「どうもー!こんにちはー!矢吹でーす!!」
 学ラン姿の少年が生け垣の向こうへ大きな声を掛けた。ある初夏の一日。その少年―矢吹真吾が声を掛けた家の縁側で裁縫をしていた少女―八神紫野はその声を聞いて微笑むと縁側から声のした方へ近付いていった。
「矢吹さん、こんにちは」
「あっ、どうも…」
「ここで声を掛けずに玄関の方へいらっしゃればよろしいのに」
「あっ、そうか…すいません。いつも大きな声を出しちゃって」
 頭を掻きながら恐縮する真吾に紫野は困った様に微笑みながら口を開く。
「申し訳ありません、責めている訳ではこざいませんの。その様に恐縮なさらないでくださいな」
「はい。いや、俺こそ…ここって玄関がお店でしょ、何だか照れ臭いもんですから、つい…すいません…て二人で謝ってばっかりだな」
「そうですわね」
 真吾の言葉に紫野もくすりと笑う。真吾はぐるりと庭を見渡すと口を開いた。
「今日は千枝子ちゃん、いないんですか?」
「はい、ご家族で遊びに行くと申しておりましたけれど…それで、今日はどういった御用でいらしたのですか?」
「えっ?…あっ、いや、用って程のものはないんですけど、ちょっと近くを通ったもんですから…」
 あたふたと答える真吾に、紫野は微笑みながら声を掛けた。
「そうですか…ちょうど仕事が煮詰まっておりましたの。気分転換に少しお付き合い頂けますか?」
「えっ?…はい、喜んで!じゃあ、入ってきていいですか?」
「どうぞ、ではご一緒にお茶でも頂きましょうか」
「はい!じゃあお邪魔します!」
 そう言うと真吾は玄関の方へダッシュして行く。紫野はそれを見送ると裁縫を片付け、お茶とお茶菓子を用意しに奥へ入っていった。

「さ、どうぞ」
 縁側に腰を下ろした真吾に紫野がお茶を勧める。真吾は勧められたお茶とお茶菓子を見て不思議そうな顔をした。
「あれ?今日は紅茶にケーキなんですね。いつもなら緑茶に和菓子なのに、どうしたんですか?」
 真吾の問いに紫野は恥ずかしそうに答える。
「あの、久し振りにパウンドケーキを焼いてみましたの。矢吹さんにも食べて頂こうと思って…」
「はあ…でも、八神さんもケーキとか作るんですね」
「はい、祖母が好きで私にも教えてくださるので。おいしいかどうかは分かりませんが…」
「へぇ、そうですか。じゃあ、遠慮なく…」
 そう言うと真吾はパウンドケーキをつまむと一口食べた。とたんに顔がほころぶ。
「わっ…うまいっすよ!これ!」
「本当ですか?」
「ほんとっすよ!…千枝子ちゃんおしいよなぁ、こんなにうまいもの食いそびれるなんて」
「そうおっしゃって頂けると作って良かったと思えますわ」
 がっつく様に食べる真吾を見詰めながら、紫野も嬉しそうに微笑んでパウンドケーキを口に入れた。
「…そういえば、八神さんとこうやって二人でお茶を飲むのって、初めてだよなあ…」
 二人はしばらく世間話をしていたが、そのうちに真吾が紅茶を飲みながらしみじみ口を開く。
「まあ、そうでしたでしょうか…」
 考える紫野に真吾はティーカップを置いて続ける。
「そうですよー。俺が来る時っていつも千枝子ちゃんがいるじゃないですか。で、勉強教えあう時もなんだかんだ言って千枝子ちゃんが一緒に混ざってるし…」
「…そういえば…そうですわね」
 真吾の言葉に紫野も微笑んでうなずいた。紫野は真吾のティーカップに紅茶を注ぐと口を開いた。
「…そういえば私達、知りあってからどの位経ったのでしょうか…」
 紫野の言葉に真吾は考えながら口を開く。
「ええと、初めて会ったのは学校に八神さんがスクーリングに来てた時で…それからここで偶然会って俺がここに来るようになって…それがちょうど二年位前だ」
「二年ですか…私達、その間ずっと差し向かいでお話をしたことがなかったのですね」
「そうですね。何だか不思議な感じだなぁ」
「ええ」
 二人は顔を見合わせて笑った。と、紫野の表情が曇り、彼女もしみじみと口を開く。
「二年…長い様で短いですね…」
 紫野の表情に気付いた真吾が声を掛ける。
「どうしたんですか?八神さん」
 真吾の言葉に紫野は寂しげな表情を浮かべながら真吾の方を向き、続けた。
「いえ…矢吹さんと知り合ってすぐに兄様の消息が分からなくなりましたでしょう?その事も思い出してしまって…生きているという事は分かっておりますが、顔が見られないという事が少し寂しいですわ」
「八神さん…」
 真吾は紫野の言葉に飲んでいた紅茶が少し苦くなった。彼女の兄のことを報告したのは自分自身なのだ。その時は自分も先輩であると同時に師匠でもある草薙京が共に生死不明と言われて混乱していたが、彼女は自分も辛いだろうに自分を冷静になだめてくれて、それ以後は決して彼らの事は自分から口に出す事はなかったのだ。
「…申し訳ありません、気が重くなる様な事を申してしまって。会いたい方に会えないのは矢吹さんも同じでしょうに」
 申し訳なさそうに言う紫野に真吾は照れ臭そうな表情をしながらも明るく応える。
「いいんですよ。俺だって八神さんにグチる事あるじゃないですか。たまには八神さんだってグチりたく時はあるでしょう?気が重くなるどころか俺は八神さんにグチの相手に選んでもらえて嬉しいですよ」
「…矢吹さん…ありがとうございます…」
 そう言うと紫野はほろほろと涙を零した。それを見た真吾は慌てて学ランのポケットを探ってずっと入れっぱなしにしていたハンカチを差し出す。
「うわっ!泣かないでくださいよー…えっと…あの、汚いですけどこれ使って涙拭いてください」
「はい…ありがとうございます…」
 紫野はハンカチを受け取ると涙を拭き、真吾に微笑みを見せた。静かな沈黙が訪れ、風が二人の間をすり抜けていく。しばらくして、紫野はふと庭木に目をやった。真吾もそれにつられて視線を庭木に向ける。その庭木は初夏にふさわしく若葉が青々と生い茂っていた。
「…どうしたんですか?」
 不思議に思って真吾が紫野に声を掛ける。紫野はぼんやりと庭木を見詰めたまま口を開く。
「…もうすぐ、夏ですわね」
「そうですけど…それがどうか?」
 紫野は思い詰めた様に真吾を見詰めた。
「キング・オブ・ファイターズ…出場なさるのでしょう?」
「えっ…ああ、出ますけど…」
 真吾の言葉に、紫野は思い詰めた表情のまま続ける。
「…嫌な予感がいたしますの…何か、今までに無い大変な事が起こりそうな…」
「そんな、考え過ぎですよ。確かに今回は裏大会で、大会の形式も変わるみたいですけど…どっちにしろこの大会、いつも何か起こるらしいじゃ…」
 冗談めかして明るく言う真吾に、紫野は真剣な表情を見せた。その表情に真吾は気圧される。紫野は悲しそうに口を開く。
「私もキング・オブ・ファイターズに出場できればいいのに…この体さえ自由なら…」
「八神さん…」
 紫野は呟く様に続けた。
「…待っているのはつらいですわ。特に大切な人を待つのは…」
「えっ…」
 真吾は紫野の言葉に自分の頬が赤くなっていくのを感じた。彼女が言っているのは兄の事であろうと分かってはいるのだが、もしかしたら自分の事かもしれない…そんな思いがふとよぎったからである。
「あの、八神さん、それはどういう意味なんですか?」
 赤くなりながらも真吾は問う。しかし紫野は哀しそうに微笑むのみ。真吾は何を言えばいいのか全く分からなくなってしまった。
「あ、あの、その…八神さん、お兄さんはきっと帰ってきますよ!二階堂さんが言ってました。草薙さんにまた会える気がするって。一緒にいなくなったんだから、八神さんにもきっと会えますよ!そしたら俺が…俺が絶対連れ戻します!!」
 色々考えた末、真吾は気が付くとこんな言葉を口走っていた。紫野は一瞬驚いた表情を見せたが、そのまま嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます…そのお気持ちだけで充分ですわ。申し訳ありません。折角初めて差し向かいでお話しておりますのに、こんなに暗い話題ばかりで」
「気にしないでくださいよ。実言うと俺も草薙さんがいないし、二階堂さん以外は全然知らない人とチーム組むことになったんで、ちょっと不安があったんですよ。むしろ八神さんとこの話をして一つ目標ができたから不安がふっとびました。ありがとうございます!」
 申し訳なさそうに言う紫野に真吾は笑って応える。紫野も微笑むと手に持ったままの先刻真吾が差し出したハンカチにふと目をやり、口を開く。
「あの…このハンカチ、洗って返しますわね」
「えっ?いや、元々汚かったしウチで洗いますから」
 そう言って真吾はハンカチを紫野の手から取ろうとする。
「いいえ、私も使ったのですから私が洗います」
「いいですよー!余計な気を遣わないでください!」
 二人はしばらくハンカチの取り合いをしていたが、そのうちに紫野がハンカチを取り上げ、口を開く。
「では、こういたしましょう。ハンカチは矢吹さんにお返しいたします。その代わりに私の頼みを一つだけ聞いてください」
「えっ?いいですけど…何ですか?」
 真吾が尋ねると、紫野はハンカチを彼の手に渡し、そのまま手を取った。
「えっ?…あの…」
 どぎまぎする真吾をよそに、紫野はそのまま目を閉じ、何事か念じた。蒼い炎が紫野の体から吹きあがり、真吾の体を包む。
「うわぁ…」
 真吾は思わず感嘆の声を上げた。真吾の体が完全に炎に包まれると、その体に何か暖かいものが流れ込んできた。真吾の体が暖かいもので満たされると同時に炎は消える。
「これで…よろしいですわ…」
 少し疲れた表情で紫野が口を開く。
「あのー…何なんですか?一体」
 不思議そうに真吾が尋ねる。紫野は疲れた微笑みを浮かべながら答えた。
「矢吹さんに私の能力を分けましたの…お役に立つかどうかは分かりませんが、矢吹さんの身を守る位はできると…」
 不意に紫野が口を押さえて真吾にもたれ掛かる。
「えっ?…あの、ええと…八神さん?」
 真っ赤になりながら真吾は自分にもたれかかっている紫野を見詰める。と、その表情が固まり、真っ赤であった顔の血の気も引いていく。彼女の顔色は真っ青で、その指の間からは紅いものが零れ落ちていたのだ。
「…八神さん!…おじさん、おばさんっ!八神さんがーっ!!」
 真吾は家の中に向かって声を張り上げると、紫野の体を支え、先刻彼女に戻されたハンカチで彼女の手と口を拭った。真吾の声に紫野の異変を察したのか彼女の両親が縁側に駆け込んで来る。彼女は三人によって部屋に移され、布団に寝かされる。
「…あ…」
「あっ、八神さん!気が付いたんですか?よかったーっ!」
 しばらくして紫野が目を覚ます。枕元に座っていた真吾は思わず声を上げた。彼女は起き上がると周りを見回して口を開く。
「ここは…私…どういたしましたの?」
「…覚えてないんですか?八神さん。びっくりしましたよー、いきなり倒れるんですから」
「そうですか…申し訳ありません。ご迷惑をおかけして」
「いやぁ、そんなに大事にならずに済んだみたいだし…なんか俺のせいで倒れちゃったみたいだし…むしろ謝るのは俺の方です。すいません」
「いいえ、私が勝手にしたことですもの…お気になさらないでください」
 紫野はそう言って微笑むとふと真吾の手にあるハンカチに目を移す。彼は心配の余り、ずっとハンカチを握ったままだったのだ。
「申し訳ありません…ハンカチ…汚してしまいましたね」
 紫野の言葉に真吾はやっと手の中のハンカチに気が付き、紫野とハンカチを交互に見ながら笑った。
「えっ?あはは…いいですよ、先刻も言ったけど元々汚れてたし…」
「でも…やはり私が洗いますわ」
「いいえ。先刻八神さんはこれを俺に返すって言ったでしょ?だから俺が洗います。八神さんはそんな事気にしないで今日は寝ててください」
 真吾はきっぱり言うとハンカチをポケットにしまい、立ち上がる。
「じゃあ、八神さんも気が付いたし、俺、おばさん呼んでから帰ります。お茶とケーキ、ごちそうさまでした」
「こちらこそ…最後にご迷惑をおかけしてしまって…これに懲りずにまたいらしてくださいますか?」
 紫野の問いに真吾はニッと笑って答える。
「もちろん!またあのうまいケーキ、食わせてくださいよ」
「ありがとうございます…」
 紫野は嬉しそうに微笑んだ。真吾もつられてまた笑い、少し考えると一つ提案をした。 
「…そうだ、キング・オブ・ファイターズの事ですけど…出発する前に俺、必ず来ます。それから、試合で行った場所とかから電話もしますよ」
 真吾の提案に紫野は少し驚いた表情を見せる。
「まあ、出発前にいらっしゃるのはともかく、電話は遠くからの事が多いのではないですか?遠くからの電話はお金がかかりますよ。大丈夫ですか?」
「あ、そっか…俺、そんなに金ないもんなぁ…」
 紫野の言葉で真吾は現実の厳しさにはっと気付くと困った様に頭を掻く。紫野はその様子にくすりと笑って言った。
「『便りがないのは元気な知らせ』とも申しますし、電話はよろしいですわ。そのお気持ちだけで充分です」
「うーん…じゃあお言葉に甘えて電話はやめときます。…でも出発前に来るのはいいですよね?」
「はい、喜んで。お待ちしております」
 真吾の言葉に紫野は微笑んで応える。
「よーし!決まりっ!…おっと、じゃあこれで…お大事に」
「あの…」
 部屋を出ようとする真吾を紫野が呼び止める。
「何ですか?」
 真吾が振り返る。紫野は少し迷う素振りを見せていたが、やがて決心した様に小さくうなずくと口を開いた。
「必ず…無事に帰ってきてくださいね…真吾さん…」
「えっ…?」
 真吾は一瞬呆然とした顔を見せたが、すぐに満面の笑みを見せる。
「…もちろんですよ!や…紫野…さんに力まで分けてもらったんです!絶対無事に帰って来れますって!それに、約束通り八神さんに会ったら、きっと連れて帰って来ますからね!!」
「はい…」
 紫野も今までで一番嬉しそうな微笑みを見せた。二人は見詰め合い、もう一度お互いに笑みを見せる。
「じゃあ、ほんとに今日はこれで…また今度…」
「はい…また…」
 真吾は踵を返し部屋を出ていこうとしたが、ふと立ち止まると紫野に背を向けたまま口を開いた。
「…絶対に…絶対に俺は帰って来ますから…」
「はい…待っております…」
 互いに表わすことはないが、切ない程伝わってくる透明な想い。その想いを胸に秘めたまま少年は旅立ち、少女は少年の帰りを待ち続ける。いつの日か想いを交わす事を願いながら――