」
「じゃあ誰か知ってる人はいる?連絡した方がいいわね」
「それじゃあ、この名刺の人に…」
 そう言うとマノンはポケットから一枚の名刺を取り出した。看護師は名刺を見ると表情を変え、医師に何やら耳打ちをする。耳打ちをされた医師も表情を少し変えた。ジェイドはその様子に不審そうな表情を見せる。
「アルツト…?」
 不審そうな表情を見せるジェイドに、医師は安心させる様に気遣いながら声を掛ける。
「いや、君は気にしなくていい。君は君の怪我を治す事に専念しないと。彼女の事は任せなさい」
「はあ…」
「じゃあお嬢さん、急患扱いにするから一緒に行きましょうね」
「はい…」
 マノンは看護師に抱えられて集中治療室から出て行った。その様子を見てジェイドは彼女の事を考えた。
『あいつはいつもそうだ。…自分だって辛いのに、いつも俺の事ばかり気にして…もっと自分を大切にできないのか…』
 そう不満に思いつつも、ジェイドはある種の嬉しさを感じていた。どんなに辛い時にも自分の事を忘れないでくれる奴がいる――それは彼にとって心強いものだった。そしてそれは自分が負けて生命すら失いかけていた時に必死に声をかけてくれ、半ば強引に交わした自分との約束も果たしてくれた万太郎に対する感謝の気持ち――その気持ちに良く似ている様な気がした。


――もしかすると…これがレーラァがいつも言っていた『友情』ってものなのかもしれないな――


 考えている内にジェイドは暖かな気持ちに包まれ、ふと意識が遠くなってきた。


――…新しい日々がこれから始まるんだ。その日々を早く迎えるために早く傷を癒さなければな――


 ジェイドは暖かい気持ちに満たされ、再び深い眠りに落ちて行った。