クリスマスに近い日の夕刻、土井垣は駅の改札の前にいた。今日はある女性と食事の約束をしていて、仕事が終わってからここへやって来るその相手を待っているのだ。今日は冷え込みが厳しく駅の中とはいえかなり寒く、外へ一歩出れば吐く息も白くなる程。この気候だと相手に気を遣う性分のその女性がおそらく大急ぎでここへ向かっているだろう事を予想してふっと笑いながら、彼は去年の同じ時期に彼女とあった事を思い返していた。
「あの時はまさかこうなるとは思っていなかったな…」

「…あれ?土井垣さんじゃないですか。こんにちは。こんな所で会うなんて偶然ですね」
 その日の夕刻、土井垣は繁華街を歩いていた。世間はクリスマスで浮かれ騒いでいるが、土井垣にとってはクリスマスに過ごす人間などもいないし、かといって家族と過ごす年齢でもないので例年いつも通り野球三昧の日々を過ごしており、あまりその喧騒とは関係がない。しかしこうした華やかな雰囲気を楽しむのも悪くはないとふと思った彼が外へ出て街を歩いていた時、ばったりと知り合いの人間に会ったのだ。にっこりと笑って挨拶をする大小混じった紙袋を提げたその女性の笑顔と、いつものスーツ姿とはまた違う普段着を着た姿に土井垣は鼓動が速くなるのを感じていた。彼女の名は宮田葉月、土井垣とは彼女のサークル仲間との縁から知り合いになった人間であり、また土井垣の意中の女性でもあった。いつもは夜に彼女の入っているサークル仲間と土井垣が行きつけにしている飲み屋で会う位しか会える所がないし、少し前に一度だけ昼間に会った事もあったが、その時も他のサークル仲間の人間と一緒だったので、まさかこんな街中で、しかも彼女単体と会えるとは思っていなかった。速くなる鼓動を抑えつつ、顔が赤面していないだろうかなどと考えながらも、そうした様子は見せない様になるべく平静な口調で問いかける。
「宮田さんこそ、今日は平日だし、この時間だとまだ勤務時間だろう。仕事はいいのか?」
「はい、今日は日曜に出張に出た振休なんです」
 そう言って彼女はまた楽しそうににっこり笑う。土井垣とは意識的なベクトルは違うが彼女も土井垣と会えた偶然を楽しんでいる様である。その楽しげな様子に、まだ鼓動は速いものの勇気付けられた彼は更に彼女に話しかける。
「しかしその荷物は…買い物でもしていたのか?」
「はい、家族と友達へのクリスマスプレゼントを。土井垣さんもお買い物ですか?」
「え?…まあ、そんな所だな」
「そうですか…ックシュン!」
 にっこりと笑って土井垣と話していた彼女は不意にくしゃみをすると、ばつが悪そうに笑い彼に謝罪する。
「…あは、すいません。でも今日はちょっと寒いですね」
「いや、俺こそすまん。もう夜に近いし確かにかなり寒いのに外で長話をして。…そうだ、もしだったら暖を取るのにまた茶でも飲もうか。この近くにいい喫茶店があるんだ」
 こうして折角彼女と会えたのだからもう少しゆっくり話したいと思った土井垣は、彼女に誘いを掛ける。彼女はその言葉にためらう様な表情を見せて応えた。
「前にも言いましたけど、私なんかと二人でお茶したりしてていいんですか?何か下手な噂になったら迷惑するのは土井垣さんですよ」
「大丈夫だよ。そう簡単に変な噂は流されやしないさ。それに俺にとっては君も他の皆と一緒で大切な仲間だと思っているから、一緒に茶を飲むのも別におかしくはないと思っているし」
 本心は『大切な仲間』ではなく『惚れた女』なのだが、そう言って彼女との関係が気まずくなるのは本意ではないので彼女が気まずくならない様に言葉を選んで紡ぐ。その言葉に彼女は何故かふっと寂しそうな表情を見せた。その表情の意味が分からず土井垣は彼女に問いかける。
「…どうした?」
 土井垣の問いに彼女ははっとした様な表情を見せて元通りの、しかし少しぎこちない笑顔に戻ると明るい口調で答える。
「えっ?…あ、何でもないです。じゃあそう言って下さるならお言葉に甘えちゃおうかな。…そうだ、うっかりしてましたけど、この間は結局土井垣さんにお茶代おごらせちゃいましたよね。お詫びに今回は私がおごりますよ」
「いいさ、あの時は俺がおごるのが筋だっただろう?気にしなくていい」
「そうですか?じゃあお言葉に甘えて…でも今日はちゃんと払いますから」
「そうか、じゃあ行こうか」
 そう言って二人は土井垣の案内で歩き出す。この間はそれなりに話しながら歩けたのに、今日は何故か何を話していいか分からず、二人は黙ったまま歩いていた。それ以前に今日の彼女は人ごみと自分の荷物で人をすり抜けるのに一苦労で、土井垣に付いて来るのが精一杯といった風情だ。自分に付いて来るのに四苦八苦している彼女を見て、土井垣は立ち止まると無意識に彼女の右手を引いてまた歩き出した。手をとられた最初のうちは彼女もされるがままになっていたが、しばらくして彼女は不意に小さな声で口を開いた。
「…あの、土井垣さん」
「何だ?」
「…手」
 その言葉に土井垣は自分の左手を見て、自分のした行動に気付いて赤面する。彼女を見ると彼女も赤面して俯いている。彼は慌てて手を離すと気まずそうに彼女に謝罪した。
「…すまん、あんまり君が歩きづらそうだったからついうっかり…いくらなんでもこれはいかんよな」
 土井垣の謝罪に彼女はしばらく赤面して黙り込んでいたが、ふと顔を上げると恥ずかしそうに右手を差し出した。
「いえ、ありがとうございます。…それで土井垣さんには申し訳ないですけど、今日の人ごみだと本当にはぐれちゃいそうなんで…お店に行くまでは手を繋いでもらっていいですか?」
 彼女の意外な言葉に土井垣は一瞬驚いたが、それでもその言葉に嬉しさを感じ、しかしそうは見せない様な平静な口調で言葉を紡いだ。
「あ、ああ…確かにはぐれるとまずいな。君にはすまんがそうさせてくれ」
「はい」
 二人はもう一度手を繋ぐ。無骨な自分の手より明らかに小さく柔らかな手の感触が、土井垣の手の中に感じられる。そしてその冷たさで、彼は彼女が手袋をはめていないことに気が付いた。こんなに寒い日なのに手袋をはめない彼女を不思議に思いながらも彼女の手を離さない様に、そしてその冷たい手を温めるかの様に土井垣が彼女の手を包み込んでしっかり握ると、彼女は恥ずかしそうにしながらもにっこりと笑う。その表情に土井垣も照れ臭さを感じながらもふっと笑うと、二人はまた歩き出した。やはり黙ったままであり二人の様子はぎこちなかったが、それでもこうして手を繋いで歩ける嬉しさに内心胸を高鳴らせながら土井垣は店までなるべくゆっくりと歩いて行った。とはいえ店までの道のりは遠くはなく、それ程経たないうちに目的の喫茶店まで着いてしまう。土井垣は少し残念だと思いつつもそれを彼女に見せない様にして手を離し、店に入った。

 二人はコーヒーを頼んだが、先程のぎこちなさが残ったままのせいか話の糸口を掴みきれずにお互い黙ったままになってしまった。やがてコーヒーが運ばれて来てカップに手を添えた時、やっと彼女が「あったかいですね」と口を開く。その言葉に話の糸口をやっとの事で見つけた土井垣は彼女に話しかける。
「外は寒かったからな。それにここのコーヒーは味もいいぞ」
「そうなんですか…あ、本当だ。おいしいですね。私もここのコーヒー好きになりそう」
「そうか、気に入ってくれて良かった」
 コーヒーを口にしてやっとリラックスしたかの様に微笑んだ彼女に、土井垣は安心して笑いかける。お互いにリラックスした所で土井垣は軽い口調で彼女に話しかけた。
「しかし宮田さん、家族にプレゼントなんて律儀だな」
 彼の言葉に彼女は楽しそうに、しかし少し恥ずかしそうににっこりと笑いながら応える。
「あ、いえ、その…自分で言っちゃうのも何なんですけど、私小さい頃から家族にはホント大切にしてもらってるんで…今年はやっと仕事も持って自立できたし何かお礼がしたいって思ったんです。…とは言っても何をしたらいいか分からなくって、そうしたら薄給の身とはいえ何とかボーナスが貰えたんでクリスマスを口実にして皆に合うかなって思うプレゼント用意しよう、とか位しか思いつかなかっただけなんですけど」
「そうか」
「はい」
 恥ずかしそうに笑う彼女に、土井垣は彼女が心から素直に家族が自分に注いでくれた愛情を返したいと思っていることが良く分かり、そんな彼女にある種の暖かさと愛しさが湧いてきて何だか微笑ましくなる。そしてそんな話まで素直にしてくれる今日の彼女の様子に彼はまた勇気付けられ、軽い口調で更に言葉を続けた。
「ボーナスをもらえたのか。じゃあ自分自身にもプレゼントを買ったのか?」
 その言葉に彼女はまた笑って、悪戯っぽい口調で言葉を返す。
「いいえ~家族と友達の分買ったら結構予算いっちゃって、自分のものは買いませんでした」
「そうか…それは残念だったな」
「そうですね」
 その言葉にまた二人は笑う。ひとしきり笑った後、土井垣はこうして彼女と談笑できる幸せに心を弾ませながらも先刻から心の隅に残っていた疑問を彼女にふと問いかけた。
「…ところで宮田さん。君、こんな寒いのに手袋ははめないのか?」
 土井垣の問いに彼女は一瞬きょとんとした表情を見せたが、やがてにっこりと笑って答える。
「あ、はい。私不器用なんで手袋はめると指先が上手く使えないんですよ。だからあんまり手袋は好きじゃなくて…それに仕事で消毒液とか酒精綿とか扱う時にプラスチック手袋しょっちゅうしてるんで普段はあんまり手袋したくなくて。まあ雪降る位寒い日はさすがにしますけど」
「そうなのか」
「はい」
 彼女の答えに土井垣はふっと彼女の手元を見詰める。仕事時には手袋をはめているとは言っているが、それでも薬剤を扱っているせいか痛々しい程ではないがかなり荒れた手。それに先刻の冷たい手の感触を思い出し、土井垣は更に言葉を紡いだ。
「…かなり手が荒れているな」
「えっ?…ああ、一応手入れはしてるんですけどね。でもこれは仕事柄仕方ないですよ」
「しかしそれ程荒れていたらこの寒さだとかなり辛いんじゃないか?」
 土井垣の言葉に自分に対する気遣いを感じたのか、彼女は困った様な笑みを見せて更に答える。
「…まあ、ちょっとは辛いですけどね…でもまあ不器用な手が更に不器用になるよりはましだと思いますし」
「だったら自分の手に合った手袋を探せばいいんじゃないか?手に合っていればかなり手先の使い勝手も違うだろうし」
「そうかもしれませんけど…中々見つからないものですよ、特にこういう物は。むつかしいですよ」
「しかし、その手だったらこんな時期だ、やっぱり外にいる時位手袋を着けた方がいい。…そうだ、手袋を買う位の予算はいくらなんでも残っているだろう。もしだったら俺も一緒に探してやるから、これからでも買いに行かないか?」
 気が付くと土井垣はそんな言葉を口にしていた。彼女はその言葉に驚いた表情を見せたが、やがて寂しげに微笑むとゆっくりと言葉を返した。
「…いえ、土井垣さんにそこまでしてもらうのは悪いですよ。第一、そういう事は恋人とかにするものでしょう?仲間の私にする事じゃないですよ」
「…」
 いつもならこんな言葉は冗談だと考え明るく茶化して受け流すであろうはずの彼女の寂しげな微笑みと『仲間』の部分が強調された言葉に、土井垣はいつもとは違う彼女の様子を感じ取り、言葉が詰まる。しかしその態度に土井垣は何故かある種の淡い期待も感じた。もしこの期待が正しいのなら、ここで自分の想いを告げても、彼女はきっとそれを受け入れてくれるのではないか。それならばいっそこのまま告げてしまおうか――しかし彼の口から出た言葉は、その想いとは裏腹なものだった。
「…そうだな、すまん。君を困らせたかな」
「いえ…気を遣ってくださったのは嬉しかったです。ありがとうございます。でも本当に私なら大丈夫ですから」
 そう言ってまた微笑む彼女の様子はやはり寂しげで、彼は見ていられなかった。また気まずい沈黙が訪れ、どれだけの時間が経っただろうか。彼女は唐突にコーヒー代を出すと立ち上がった。
「それじゃあ、これ以上一緒にいるのも悪いですし…私はこれで失礼します。また皆にも飲みがてら会いに来て下さいね」
「え?…宮田さん、もう少…」
「じゃあ…失礼しました」
 彼女は畳み掛けて一礼すると、踵を返して店から出て行った。引き止めるタイミングを失い取り残された土井垣は、額を押さえて大きく溜息をついた。
『どうしてこうなるんだ…』
 彼女が別れ際に見せた寂しげな微笑みに、土井垣は何故か自分が何か決定的な失敗を犯した様な気がするのと同時に、大きな胸の痛みを感じた。彼女の気持ちは自分に向いていない事は分かっている筈なのに、何故そんな感覚を持ったのかは分からない。しかし胸の痛みは止まらず、彼はしばらく喫茶店の椅子にぼんやりともたれかかっていた。

『…今もだが、あの時の俺は本当に間が抜けていたな…』
 取り残された時のあの胸の痛みを思い出し、土井垣は苦笑した。そしてもしあの時に自分が想いを告げていたら、今の二人はまた違った関係になっていたのだろうかとも考える。結局その後彼女との距離は確かにこうして二人で食事ができる程に近付いたが、それは彼女と付き合い始めたからではない。それどころかついこの間酔った勢いでやはり酔っていた彼女にかなり間の抜けた告白を彼女のサークル仲間がいる前でしてしまい、しかも彼女はその告白に気付いたのか気付かなかったのか結局そのまま潰れてしまい送らせてしまったお詫びに食事をするという名目で会う事になっているのが実際の状況なのだ。こんなきっかけでしかまだ二人で会う約束ができない事に苦笑しつつ、だからこそこんなきっかけなのにこの誘いを受けてくれた彼女の本心を知るためにも、今度こそ彼女に正面から自分の想いを告げようと決心していた。そして彼女の答えがあの時感じた淡い期待の通りだったのなら、最初のプレゼントはもう決まっている。クリスマスプレゼントという事になるのであろうそれは、彼女の手にぴったりと合う手袋。そうして今でも手袋をはめずやはり荒れているだろう彼女の小さな手を、せめて自分のいない時でも温めてやれるようにしたい――そんな事を考えていると彼女が駅の改札から急ぎ足で出て来て彼を捜すかの様に周囲を見渡している。それを見た土井垣はまたふっと笑うと、あの時の様に高鳴る鼓動を抑えながら、自分を捜す彼女に近付いていった。