それから、俺と葉月の間には穏やかな時間が流れて行った。病院では父親が急に変わった事で一時期看護師は色々言っていた様だが、ドクターは落ち着いた態度で俺から事情を聞いて、御館さんがした話をすると『あなたも同じ気持ち?』と問い掛けた。俺も御館さんと気持ちは同じだったので『はい』と答えると、ドクターはにっこり笑って『いいお父さん達に恵まれて、幸せな奥さんだし、子ども達ね』と言って、これからの事を一緒に話し合った。とりあえずは俺が仕事で家を空ける事が多いと聞いたドクターは、順調にはなっているけれど内科のカルテの事が気になるので、万が一の事も考えてやはり臨月まで彼女を管理入院させる事にして、また彼女の身体の負担を考え術後の負担と自然分娩の消耗を比べ、帝王切開よりは今の状態が続くならなるべく自然分娩にすると言った。そこまで彼女の事を考えてくれるドクターに俺は心から感謝の言葉を述べた。
――今日も元気で過ごした。合唱団の面々が来てくれて楽しそうだったぜ――
葉月はプロ野球チームのプレーイング監督という責務を負っている俺を気遣ってくれて、『支えられなくて、ごめんなさい』と言っていたが、入院した時よりは随分身体も子どもも元気になってきていて、彼女が元気で、子どもも順調に育っているだけで俺は嬉しくて、愛しくて、そう言ったらにっこり笑って『ありがとう、じゃあ、赤ちゃんと元気でいる事で許してくれる?』と笑って問い掛けてくれるのが俺には更に愛しく思えた。そして秋季キャンプが始まり、いない間は御館さんが俺の代わりに彼女の面倒を見てくれると同時に、毎日彼女の様子をメールで教えてくれた。俺はそれを毎日励みにキャンプをこなし、キャンプを終了させて帰って来ると、今度はドラフトに優勝旅行。優勝旅行に彼女を連れて行けない事が心底残念だったが、かと言って俺は監督として引率も兼ねているので行かない訳にもいかない。彼女も寂しそうだったがすぐに微笑んで『だったらV2、V3ってなってその時に子ども達と一緒に連れて行って』と可愛らしい我侭を言って俺を和ませた。そして待望のオフになってからは俺は毎日病院に通った。子どもも順調に育ち、彼女も段々と元気に、そして母としての自覚が出て来るのが会う度に分かる。そうして今日も彼女の病室に行くと、彼女は音楽を聴いていた。絶対安静から多少の行動は許される様になったので、時折彼女は疲れない程度に色々しているのだ。彼女は病室に入ってくる俺を見るとにっこり笑って俺を出迎える。
「お帰りなさい…なんておかしいわね。でも『いらっしゃい』って言いたくないの」
「ああ、俺もお前に『いらっしゃい』とは言われたくないな。だからかまわん。戻った時にちゃんと家でそう言われるのを楽しみにするから、しばらくはここが俺達の家だ」
「うん」
そう言うと彼女はまたにっこり微笑む。その微笑みが愛しくて、俺は彼女にキスをすると彼女に問いかけた。
「何を聞いていたんだ?」
「うん、ヒナとか沼さんが届けてくれたMD。あたしにはモーツァルトとかは似合わないって、色々仕入れてきてくれるの。これはあたしの好きなアーティストさんの曲が入ったのよ」
「そうか…俺も聞いてみていいか?」
「うん」
そう言うと葉月は俺に朝霞さんが葉月の荷物から持ってきたらしいMDウォークマンを渡す。聞いてみると、男性や女性の歌声が混じっているが、切ない恋の歌や、どこか聴く人の背中を押して励ます様な曲が入っている。ああ、こういう曲が彼女は好きなのか
――改めて知った彼女の一面に俺は嬉しくなり、にっこり笑って機械を返した。
「お前、こういう曲が好きなんだな。改めて分かって嬉しい」
「そう?」
葉月もにっこり笑う。そうして笑いあっていると、御館さんが入って来た。
「お〜悪ぃな、夫婦水入らずのとこを邪魔しちまって」
「ううん、いいの。柊はいつ来ても嬉しいもん…そうだ、頼んでた物、どう?」
「ああ、それを持ってきたんだ。案の定親父も持ってたぜ。それから、沼田さんにも協力してもらった」
「『頼んでいた物』?」
俺が不思議そうにしていると、御館さんは二枚のMDを葉月に渡した。
「こっちが荒木栄セレクション、で、こっちがお前の好きなうたごえの曲をかき集めた奴だ」
「ありがとう!あたしの赤ちゃんだもん、これも聴かせなきゃ」
「まあ、おまえの赤ん坊だからな。歌に好き嫌いを作っちゃいけねぇやな。文みたくデスメタル聴くよりはずっといいさね」
「文乃さんって…妊娠中デスメタル聴いてたんですか…?」
俺の驚いた様子に御館さんは苦笑しながら答える。
「ああ、あいつは根っから天邪鬼だからな。まあ、元々デスメタルやロックが趣味だったってのもあるが、妊娠中俺がいくらやめろって言っても聞かなかったな。それに比べりゃ葉月の荒木栄はまだ許容範囲だな」
「『あらきさかえ』?…聞かない名前ですが」
「…ま、労働運動やってない人間には縁がない名前だからな。ただし、労働運動とか、うたごえやってる人間には基礎中の基礎だぞ。多分お前も『がんばろう』位は聞いた事あるんじゃねぇかな。確か一リーグ制の時のストの支援で歌ってたってどっかで聞いたし」
「はあ…で、葉月も…?」
「葉月は生まれた時…いや、腹ん中にいた時からおじさんとおばさんから仕込まれてるからな。しかも五歳で『地底の歌』に感動したっていう変わり者だ」
御館さんの言葉に、俺は先刻聞いた歌の事もあり、彼女の趣味の分類が分からなくなって呟いた。
「どんな歌なんですか一体それは…」
「マンションにCD置いてきたままだから聴けますよ。『不知火』っていうCDです」
「おい、それは俺に対する当て付けか…?」
俺の言葉に、葉月は困った様に言葉を返す。
「だって、本当にそういう名前なんですもの。荒木栄って三池炭鉱にいてその辺りの歌を多く作った人で、同じ名前の構成もあるから、作品集のCDにもその名前が付いたんです」
「そうなのか…」
「それから、うたごえセレクションの方は沼田さんが色々教えてくれて、CDとかも貸してくれてな。新しい歌もなかなかいいのが揃ってるなって俺も思ったぜ…そうだ。最初はお前の一番好きな『人間の歌』を入れた」
「柊…」
「お前もこの歌の通り、しっかり生きろよ。土井垣と、生まれてくる子ども達とな」
「…うん」
「御館さん…」
葉月は御館さんの言葉に、力強く頷く。そうして三人で色々な話をした後、俺はマンションに帰り、葉月が置いていったCDの山を探してみる。彼女は本当に歌に対しては気に入れば何でも聴くタイプで、さすがにデスメタルは無い様だが、Jポップ、クラシック、洋楽、ロック、演歌、歌謡曲に童謡まで何でもある。そんな山の中から俺は『不知火』と御館さんが言っていた『人間の歌』が入ったCDを見つけ、聴いてみた。『不知火』に収められた曲は歴史を感じさせるが、その当時の闘いの息吹が伝わってくる様な曲ばかりだった。そして御館さんが言っていた『がんばろう』は確かに聞き覚えがある。あのストの時、何人かの若い人が確かに歌っていた。ただ励ますための歌なのではなく、こんな闘いから出た労働歌だったのかと今更ながら知り、歌った人の想いを改めて知った気がした。そして『地底の歌』は組曲なのだが、確かに五歳児が感動する歌の内容じゃない。俺は彼女の幼さと精神の成熟した所が同居するアンバランスな思考と言動の秘密が分かった気がした。そして『不知火』を聴き終わった後、俺は『人間の歌』を聴く。歌詞を見ていると労働歌らしき所もあるのだが、俺はそんな事は関係なく歌詞に惹き付けられていた。
――傷つき倒れた友の背に
眼差し注ぐ女(ひと)はいるか
病み疲れた乙女のその手に
ぬくもり添える男(ひと)はいるか)
生きる哀しさ翼に変えて
人の歓び歌に託して
私は歌う希望の歌
共に歌おう人間の歌――
そして聴き進めていくうちに更にこの歌は俺の心を打っていく。そしてこう締めくくられていた。
――生きて生きて生き抜いて
生きて生きて生き通して
私は歌う人生の歌
共に歌おう人間の歌
共に歌おう人間の歌――
いつの間にか俺は泣いていた。彼女はどんな思いでこの曲を聴いていたのだろう。負わずとも良い罪を負わされ、愛したいのに愛せない命を宿し、そしてその命を死なせ、生きてきた彼女。そんな彼女はこの歌を知った時、その歌詞を心に刻んで生きてきたのだろうか
――そして、俺が彼女を裏切って小次郎と逢瀬を重ねていた時にも、きっと
――そんな思いに辿り着いた時、俺は御館さんが言った通り、彼女とそして生まれ来る子ども達と共に生き抜いていこうと決意した。何があっても彼女の手は離すものか
――
そうして俺は彼女を気遣いながらも自分の役目をこなし、自主トレ、春季キャンプ、オープン戦、開幕戦とこなしていった。彼女はそうした俺が会いに来る度に俺の身体を気遣い、勝っては欲しいけれど無理をしない様にといつも最高の微笑みで俺を癒してくれた。そうして段々と日々が過ぎ臨月になり、予定日が近付くに連れ、俺は自分の役目をこなしながらもどことなく気もそぞろになっている様で、チームメイト達からからかわれていた。
「土井垣さ〜ん、そんなに心配なんですか〜?」
「まあ、葉月ちゃんが生まれた時は早産だったそうですから心配なのは分かりますけど、ちゃんと臨月まで持ったんですし、病院にいるんですから何かあっても心配ないですよ」
「まあ、監督もパパになるのは若葉マークだから、心配なのは無理ないか」
「…うるさい、分かっているなら放っておいてくれ」
「そうも行きませんよ。あんまり監督が宮田さん…いや土井垣さん…もう面倒だから宮田さんでいいですね…ばかり心配して采配を狂わされたら困るのは俺達ですし、宮田さんも悲しみますよ。ですから、もっとどっしり構えて下さい」
「…分かった、努力する」
チームメイトのからかいながらも俺を心配してくれる言葉に、俺は素直に頷いた。そうして過ごしている内、松山へ遠征に行った最終日の早朝、俺はメールの着信音で目を覚ました。この着信音は御館さんだ。葉月を預けてから、何かあった時にすぐに分かる様にと御館さんも葉月と同様にメールと電話の着信音は別にしてある。何があったのだろうと慌てて見ると、その文面に俺は喜びが隠せず、歓声を上げていた。
――午前2時20分と3時50分に生まれた。ちょいと難産気味だったが、葉月も赤ん坊も元気だ。
詳しい事は、帰って来てから直に見て確かめろ。それまではお楽しみだ――
「…ありがとう、葉月」
俺は嬉しくて涙が出てきた。俺はたくさんの傷を葉月に付けたのに、それでも彼女は俺を愛し続けて、こうして俺との間の新しい、愛おしい生命を産んでくれた。そして彼女はこれからも妻として、母としてきっと俺と子ども達を愛し続けてくれるんだ。彼女はもう聖母マリアでもラプンツェルでもない。生きた人間の母親だ。そして俺もその彼女を一人の人間として、そして最愛の女房として愛し続けるんだ。そうして俺達はこれからもどちらかが天に召されるまで、時を過ごしていくんだ
――
そしてその日の試合は快勝し、翌日帰京すると俺は彼女の病院に直行する。病室に行くと、彼女は眠っていた。その安らかな寝顔も愛おしくて、俺は彼女の額を撫でる。と、彼女は目を覚まし、俺に気付くとにっこりと微笑んだ。俺も微笑みを返し、言葉を掛ける。
「…お疲れ様」
「…将さんも、お疲れ様」
「御館さんからは詳しい話は出なかったんだが…男の子か?女の子か?」
俺の問いに、葉月はくすくすと笑うと、困った様に応えた。
「あのね…両方」
「本当か?」
「うん…お節句になったらきっと大変よ」
「いや、両方授かって俺は嬉しいし、その大変さは幸せな大変さだからいいさ」
「…そう?」
「ああ。…しかしメーデーに生まれたとは…お前の胎教のせいかな」
「そうかもね」
そう言うと俺達は笑い合った。そうして俺は葉月に連れられて新生児室に行く。ガラス壁の向こうには何人もの赤ん坊が眠ったり、泣いていたりしていたが、何故か俺にはどれが自分の子か不意に分かった。俺はそれを葉月に口にする。
「なあ、葉月…俺達の子は…あの右側の奥から三番目と四番目の今泣き出した子か?」
「うそ…よく分かったわね。名札ここからは見えないのに」
「いや…何となくだったんだが、俺をあの子達が呼んだ気がしたんだ」
そう、俺には泣き声が俺を呼んでいる様に聴こえたのだ。『お父さん、お父さん』と
――葉月は赤ん坊をじっと見詰めている俺に微笑みかけると、悪戯っぽく囁いた。
「…どうやら、『お父さん』に会いたかったみたいね。赤ちゃん達も」
「ああ…そうだな」
「その内退院したら抱っこもお世話もしてもらうから、もうちょっと待ってね…『お父さん』。でも…お父さんをするのは、野球をするより大変よ、きっと」
「ああ、そうだな」
そう言うと俺達は微笑み合って新生児室を後にする。病室に戻ると御館さんがいて、にっと笑うと俺達に声を掛けてきた。
「どうやら会って来たみてぇだな…どうだ?父親になった感想は」
「ええ、何だか気持ちが温まると同時に引き締まります」
その言葉に御館さんは満足そうに笑うと、不意に悪戯っぽい表情になって更に言葉を紡ぐ。
「ちなみに二人とも俺が最初に抱いたんだぞ〜?羨ましいだろ」
「いいんです。それ位の事を御館さんはしてくれたんですから。それ位は譲りますよ」
「ちぇ〜、つまんねぇ反応だな…まっ、これからも俺は助けるからあんまり頑張り過ぎるな。葉月もだぞ」
「うん、ありがと、柊」
「…で、今日来たのはな。考えた二人の名前を知らせに来たんだ」
「本当?早いね、柊」
「ああ、文から『酒匂の作法』も聞いてたし、予定日も分かってたからこうと考えたらすぐ決まったぜ」
「で、名前は…?」
俺が問い掛けると、御館さんはわざと大仰に咳払いした後、決めた名前を書いた命名用の紙を出しながらゆっくりと言葉を紡いでいく。
「男の方は…『薫』だ。男だが『酒匂の作法』を使わせてもらった。『風薫る五月』って言うだろ?…それに『薫』って字には『におい立つ様な美しさ』って意味もあるんだぜ?」
そう言うと御館さんはにやりと笑う。その言葉に俺達も笑うと、葉月は微笑みながら言葉を返す。
「『薫』…いい名前ね。で、女の子の方は…?」
「ちょっと読みで迷ったんだが…『鈴』って書いて『りん』だ」
「『鈴』…?」
「ああ、丁度五月の誕生花が鈴蘭でな、そこから取った。二つ意味があってな。読みの『りん』っていうのは『凛』に通じてんだ。そうやって生きられる女に育つ様にってな。それから字の方は名前を取った鈴蘭の花言葉に掛けた。その花言葉ってのは…『幸せの再来』だ」
「『幸せの再来』…」
「ああ、この子ども達はお前らにとっての『幸せの再来』なんだ。…だから、子ども達はもちろんだが…お前らも幸せになれ、絶対に」
「…はい」
「…うん…ありがとう、柊。いい名前をつけてくれて」
葉月は涙を零す。それを見た俺も御館さんも慌てて彼女を宥める。
「お、おい…泣くなよ」
「葉月、いくらなんでも泣かんでもいいだろうに」
「だって…嬉しいんだもの、こんなに皆に愛された赤ちゃんが産めて…あたしも精一杯愛してあげなきゃね」
葉月の言葉に、御館さんは彼女の頭を撫でて、優しく言い聞かせた。
「そうだ、精一杯愛してやれ…今度こそ」
「うん…」
「俺も、精一杯愛します。…子ども達も…葉月も」
「よし。その気持ち、忘れんなよ」
「うん」
「はい」
そうして俺達はこれからの忙しい、しかし幸せな日々を話しながら時を過ごした。