「お帰りなさい、将さん。遅かったわね」
「ああ、ただいま葉月。悪いな、遅くなって」
 私は部屋に戻って来た、愛する男性を迎え入れる。結婚を前提としてこうして一緒に暮らす様になってから、私は将さんの様々な姿を改めて知る事になった。朝起きるのは早いけれど、その後ほんの少しだけ二度寝してから起きる事。普通に生活している分には問題ないけれど、意外と食べ物の好き嫌いが多い事。本や新聞を読み始めると、電話が鳴っても、私が呼んでも気付かない位読みふけってしまう事。そして――
「…どうした?」
 黙って将さんを見詰めている私を、将さんは訝しげに見詰め返して問い掛ける。それに気付いた私は取り成す様に笑うと、わざとらしい位明るい口調で言葉を掛けた。
「え?ううん、何でもないわ。…そうだ将さん、夕飯は外で?」
「…ああ、小次郎と…飲みがてら食って来た」
「…そう」
 将さんの予想通りの言葉に、私はある予感が湧いてきて胸がきりきりと痛む。その気持ちのままに私が寂しげな反応を見せると、将さんはその意味を取り違えて、私に謝った。
「お前、もしかして待っていたのか?すまん」
 私の気持ちの意味を取り違えて謝る将さんに、私はまた取り成す様に笑顔を見せて言葉を返す。
「ううん、時間見て遅くなりそうだと思ったから先に食べちゃった。ごめんなさい、待たなくて」
「いいさ、連絡しなかった俺が悪い」
 そう言うと将さんは私を抱き寄せてキスをした。その時に将さんの身体からかすかに香ってきたボディソープとお湯の香り、そしてキスで伝わるやっぱり微かな煙草の味――その香りと味で私は自分の予感が当たっていた事が分かり、思わず身をよじって唇を離した。
「…どうした?」
「…ううん、何でもない」
「もしかして…まさか…つわりか?」
「…違うわ」
 将さんのある種の期待のこもった言葉を、私は冷たく否定する。そう、それは絶対にありえない。私はピルを飲んで避妊をしているから。でも将さんはその事を知らない。将さんの家族も、私の家族も、もちろん将さんも『もう結婚は決まったんだから子供が先に授かってもかまわない』と言ってくれているけど、私はどうしてもそこまで思えずにいた。ううん、いっその事子供ができてしまえばこの悩みも消えるかもしれない、とは思った事がある。でも…そうやって将さんを縛ってどうなるというんだろう。何故なら将さんは――だから私は細心の注意を払って、この夫婦でもない、かと言ってただの同棲でもないある種曖昧な関係を続けているのだ。いつ、何が二人の間にあっても傷つかない様に――黙り込む私に、将さんは私を抱き締めたまま問い掛けた。
「葉月、何だかお前おかしいな。何かあったか?」
「ううん…何もないわ。…うん、何にも…」
「…?…」
 将さんは不思議そうに私を見る。私はその視線を避ける様に、また身をよじる。将さんは全く気付いていないみたいだ。将さんが慎重に隠している『秘密』に私がとっくに気付いているって事を――私は将さんから身体を離すと、取り成す様に話題を変えた。
「…それより将さん、お茶は飲む?飲みたいなら今からいれるけど」
「ああ、じゃあもらおうかな。いれてくれるか」
「分かったわ」
 私はそう言うとキッチンへ行き、お茶をいれる支度をした。シュンシュンと音を立てて湧くお湯を見ながら、私はこのお湯の音が自分の心の中の嫉妬を表している様な気がしていた。将さんは確かに私を心から愛してくれている。それは良く分かっている。でも――一方で将さんは私を裏切って『あの人』と関係を持ち続けている。今日だってそうして『あの人』と過ごして来たんだろう。さっきのキスの時に香ってきた将さんを包む香りで、それ位は簡単に察する事ができた。将さんの裏切りを責めて、『その人』との仲を裂く事ができるのなら、もうとっくにそうしている。でも、二人の関係には私だけじゃなく、誰も入っていけない。将さんが私の入っていけない所で私を裏切っているのが哀しい。そして何よりそうさせてしまう自分が憎らしい。だって将さんをその関係に駆り立てているのは、私が将さんを愛していても、将さんにその愛を含めて、全てを渡す事ができないのが理由だから。私が全てを渡せないで自分の愛を行き場のないものにしている理由を、自分の心の傷のせいにしてしまえば簡単だ。でも、理由はそうじゃない。私は将さんの愛をまだ信用していないんだ。将さんは私を愛してくれている。でも、いつか将さんは私への愛を無くして、私から離れて行ってしまうんじゃないか、そう思っている自分がいる。そして将さんが辿り着くのがもし『あの人』だったら、私にはもう勝ち目はない――
「…葉月」
「…えっ!?」
 はっと気がつくと、将さんが横に立ってガスの火を消している所だった。将さんは私の様子に怪訝そうな表情を見せている。
「どうしたんだ、湯はとっくに沸いてるぞ」
「ああ、ごめんなさい。考え事しちゃってて…」
「もしかして、仕事でまた何か問題が出たのか?お前は考え過ぎるからな、あんまり考え込むなよ」
「…ん…」
 少し沈んだ様子を見せる私を将さんは見詰めていたが、やがて私の頭を叩くと口を開く。
「…やっぱり茶は俺がいれる。お前はリビングでゆっくりしているといい」
「ありがとう…そうするわ」
 私はリビングに戻って床に座った。色々悩んでいる時にはソファに座るより、こうした方が気持ちが落ち着くから。しばらくそうしていると、将さんがお茶を持って戻って来た。
「…ほら、飲もう」
「うん…あれ?」
 そうして将さんが差し出したマグカップの香りに気付いて、私は将さんに問い掛ける。
「これハーブティーよね。どうしたの?」
 私の問い掛けに、将さんは少し照れ臭そうに答えた。
「いや…お前が何だか疲れている様だったからな。普通の茶よりこっちの方がいいと思って…まあお前の見よう見まねでいれたから、まずかったらすまんが」
「…ありがとう」
 将さんの心遣いを嬉しく思いながら、私はハーブティーを一口飲む。カモミールのほのかな香りが、かすかに広がった。
「…おいしい」
「ふむ…何とか飲める様にはいれられた様だな」
 そう言って将さんもハーブティーを飲んでいる。そうして何も言わずに二人でハーブティーを飲んでいると、将さんの私に対する想いの温かさとカモミールの香りが胸に染み透ってくる。その温かさで将さんの愛は痛いほど伝わるのに、自分の行き場のない愛が将さんに届かない事が哀しくなって、いつの間にか私は涙を零していた。
「お、おい…どうした葉月」
「ううん…何でも…何でもないの…ごめんなさい、将さん…」
「…?」
 涙を零す私を、将さんは不思議そうに見詰めている。そんな将さんを見て私はマグカップを置くと、将さんの胸に身体を預けて言葉を紡いだ。
「愛してるわ、将さん。…だから、何があっても…あたしは将さんの全部を受け入れるわ…」
「…葉月?」
 将さんには私の言葉の意味が分からないだろう。でも、そんな事はどうでも良かった。私は将さんを愛している。それだけは確かな事。だからこの行き場のない愛は、今は閉じ込めてしまおう。そして、将さんが私を愛しながら裏切り続ける事も全て受け入れて、それとは悟らせず、共犯者になろうと決心した。だって、私を裏切っている将さんも、愛しい将さんの一部なのだから――そう思うとさっき胸が痛んだ将さんを包む香りも、もう気にならなかった。そうして共犯者として過ごしていつか私が将さんに私の全てを渡す事ができたら、私のこの行き場のない愛も将さんに届いて、将さんは私を裏切るのを止めて、私だけを愛してくれるだろうか――そんな哀しい願いを込めて、私は将さんにキスをする。将さんはマグカップを置いて私の涙を拭いながらそれに応えると、私を抱き上げ寝室へ向かった。こうして曖昧な関係は続いていくんだ。私がそれを受け入れていく限り――

 …と、いう訳で、女性サイドからの話です。何だかんだ言って一番長くなってしまいました(笑)。最初女性の名前は出すつもりはなかったのですが、話の都合上葉月ちゃんに登場してもらいました。表よりほんのちょっぴりアダルティーな彼女です。小次郎兄さんの予想は半分当たり、半分外れというところですね。で、『土井垣さんは同棲なんかしない!』とお怒りの方もいらっしゃるかもしれませんが、そこはお話という事で…←おい…
 彼女が土井垣さんの全てを受け入れるという選択をした事でいい子ちゃんぶって見える方もいるかもしれませんが、全てを受け入れるという選択で現実から逃避しているという意味で、彼女も卑怯な面がある訳です。こうしてそれぞれがすれ違っていく…と。最初はただれた不倫ネタだけのつもりが、段々すれ違い恋愛ネタになってしまいました(笑)。気持ちがすれ違うのは一人だけのせいじゃなくてそれぞれに原因がある…と。
 で、今後もこの話はちょっとしたシリーズ化をしていこうかと思いました。今後は不知火を絡めるのは決定稿。で、葉月ちゃんにちょっと浮気をしていただこうかと思ったら…構想の時点で拒否されたので、別の形で大変な目にあってもらいます。はい。ドロドロ昼メロ劇場は始まったばかりですよウフフフフ…☆←おい

[2012年 05月 27日改稿]