――さあ、これで『呪い』は解けたわ。将さんはもう自由。もうあたしに囚われる事はないのよ…さよなら、『土井垣さん』――
「…っ!」
俺ははっとして目を覚ます。脂汗で裸身にシーツが張り付き、俺は今まで見ていた夢…しかし覆せない現実でもある事に胸を痛める。胸の痛みと未だに残る最後の唇の感触と温かさに俺が大きく息をつくと、横で寝ていた小次郎が声を掛ける。
「またあの女を呼んでたな…まだ忘れられないのか?あの女の事が…忘れちまえよ、お前を捨てて出て行った女の事なんざ」
「嫌だ…俺はあいつが欲しいんだ。…あいつでなければ…意味がないんだ」
「じゃあどうして俺とこんな事をしてるんだ?…お前は俺もあの女も結局どっちも捨てられない、卑怯な男なのさ」
そう言うと小次郎は嘲る様な表情と闘犬の様な目で俺を見詰め、噛み付く様なキスをすると、俺自身に刺激を与える。いきなり与えられた強い快楽に声を上げている俺を、更に嘲る様な態度で小次郎は蹂躙していき、最後に俺を貫いて突き上げる。与えられ続ける快楽に意識が混濁しながらも、前とは違い、浮かぶのは彼女の顔。彼女が最後に見せた聖母マリアの微笑みと、一人出口のない高い塔に閉じ込められ、孤独に歌うラプンツェルの笑顔
――そして俺は彼女の名を呼びながら腰を動かす。それを聞いた小次郎は、俺の腕を乱暴に引き、耳元に囁いた。
「あの女が忘れられないなら、俺が…忘れられる様にしてやる」
その囁きの冷徹さに、俺は言葉にできない恐怖を感じた。小次郎は何かを彼女にする気だ。でも、何を
――ー?分からないまま俺は悦楽の底に堕ちていった
――
妊娠が分かってすぐ、私は上司に報告をした。未婚で妊娠しているけれど、職場には私と将さんの仲の事は以前にあった『ある騒動』で周知だったから、それ程事情を聞かれずに受け入れてくれた。上司と話し合った結果、私の部署は仕事内容がハードなので母体に良くないと、急遽今は内勤でこの部署の仕事も知っている上野さんと仕事を代わり、その引継ぎで母体に影響ない程度の忙しい日々を送っていた。でも忙しくて私は救われていた。将さんの事を考えなくて済むから
――私はまだ将さんの事を愛しているけど、もう二人の間は終わった事。忘れなくちゃ、それで生まれてくる子供達に精一杯の愛を注ぐんだ
――
「ごめんね、ヒナ。まだ見付かんないんだって」
「いいよ、はーちゃんが来てくれてあたしも助かってるし」
そして私は将さんのマンションを出て行った後、新しい住所が決まるまでヒナのマンションにとりあえず居候している。お姉ちゃんの所は小さい子供がいるから大変だし、詳しい事情を話したくなかった。かといってあの時はともかく…柊兄の所に転がり込むほど、私も恥知らずじゃない。とはいってもマンションを借りるにも保証人がいるから、柊兄には事情を全部話し、それは柊兄に頼んだ。柊兄は私の話を聞いて怒った様な、辛い様な表情を見せて、それでも最後には『…分かった』って言ってくれて、物件も忙しい私の代わりに探すから、と言ってくれた。ヒナも『あの事』を含めた昔からの事情を知っている数少ない人間なので正直に全部事情を話したら、少し哀しそうに私を見た後、すぐ笑って『じゃあ、家賃と光熱費は折半よ』ってすぐに事務的話に移ってくれた。これがヒナ流の気の遣い方だって知っているから、私はヒナに感謝しながら甘えて居候させてもらった。
「…はい、今日の夕食!」
「いつもありがとう!でも大丈夫?はーちゃん、つわりとかで料理するの辛くない?」
「ううん、逆にこういう料理がいいってお腹の子達が教えてくれるみたいでね、作ると楽になるの」
「一種の食べづわり…って事かな。…じゃあきっと、食いしん坊な子供なんだろうね」
「そだね」
私達は笑いながら食事を食べる。双子だとつわりは酷くなる事が多いって聞いていたけど、不思議とつわりは軽くて、私は家に置いてくれているヒナに感謝を込めて食事当番を引き受けていた。食べながら、ヒナは感心した様に言葉を紡ぐ。
「でもホント不思議ね。ちゃんとバランスが取れた献立だよ」
「そう?」
「うん。…ねぇはーちゃん、こんな事言って悪いけど…お腹の子もそうだけど、もしかして土井垣さんの事考えながら食事作ってない?」
「…」
図星だった。私は将さんの事を考えながら食事を作っていた。暮らす前はその日その日だけ考えれば良かったけれど、一緒に暮らし始めてからは毎日のバランスも考えた上のスポーツ選手の食事だから、生活としての食事なんてどんなものを作ったらいいか分からなくて、病院の管理栄養士の人に話を聞いたりしながら献立を考えて作っていた自分。そうして将さんの食べ物の好みも一緒に暮らす前よりもっと具体的に知って、それら全部が自然に身について、将さんの事を考えながら食事を作るのがいつの間にか習慣になっていた。その習慣は未だに抜けない。どうしても食事を作ると将さんの事を思い出してしまう。ちゃんと食べているだろうか、眠っているだろうか、笑っているだろうか
――そんな事を考えて暗い顔になったらしい私を宥める様に、ヒナは言葉を掛けてくる。
「ごめん、思い出させちゃって」
「いいよ…忘れられないのはあたしのせいだから」
「ううん、でもごめん。…あ、でね…話はガラッと変わるんだけど」
「何?」
「はーちゃん、このままあたしといない?」
「いいの?部屋狭くなるよ」
「いいよ。家賃とか光熱費シェアする方がお金も溜まるし…それに」
「それに?」
「一人で子供産んで育てるなんて、言うのは簡単だけど実行は大変だよ。…それに、一つおっきな問題があるよ。…どうするの?生まれたら戸籍の父親の欄」
「ヒナ…」
「私生児ってなったら、その後苦労するのは生まれた子供だよ。せめて…認知だけでも土井垣さんにしてもらわない?」
「…」
ヒナの言葉にあたしはしばらく沈黙し、静かに応えた。
「…ううん、将…土井垣さんはもうあたしと関わりを持たせたくないの。土井垣さんはあたしから自由になって欲しいから。…父親の事は…何とかするわ。それに…母親の勝手だけど、私生児になっても…強く生きられる子に育てたい」
「そう…」
ヒナは哀しげな目で私を一瞬見たけれど、すぐに笑って言葉を重ねた。
「じゃあ、あたしはあたしができる事で協力するわ。だから、四人で賑やかに暮らそう?しばらくはあたしも結婚なんかする予定ないし。おまけで…小児科医が傍にいれば、何かと安心でしょ?」
「ヒナ…」
ヒナはにっこり笑ってウィンクする。ヒナの暖かい思いやりに私は胸が一杯になった。その思いやりに甘えたくなって、私はその心のままに言葉を零す。
「ありがとう…お願いしていい?」
「うん、じゃあ決まり!御館さんにはその話して、子供がいても大丈夫な、もう少し広い部屋探してもらおうよ。それで心機一転、新しい生活を始めよう?」
「うん…そうだね」
私はヒナの優しさに感謝して、私達は生まれてくる子供達と新しい生活の事を楽しくしゃべりながらその日の夜を過ごした。
そうして次の日。私は仕事を終えた後、柊兄に昨日ヒナと話した事で新しい条件の物件を探してもらおうと柊兄の所へ行って、事情を話した。
「…じゃあ、このまま弥生ちゃんと一緒に住むってこったな」
「うん、ヒナもあたしの事心配してくれてるみたい。…何だか悪いな」
「そう思うなら土井垣と何とかしろ…って言いてぇが、お前の気持ちは良く分かるから、それはもう言わねぇよ。…でもこの件が落ち着いたら、土井垣はタコ殴りにする事決定だな」
「…いいよ、柊兄。別れたのは土井垣さんだけのせいじゃない、二人のせいだもん。だからいいの」
私の言葉に、柊兄はいつもの癖で乱暴に頭を掻くと、辛そうに呟く。
「…全く、お前はどこまで優しいんだよ…」
「優しくなんかないよ…あたしは弱いの。弱くて、現実から逃げてるだけ」
あたしの言葉に、柊兄はあたしの頭を撫でて、優しい口調で私を励ましてくれた。
「そんな事ねぇ、お前は優しい、優し過ぎるくれぇだ…だからぜってぇいい母親になれるぜ」
「ありがと…柊兄」
「それからな、弥生ちゃんだけじゃねぇ、俺だって何でも協力するからな。いくらでも頼れ」
「うん…そうさせてもらうね」
「まっ、とりあえずは新しい部屋だな。…弥生ちゃんとお前の職場の中間点で、保育園がある場所で、二人が払える程度の家族向きの部屋…か」
「保育園はなるべくなら認可保育所で、延長保育とか休日保育もやってるとこがいいんだけど」
私の言葉に、柊兄はおどける様な、でも優しさは十分伝わる口調で言葉を返す。
「全く、贅沢な注文だな。…でも俺も休日保育はともかく認可保育所ってのは同意見だがな。とりあえず探して当たってみるからしばらく待て」
「うん」
「ああ、夜遅くなっちまったな…危ねぇから送ってくぜ」
「ううん、大丈夫。一人で帰れるよ。それに柊兄は一人調査に出てる社員待ちでしょ?」
「ああ、そうだった」
思い出した様に口を開く柊兄に私は笑うと、宥める様に言葉を掛ける。
「夜帰るのは慣れてるし、この辺りは割と人通り多いから大丈夫だよ。じゃあ、お願いね柊兄」
「ああ、少し冷えてきたのもあるし、気をつけて帰れよ」
私は柊兄の事務所を出ると、今日は夜診で今位に病院を出ただろうヒナに電話を掛ける。
「…ああ、ヒナ。今大丈夫?」
『うん、あたしも今帰るとこ』
「今柊兄のとこ出たからヒナの方が先に家に着くかな。今日は簡単におそばとかで…」
と、不意にまるで私を呼ぶ様に車のパッシング音がする。音がした方を見ると、その車に乗っていたのは
――私は全てを理解して頷くと、電話口のヒナに言葉を掛けた。
「…ごめんヒナ、用事が一つ入っちゃった。それ済ませて帰るから、今日は悪いけどヒナ自分で食事作って食べて」
『ちょっとはーちゃん、どうしたの?』
「何でもないよ…じゃあ切るね」
私は電話を切ると、車から降りてきた『その男』に声を掛ける。
「…それで、何の用ですか?犬飼さん」
犬飼さんは鋭い闘犬の様な眼差しで私を見詰めながら、言葉を紡ぐ。
「土井垣の事で、あんたと話してぇと思ってな」
「土井垣さんはもう自由の身です。私が話す事はないと思いますが」
「ところがこっちはそうは行かなくてな…同行してもらうぜ」
そう言うと犬飼さんは私の腕を引き、車の後部座席へ乗せると、車を走らせた。私は本能的な恐怖を感じ、逃げるチャンスを探すけれど見付からない。私は犬飼さんに連れられるままに都内のシティホテルへ連れて行かれた
――
『…どうして、こうなっちまったんだろう…』
俺は事務所の椅子にもたれながら、土井垣と葉月の事を考えていた。土井垣の裏切りが許せず、そして自分の中の嫉妬もあいまって、裏切りの証拠を葉月に突きつけてしまった自分。あそこで知らぬ振りをするか、葉月じゃなく土井垣自身にまず突きつけていたら、こんな事にはならなかったんだろうか
――葉月も、土井垣もお互いを今でも誰より愛しているのを俺は充分過ぎる程分かっている。しかしそれがすれ違い、もつれ合い、修復できない所までに破壊してしまった原因を作ったのは自分だと分かっているから、罪悪感で胸が痛くなる。
――優しくなんかないよ…あたしは弱いの。弱くて、現実から逃げてるだけ――
葉月の言葉が胸に突き刺さる。葉月は愛を貫き通せない自分を責めて、笑いながら心で泣いている。でも宿っている命を一人で産み育て、今度こそ愛し抜こうとするあいつの心は、決して弱くなんかない。でも同時に触れると壊れてしまいそうな程、今は脆くなっているのも確か。そこまで葉月を追い詰めた土井垣を憎みたいが、あいつが愛している男を憎む事は俺にはできない。何故なら俺は
――だから…これからは俺が土井垣の代わりに、あいつを守る。これは、この事があったからじゃない、あいつが土井垣と出会うずっと前…そう、俺があいつへの想いを自覚した時から決めていた事だ。あいつの王子は一生土井垣で、俺はあいつの王子にはなれない事位分かっている。だが…王子になれなくても、ナイトにはなる事はできる。だからせめて俺はナイトとして、あいつを守り続けよう
――そう考えていると、不意に携帯が鳴る。電話に出ると、不安げな弥生ちゃんの声が聞こえて来た。
『御館さん、はーちゃんの様子がおかしいんです。そこからすぐ帰りそうな事言ってたのに、車のパッシング音がしたら、急に『用ができた』って言って…何だか嫌な予感がするんです』
「何…?」
『とはいえ、何にも手がかりがなくて…御館さん、どうしましょう』
俺も嫌な予感が湧き上がってくる。とはいえ弥生ちゃんに心配をかけるわけにはいかないので、俺は静かに指示を出した。
「分かった。とりあえず弥生ちゃんは待機しててくれ。俺が何とかする」
『お願いします』
俺が電話を切ると、調査に出ていた社員が同時に帰ってきた。
「社長、帰りました」
「ああ、丁度良かった。すまないがこのまま報告書書いたら事務所閉めてくれ。俺は葉月に用ができてな、先に帰る」
「ああ、宮田さんなら、さっき男の人と一緒に車に乗るの見ましたよ。確かあれ…アイアンドッグスの犬飼監督だったな。どういう関わりなんでしょうね、社長…って社長?」
「何だって!?…畜生!」
俺は驚いている社員も無視して事務所を飛び出すと、車に乗った。あいつが葉月を連れて行きそうな所は、多分
――この予想は外れないでいて欲しい。それで、葉月も無事でいてくれ
――!