――お前は魔性の女だ――
――違う――
――お前はその身体で男を惑わせ、狂わせる、そういう魔性を持った罪深い女なのさ――
――違う、そんな事ない。あたしは普通の女。そんな魔性なんて持ってない――
――この俺を狂わせたじゃないか――
――それは、あたしのせいじゃない。あなたが勝手に思い込んだだけよ――
――じゃあ、今お前の横で眠っている男はどうだ?こいつだって、お前の身体に惑わされ、狂ってるじゃないか――
――違う!将さんはあなたと違って、あたしを愛してくれてるわ!身体に惑わされたり、狂ったりなんかしていない!あたしにはそれがちゃんと伝わるもの――
――そうか?だったら何で堰を切った様に抱きたがり始めた?お前の魔性に絡め捕られたからじゃないのか?――
――違う、違う、違う!あたしを惑わせないで!出てこないで!もうあたしを解放して!――
「…っ!」
あたしは飛び起きた。体中に脂汗が滲んでいる。あたしは今まで見ていた夢を思い、大きく溜息をついた。隣で眠っていた将さんも目を覚ましていたらしく、息をついている私を見て心配そうに声を掛けてくれた。
「…どうした、葉月。何だかうなされていたみたいだが」
「…うん、ちょっと。怖い夢を見ちゃって」
「そうか…大分嫌な夢だったんだな。顔色が良くないぞ」
「うん…ちょっと気分落ち着けたいから、お水飲んでからもう一度寝る」
そう言うと私はキッチンへ行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、コップに入れて、今までの夢を振り払う様に一気に飲む。あの夢はあたしの中にある拭えない傷と罪が見せる夢。そして…最初にあたしを無理矢理抱いた男がかけていった呪い
――
――お前はその身体で男を惑わせ、狂わせる魔性の女だ――
『その男』はそう言いながら、必死に抵抗する私を無理矢理抱いた。丈夫じゃない身体や幼い心と反比例して、私の肉体の見た目は普通の女子より成熟が早く、男子などにもからかわれてはいた。けれどそれが何を意味するのか、子どもだった私には何も分からなかった。そして今から考えれば『その男』が私に対してどういう視線を向けていたのか、どういう意図で勉強の質問をしに来ている私に『指導』しながら触れていたのか分かっても良かったはずなのに、その頃の私はあまりに子ども過ぎ、無防備過ぎた。そして私は呪いをかけられ、穢され、そして
――購えない罪を負った。そしてそうした罪を負ったそれからの私は、誰にも愛されないとずっと思って生きてきた。でも
――
「…落ち着いたか?」
「うん、ごめんなさい、将さん。起こしちゃって」
「いいさ。…それよりほら、来い」
「え?」
将さんはベッドに戻った私を包み込む様に抱き締める。その暖かさは嬉しいけれど、将さんは今シーズン中だ。これで何かあったらチームメイトの皆さんに申し訳が立たない。私はその心配を素直に口に出す。
「駄目よ、将さん。肩とかに何かあったら…」
「大丈夫だ。それよりお前が怖い夢を見なくなる方がいい。…俺の元気の素はお前の笑顔なんだから…だからこうして、俺が怖い夢から守ってやる」
「…ありがとう」
将さんの気持ちが嬉しくて、私は将さんに抱かれるまま、身を寄せる。将さんはそんな私にキスをして微笑んだ。そう、将さんはそんなあたしを心から愛してくれた。そして、あたしの罪を知っても、それは全く変わらない…ううん、知る以前よりも私を温める様に愛してくれている。でも、こんな夢を見る様になったのはそんな将さんがあの日から変わったって無意識に気付いたからだ。そう、私がやっと自分の全部を将さんにあげる事ができた私の誕生日から
――
私の誕生日から二ヶ月、私は将さんの『変化』に気付いていた。あの夜以来、将さんは東京であの人と会っても、私を裏切らなくなった。そして私が楽しんでいる歌や本、好みのお茶など、私の事を色々知ろうとする様子を見せ始めてくれた。でも、それと同時に以前より頻繁に、特に遠征、その中でも松山からの遠征から帰って来た時や、私が泊まりの出張に出て帰って来た時の夜は、私を必ず抱きたがった。そんな将さんを見て、感じていると、何故だか分からないけれど将さんの裏切りの影がまた見え隠れして、同時にふと私にかけられた『呪い』が頭をもたげる。そんな感覚が強くなると段々将さんは本当に私を愛しているのか、それとも呪いの言葉の通り私は魔性の女で、将さんはその魔性に絡め捕られただけなのか分からなくなっていく。その事がなければ以前と同じ…ううん、それ以上に優しい将さんなのに、私はその愛に無防備に包まれる事ができなかった。そんな自分が哀しいし、勝手だけれどその事に気付いていない将さんにも少し哀しさを感じていた。
――お願い、私の気持ちに気付いて。そうしたら私は呪いからきっと解放されて、またあなたの愛に包まれる事ができるから
――
「お帰りなさい」
ナイターから帰ってきた将さんを、私は玄関で出迎える。将さんは部屋に入ると、軽く私の額にキスをして声を掛ける。
「ただいま、葉月」
「今日はどうする?軽く食べる?」
「いや、もう遅いし…そうだな、ホットミルク程度でいい」
「じゃあちょっと待ってて。すぐできるから」
「ああ」
そう言うと私は牛乳をマグカップに入れ電子レンジにかけて温める。すぐにホットミルクは出来上がって、私は将さんに声を掛ける。
「蜂蜜でも入れる?」
「いや、温めただけで充分甘いからそのままでいい」
「じゃあ…はい。熱いから気をつけてね」
「ありがとう。…そうだ、お前も飲まないか?」
「そうね、そうする」
私も自分の分のホットミルクを作り、私は蜂蜜を入れて二人で飲む。そうして飲み終わって将さんはマグカップを置くと、私を抱き締めて呟いた。
「…何だか痩せたな。顔色も少し良くないし…ちゃんと食ってるか?」
「ううん、最近食欲がなくって…あっさりした物なら少しは食べられるんだけど」
「俺がいる時も、最近はまたあまり食ってないしな。食べる様にしろよ。倒れでもしたら、俺は心配で采配を狂わせるかもしれん」
「そんな事しちゃ駄目。あたしの事は野球の時は忘れなきゃ」
「そうしたいが…最近はできないんだ。いつも、お前の事が…頭から離れない」
「将さん…」
「そうだ。考えたんだが、籍を入れるのはオフになってからと言っていたが…もう入れないか?」
「でも、そんな事して余計に試合とかに影響が出たら…」
「何言ってる。もうこうして一緒に暮らしてるんだ。いつ入れたっておかしくないだろう。それに…俺はもう待てないんだ。早くお前を…俺だけのものにしたい」
そう言うと将さんは私にキスをして、首筋に唇を這わせた。この言葉も、キスも普通なら喜んでもいい事なのかもしれない。でも私には将さんのこの言葉や行為が『あの男』の言った通り私の『魔性』に絡め捕られている証拠に思えて不安になって、私は将さんから身を放そうともがいた。もがいている私を将さんは怪訝そうに見詰めながら、問い掛ける。
「…どうした?」
将さんの問いに、私は将さんから身体を離すと、逆に問い返した。
「ねえ…将さんは、あたしを愛してくれているの?それともあたしの身体に溺れているだけなの?」
「葉月…それは…?」
「あの誕生日の夜から、将さんは変わったわ。前よりもっと優しくもなったけど…一緒にまるで何かに取り憑かれたみたいに、あたしを抱きたがってる。…あたしはそれが辛いし、哀しいの…『あの男』の言った事を思い出して」
「葉月…」
「あたしは…身体じゃなくって、あたしの心を将さんに受け取って欲しいの。なのに最近の将さんはあたしの身体ばっかり欲しがってるみたいに思えるの…どうして?」
あたしの問いに将さんはしばらく沈黙していたけれど、やがてぽつり、ぽつりと答えた。
「俺は…前も言ったがお前の事を俺の…俺だけの聖母マリアだと思っている。その聖母の様に包んでくれる暖かな愛が愛おしい。でもそれと同じ様に…『あいつ』が言った意味じゃなく…女としてのお前が欲しいんだ。お前の傷や罪の事が痛々しいとも、それを広げてしまうんじゃないかという恐れももちろん思っている。でも…それも含めてお前を抱いて、女としてのお前もちゃんと感じたいんだ。…あの時の様に」
私は将さんの気持ちを感じ取り、一片の嬉しさはあったけれど、やはり将さんを絡め捕っているんだという不安を覚え、それを口に出す。
「やっぱり…あたしは『あの男』が言った通り『魔性の女』なのかもね…」
「違う!お前はお前、心の優しい聖母の様な…でも魔性じゃなく内に情熱を持った女だと俺は…」
「…」
このままじゃ堂々巡りだ。そう気づいて将さんの言葉を聞いている内に、私は将さんと一旦離れた方がいい気がしてきて
――その思いをそのまま口にした。
「将さん…あたし、頭を冷やすために今夜はここ出る」
「おい…葉月、どうしてそうなる」
「とりあえず一晩、一人にして。…じゃあ、出るわ」
「お、おい…お前、こんな遅くにどこに行くつもりだ?」
「何とか電車はまだ残ってるし…適当に決めるわ。じゃあ」
そう言うとまだ何か言いたそうな将さんを残して、あたしは泊まるための物一式を用意すると部屋を出た。とはいえ、ここから私を普通に迎え入れてくれるのは
――そう考えた時、私は無意識にある男性に電話をかけていた。ここなら将さんのマンションから割合近いし、相談にも乗ってくれる。その男性は電話口ですら分かったらしい私の様子に驚いた様で、慌てて駅まで迎えに来てくれた。そうしてその安心できる顔を見た途端、私は涙を零していた。それを見ていたその男性は宥める様に私の頭を撫でると、優しく声を掛けてくれた。
「どうした…土井垣とケンカでもしたのか?」
「ううん…ケンカならまだいいの。…あたし、将さんの気持ちが分からなくなっちゃったの…」
「…そうか、とりあえずは俺の所へ来い。話を聞いてやる」
「ごめんね、柊兄。こんな時ばっかり頼っちゃって…でも、どうしてお姉ちゃんとかヒナじゃなくって、柊兄のとこに来たんだろ」
「いいんだよ。お前は大事な妹分で、俺の宝物だ。いくらでも頼りな。それに文の家は遠いし、お前の性格だから弥生ちゃんの家に急に行くのはさすがに気が引けたんだろ。俺んとこが単に近くて家族同然の付き合いだから、選んだだけだろうさ。…だから変な気は回すな」
「ん…ありがと」
そう言うと柊兄はあたしを車に乗せて自分のマンションに連れて行き、温かいコーヒーを出して自分も飲みながら、じっと私が話し始めるのを待ってくれた。その気持ちが嬉しくて、こんな話を柊兄にするのが申し訳ないと思いながらも、ぽつり、ぽつりと自分の考えている事を話した。柊兄はじっとあたしの話を聞いてくれていたけれど、やがてゆっくりと問いかける。
「…お前、まだ『あいつ』の言った事が引っかかってるのか?」
「うん。…それに将さんが急に私に触れたがる様になったのが余計にそう思うきっかけになっちゃって…」
柊兄はあたしの答えに気持ちを落ち着ける時の癖で乱暴に頭を掻くと、言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「いいか。『あの事』に関しては、『あいつ』の方がおかしかったんだ。お前に全く悪い所はない。俺はもちろんそう思ってるし、土井垣だってそう言ってるだろう?」
「うん…でも」
「でもじゃない。しっかり愛されてるって自信を持て。それにお前の方は愛してるんだろう?」
「うん…」
「なら尚更だ。『あいつ』の言った事なんか忘れちまえ。で、ちゃんと自分の気持ちをぶつけてけ。そうすればあいつだってちゃんとお前の気持ちに気付いてくれるさ。…と、言いたい所なんだがな…お前にはちょっとショックな報告があるんだ。本当は土井垣に突きつけるつもりだったが…お前にも見せた方がいいかもな」
そう言うとと柊兄はいくつかの写真と報告書を私に見せた。それは、将さんの裏切りの証拠。どうして柊兄がこんなものを持っているんだろう
――驚いた表情を見せた私に、柊兄が沈痛な表情で説明する。
「俺が別の浮気調査をしてた時に、偶然あいつがホテルの駐車場でドッグスの犬飼とキスしてる所を見ちまってな。何だか不安になって、プライベートで調査させてもらった。調査の結果だと、かなり前からあの二人には関係があったらしい。後、同じドッグスの不知火とも何度か関係を持ってる。とはいえ最近は随分沈静化してるし不知火の方とは切れたみたいだが、それでも犬飼とは遠征先やお前が出張でいない時は切れてない。何なら聞かせたくないが、二人の睦言を録ったもんもあるが…聞くか?」
柊兄の言葉に、私は静かに微笑んで首を振った。
「ううん…いい。あたし、知ってるわ。全部…」
「だったら何であいつを責めない!あいつはお前を裏切ってるんだぞ!」
「将さんを責めて関係が切れるなら、もうそうしてるよ…でも、あの二人の中にはあたしは入っていけないの。そうじゃなくても将さんが裏切る理由は、あたしが将さんへの想いをちゃんと伝えられないからだし…それに…男同士なら浮気にならない、っていう事じゃ…駄目?」
「葉月…」
私の言葉に柊兄は絶句する。柊兄はしばらく言葉を失っていたけど、絞り出す様に口を開いた。
「お前は…優しすぎる。それにあいつはつけ込んでお前を裏切って…お前達、どこでおかしくなっちまったんだ!?」
「分かんないの…でも、将さんが私の想いをちゃんと受け取ってくれる様に、努力はするよ。それに…受け取ってくれるって信じたいの」
「…そうか。そう思ってるならとりあえず俺から一言言う。ちゃんと二人で腹割って話せ。それで前みたいな幸せな二人に戻ってくれ。お願いだ…」
「柊兄?」
柊兄の寂しそうな表情が不思議で、私はふと声を掛ける。柊兄はそれに気づくと多少無理があったけどにっと笑って、私に言葉を返した。
「じゃあ…遅くなっちまったが、文達のとこに送って行くからな」
「柊兄…ここにいちゃ駄目?」
「ば〜か、狼に自分から近付く羊がいるかよ。俺だって一応、健康な男だからな。何かしちまったらまじいし」
「柊兄も…やっぱりあたしがそういう風に見えるの?」
「違うよ。家族じゃねぇ健康な男と女が二人っきりでいてみろ。魔性なんか関係無しに、万が一って事がありかねねぇ。そういうこった」
「でも、あたし…柊兄だったら…何されてもいい」
気が付くと私の口からそんな言葉が零れていた。愛しているのは将さんなのに、どうしてそんな言葉が出てきたのかは自分でも分からなかった。柊兄は一瞬驚いた顔を見せたけど、すぐに怒った様な表情になって叱る様な口調で言葉を返す。
「…馬鹿野郎、自分を粗末にする真似すんじゃねぇよ。忘れたか?お前の時にも絶対言ったろ。古城の保体の先公の言葉」
「『男は女の身体を大事にしろ、女は自分の身体を大事にしろ』だったよね…あたしには痛かった。この言葉」
「だからお前は何にも悪くねぇって…でもまぁそういうこった。お前は土井垣とケンカして不安定になって弱ってるだけだ。今の言葉はお前の根っからの本心じゃねぇし、俺も弱ってる女を抱く趣味はねぇ。…それがお前なら…尚更だ」
「柊兄…?」
「とにかく、土井垣には俺から連絡とって文んとこに預けるって言っとくから。…ああそうだ、こんな重い話ばっかりしちまって悪かったから、これ食えよ。ちょうど今日実家に帰って買って来たんだ。お前の大好物の『北条屋』のババロアケーキだ。明日お前に持ってこうと思ってたんだが、手間が省けたな。これ食って元気出せ」
そう言うと柊兄は私の前にケーキを出した後、将さんに連絡をする。
「ああ、土井垣か?…ああ、葉月は俺に連絡くれたから、今俺が預かって当座の話を聞いたとこだ。このまま文の所に預けるから、一旦お前も頭を冷やして二人でちゃんと腹割って話し合え、いいな。…ああ…俺に連絡したのは、単に俺んとこがお前んとこから近かったからだけだ。余計な事は考えるな、分かったな。…じゃあ切るぜ」
そうして話している間、私は大好物のケーキを目の前にしていて食べたいのに、何かが胃からこみ上げてきて喉を通らない。ケーキを見ているだけで手を付けない私に気付いた柊兄は怪訝に思ったのか、ふと声を掛ける。
「どうした?遠慮はいらねぇぞ。食え」
「ううん…何だか…気持ち悪くて食べられないの…」
私の言葉に、柊兄は何かを思い出した様に複雑な表情になると、私に更に問いかける。
「葉月…お前それ、つわりじゃねぇか?」
「そんな事ないよ。だって、あたしちゃんと…ピルを飲んでるもの」
「ピルったって、戻したり下したり飲み忘れとかがあれば効果は減るって聞いたぜ。そんな事なかったか」
「えっと…」
今から思うとあの誕生日の夜はずっと将さんに抱かれたままで、飲めなかった。でも翌朝すぐ飲んだから大丈夫なはず。でも、そういえば生理と同じ出血は今の時点で二ヶ月飛んでいる
――言葉を濁す私に柊兄は更に言い辛そうだけど続ける。
「それに…その…土井垣の方は避妊してるか?」
「ううん。…将さんは『できてもいい』って言ってるから…」
「だったら尚更だ。できてもおかしくねぇ…それにな、どんなに熱出て食欲がなくても、ショックな事があって食えなくなっても、これだけはお前バクバク食ってただろ?これが食えなくなったのは俺が知ってる範囲じゃ…思い出させて悪ぃが、『あの時』だけだ」
「…」
柊兄の言葉を察して、私は言葉を失う。言葉を失っている私に、柊兄は優しく言い聞かせる。
「予想が外れりゃそれで良し。もし予想通りだったら、尚更話し合いが必要だ。とりあえず念のために検査してもらえ、約束だ」
「…うん」
「じゃあ、文んとこに送っていくぞ。とにかくちゃんと話し合って、お互いの気持ちを確かめ合え。分かったな」
「うん…ありがと、柊兄」
柊兄の暖かさに感謝しながら、私は柊兄の車でお姉ちゃんのマンションへ行って一晩過ごした。
――私は本当に魔性の女で、将さんをその魔性で絡め捕ったんだろうか。ううん、違う。将さんは私の愛を受けてくれて、それが身体に傾いただけ、きっとそう。そうであって欲しい
――