葉月が出て行って、俺は一晩まんじりともせず過ごした。

――あの誕生日の夜から、将さんは変わったわ。まるで何かに取り憑かれたみたいに、あたしを抱きたがってる。…あたしはそれが辛いし、哀しいの…『あの男』の言った事を思い出して――
――やっぱり…あたしは『あの男』が言った通り『魔性の女』なのかもね…――

 葉月は俺の中の愛欲を敏感に感じ取って、しかしそれが愛を伴っているのか、ただの欲望なのか分からず不安定になっている。それが彼女の傷だと分かっているが、俺の愛がちゃんと伝わらないのが俺も哀しかった。俺は心から葉月を愛しているのに、彼女はそれを自分が持った『魔性』からくる欲望かもしれないと思い込んでいる。それ程に『あいつ』の存在は彼女にとって大きなものになっていて、そこから俺が彼女を救い出せないのが辛い。いや、俺には救い出せないのかもしれない。俺は彼女を裏切り、悦楽の罪に未だ溺れている身だ。それを彼女はもしかすると無意識に感じ取っているのかもしれない。だから俺の愛も伝わらないのだろうか。そしてそんな俺には彼女を救う資格すらないのかもしれない――そう思った時、俺はもう一つの思いが出てきて、その『もう一つの思い』で胸の痛みと嫉妬が湧き上がって来た。彼女がここを出て向かった所は、彼女にとって兄貴分とはいえ、男の所だった。つまり彼女にとって『その男』の所は安心できる場所なのだ。俺との関係が不安定になった時に頼り、甘えられる程に――そう思った時、『その男』こそが彼女を救える人間かもしれないという不安と、絶対そんな事はないと分かっているのに、彼女と『その男』の仲を勘ぐってしまう自分。そんな醜い自分も感じ、俺は更に眠れなくなる。早く帰って来て、あの優しい微笑みを見せて欲しい、そしてまた元の様に彼女との愛に溢れた生活に戻りたい。自分勝手なのは充分承知だ。でもどんな悦楽が目の前にあっても、彼女に比べたら価値がない事に俺はやっと気付いたんだ。悦楽から逃れられなくても、本当に俺が欲しいのは彼女だけ。ちゃんとそれを伝えたい――

「はい…今日はすいませんが医者に行きたいので休みます。とりあえず、やりかけの仕事はないので大丈夫だと…はい、何かあったら携帯にお願いします」
 私はお姉ちゃんの家で一晩過ごした。お姉ちゃんは私が将さんとケンカをして家を出て来たと聞いて少しびっくりしていたけれど、『たまにはケンカもしないとね』と暖かく迎え入れてくれた。そうして一晩過ごした後、柊兄と約束した事もあるし仕事を休んでピルをもらっている病院に足を運ぶ。柊兄の予想が当たっているにしろ、外れているにしろ二ヶ月出血がなかったら受診は必要だし、ちゃんと診てもらった方がいいだろう。そうしてドクターに事情を話し、一通り検査をしてもらう。そうしてまたドクターに呼ばれて出て来た言葉は…
「妊娠してるわ。しかもエコーの様子だと双子よ。で、最終月経からすると…9週目ね。でも良くパートナーの人分かったわね、そんなちょっとした事で。つわりは軽かったんでしょう?よっぽど愛されているのねぇ」
「え、ええ…」
「それに、OCを飲んでいて授かった…しかも双子って事は、かなり強い子よ。この子達」
 私は戸惑いつつもドクターの言葉に動悸が早くなる。『双子』…もしかして、これは――ある思いに言葉を失っている私に、ドクターは静かに、しかし沈痛な表情で言葉を掛けてくる。
「…とはいえ、あなたには酷な話だけど…内科の露木先生のカルテと合わせると、あなたが妊娠を…しかも双胎妊娠を継続させていくとなると、母体…つまりあなたの身体の保障ができないの。かと言って減胎したり、中絶となると…法律上はともかく、医学倫理上私は勧めたくないし…何より、二度と子どもは望めないかもしれないわ」
「はい…前の時にもそう言われました」
「そう…だとしたら、どうしたいかパートナーの人と決めるといいわ。まだ時間はある…」
 ドクターの話を聞きながらも、私の気持ちはもう決まっていた。私はそれを口に出す。
「…産ませて下さい、二人とも」
「でも、そんな簡単に決められる事じゃ…」
「いいえ、私はどうなってもいいんです。産みたいんです…今度こそ」
 そう、この子達はきっと『あの二人』が帰って来てくれたんだ。今度こそ愛して欲しいって、愛する人の力を借りて――でなければこんな風に授かる事も、ここまで符合する事も絶対ない。だから、私は今度こそこの子達を愛してあげるんだ。私の、私だけの赤ちゃん――決意を込めて見詰め返す私に、ドクターは溜息をつくと、にっこり笑って言葉を返した。
「そこまで決意しているなら、私達も負けずにサポートしなくちゃね。頑張って母子共々元気な出産にしましょう」
「はい。お願いします」
「露木先生との連携をこれからはもっと強化するわ。それから、健診はもちろん何かあったら何でも必ず受診する事」
「はい」
「じゃあ保健センターで母子健康手帳をもらってね。頑張りましょう」
 私は半分夢見心地で病院を後にし、保健センターで母子健康手帳の手続きをした。初めて手にする母子手帳。前はもらうのを拒んで…すぐにもらう必要もなくした。その事を思い出して私は罪の意識に囚われそうになったけれど、宿っている生命を思うと、ふとその意識が和らいだ。二人は私に贖罪の機会を与えてくれたのかもしれない。もう一度私に、今度は愛する人の力を借りた命として宿る事で――だから、今度こそ私にあなた達を精一杯愛させて。他には何も、あの人の愛も、あなた達と引き換えにしろっていうならもう望まないから――

「…戻ってくれたのか」
 俺が気もそぞろで一日を過ごしデーゲームから帰ると、部屋に葉月が帰って来ていた。俺が帰って来たのを見て開口一番彼女は謝る。
「お帰りなさい。ごめんなさい、勝手な事言って、勝手に出て行って」
「いいんだ。俺も悪かったんだ。お前がどんな思いでいたのか考えもしなかったんだから」
 俺はそうして謝る一方で自分の中の醜い嫉妬が抑えられず、それをそのまま葉月にぶつけた。
「でも…一つだけ俺は腹が立っている。お前、御館さんの所へ行ったろう」
「それは…その…」
「何で文乃さんでもない、朝霞さんでもない、御館さんだったんだ!」
「わかんない。…気がついたら足が向いてたの」
「お前が愛して…最後に頼るのは誰なんだ!?俺なのか?御館さんなのか?」
「あたしが愛してるのは将さんよ。でも、最終的に頼るのは場合によるわ」
「それじゃ答えになってない!」
 彼女の論理的な思考が逆に俺の神経を逆なでし、俺は我侭な子どもの様に気持ちと言葉をぶつける。
「お前は俺だけ見て、俺だけ頼っていればいい!他の男なんかに頼るな!」
「じゃあ、将さんはどうなの!?何であたしだけ見てくれないの!?あたしを裏切って、犬飼さんと関係を持つのは…しかもまだ続けてるのは何で!?」
「葉月、お前何でそれを…」
「…あ」
 葉月は口元を押さえる。売り言葉に買い言葉で出てきたらしいが、俺の裏切りを知っていたと分かって、俺は声を押し殺し、更に問い掛ける。
「いつから…何で…知ってるんだ。俺と小次郎の関係を…」
 俺の問いに、彼女は哀しげな目で呟く様に答えていく。
「ずっと…知ってたわ。将さんには分からなかったでしょうけど、あの人と関係を持った後は、球場から帰ってきた時とは違う、でも必ず同じボディソープの香りがしたの。それに、将さんは煙草を吸わないのに、キスをすると煙草の味がかすかにしたわ。最初は女の人だと思ってた…でも、そうした時は、いつもあの人と飲んだって言って帰って来た日だって気付いたの。だから…分かっちゃったの」
「葉月…」
「それに…この事は柊兄にもばれてるわ。柊兄はあたしと違って決定的瞬間を見ちゃったから、調べたって。…それで知ったんだけど…将さん、不知火さんとも関係を持ったんですってね」
 俺は言葉を失って立ち尽くす。今度は彼女の方がまくし立てていく
「本当はあの誕生日の日に泣いた将さんを見て、あたしの全部もあげられたし、将さんがそれからあたしの事を一生懸命知ろうとしてくれたから、もう忘れようと思ってた。でも、将さんはその後から松山の遠征とかあたしの出張の後は、必ずあたしを抱きたがるのに気付いて、やっぱりもしかしてと思ってた…柊兄から話を聞いて、その予想も当たってたわ。…どうしてあたしをちゃんと見てくれないの?あたしだけを愛してくれないの!?だからあたしは不安になるの!将さんはあたしの身体に溺れてるだけなんじゃないかって!」
 彼女はそこまで言うとすすり泣き始めた。俺はしばらく立ち尽くしていたが、やがて彼女を傷付け続けていた事を知って罪悪感にさいなまれつつ、彼女を宥める様に抱き締めて、正直に自分の気持ちを言葉にする。
「すまん…俺にも分からないんだ。本当に愛しているのはお前なんだ。だから、守との関係は切る事ができた。なのに、小次郎に抱かれる事は止められない…俺も止めたい。でも、俺にもどうしていいか分からないんだ…」
 その言葉を聞いた時、不意に葉月が視線を上げ、俺を見詰める。そこに俺は聖母の顔と、女の顔と、そしてもう一つ…何かは分からないが別の顔を認め、俺は言葉を失う。そうして言葉を失っている俺に、彼女はゆっくりと口を開いた。
「あたし…妊娠してるの…双子よ」
「葉月…」
 俺は彼女の告白に今までの言い争いも忘れ、喜びで胸が一杯になる。もう一つの『別の顔』は母の顔だったのか――愛する葉月が俺の子を宿してくれた。俺との間の新しい、愛おしい命を――その心のままに俺は彼女を抱き上げ、言葉を掛ける。
「そうか…!じゃあ、明日にでも籍を入れなければな!ありがとう、葉月!頑張って親子四人でいい家庭にしよう!」
 喜ぶ俺をしばらく葉月は見詰めていたが、やがて哀しげに微笑むと呟く様に言葉を零した。
「ううん…違うわ。将さんとはさよなら。この子達はあたし一人で産んで育てるの」
「お、おい…どうしてそうなるんだ」
 葉月の予想外の言葉に、俺は狼狽する。狼狽している俺に、彼女は静かに言葉を紡いでいく。
「将さんの言葉によっては裏切ってた事も全部無かった事にして、二人…ううん、この子達も含めて四人でまた幸せになろうと思った。…でも、犬飼さんとの関係が切れないって事は、やっぱり将さんはあたしの『魔性』に絡め捕られてるだけだって事よ。だから、呪いを解いて…将さんを自由にしてあげる」
「葉月…どうしてそうなる!俺が欲しいのはお前だけだ!」
「将さん、支離滅裂よ?…犬飼さんに抱かれるのが止められないんでしょ…?ねぇ、どうしてあたしだけが欲しいなら、犬飼さんとの関係を切る事ができないの…?」
「葉月…それは…」
 何も言葉が返せずにいる俺に、葉月はいつも以上に優しい聖母の微笑みと口調で自分の腹部を押さえ、静かに、更に言葉を紡いでいく。
「それに…双子って事で分からない?この子達は『二人』が帰って来てくれたのよ、絶対に。…だから、この子はあたしだけの赤ちゃん。あたし一人で産んで、育てて…愛してあげるの」
「葉月…そんな…」
 彼女の微笑みを見ていると、彼女の腹の子は本当に彼女だけの子だと思い込んでしまいそうだ。まるで、本当の聖母マリアの様に――そんな事を思い呆然とする俺を尻目に、葉月は当座の荷物をまとめ、テーブルに二種類の指輪を置く。一つは俺が婚約の時に贈った、ペリドットの嵌った指輪。そしてもう一つは結婚が延期になった時に、必ず彼女を女房にするという約束を込めたマリッジリング――俺はそれで彼女の決意の固さを知り、更に言葉も出ず、身じろぎすらできなくなった。そうして呆然としている俺に彼女は言葉を掛ける。
「残りの荷物は…居場所が決まったら引き上げに来るわ」
「葉月…待て、待ってくれ!」
 その言葉でやっと身体の縛りが解けて何とか自分を引き止めようとする俺に、彼女はキスをした。彼女の俺への精一杯の愛が込められた事が充分に伝わる、哀しいキス――彼女は唇を離すと哀しげに微笑む。その微笑みはいつも見せていた聖母マリアの微笑みではなく――まるで出口のない高い塔の上に閉じ込められ孤独に歌う、ラプンツェルの笑顔だった。彼女は微笑んだまま、静かに最後の言葉を俺に告げた。
「さあ、これで『呪い』は解けたわ。将さんはもう自由。もうあたしにとらわれる事はないのよ。…さよなら、『土井垣さん』」
「葉月…」
 俺はその笑顔と口調で彼女を引き留める事も忘れてその場に座り込み、そのまま見送った。そうしながら俺は自分が取り返しのつかない事をしてしまったんだとやっと自覚した。俺はこの裏切りで彼女を傷つけ続けて、揚句にその裏切りが止められないと知って彼女の心を壊してしまったんだ――俺はその事に気付き、余りに恥知らずな自分に対して怒りが湧いてくる。一番望んでいたものを、俺は俺自身の手で壊してしまった――俺は怒りと悲しみと後悔がない交ぜになり、慟哭する。自分の罪で壊してしまった彼女の心に、なくしてしまった二人の幸せに――

 …はい、という訳で二人ともずんどこです。タイトルの『きみが壊れた』は谷山浩子さんの同名の曲で、内容もちょっとエッセンスに使わせてもらいました。とはいえ谷山さんの曲では恋人を捨てて出て行くのは壊した側なんですが、こっちは壊れた側が捨てて出て行きました…っていうか表でも裏でも土井垣さん、葉月ちゃんに重要な事は決められっ放し、振り回されっ放しですな(爆笑)!←酷ぇ…でも土井垣さんが悪いよなぁ…小次郎兄さんと切れないんだから…(笑)。
 そして葉月ちゃんは皆様の予想通り妊娠してました。しかも双子。で、『二人のマリア』、『マリアへの呪い』に繋がっていく…と。色々と葉月ちゃんも表より更に荒波人生を送っている様で…さすが小田原荒波育ち(違)。そしてここで出た、ラプンツェルは書いている時に不意に頭の中に浮かんだイメージです。土井垣さん、見事塔から叩き落されましたな(笑)。彼女は今後どうするのでしょうか…そして土井垣さんもこれからどうなるか…まあ予想通りの展開だと思って下さいませ(笑)。
 そして次回は久々に小次郎兄さんが登場、ちょっと動きを見せます。憎い相手への報復はどんな形になるのでせうねぇ…

[2012年 05月 27日改稿]