東京の遠征に来た俺は、誘われるままに『ある人』と酒を飲み、そしてその後『その人』を抱く。しかしその行為の中には俺に対する一片の愛もない事は充分に分かっていた。この人が求めているのはたった一人の愛する…しかしこの人の裏切りを知り、絶望して去って行った女性。俺はそのコピーでしかない。分かっているのにこの人を抱くのは止められない。今だって俺の愛撫にこの人は彼女を見つけ、快楽と共にそれとは違う遠い目を見せているのに――俺はそれに絶望しながらも自らの想いと欲望を遂げるため、この人を貫く。突き上げるごとにこの人は更に遠い目を見せ、呟く。
「はづき…は…づき…愛して…いるんだ……いかない…で…」
 そこでその人は絶頂を迎え果てていく。そして俺も絶望と快楽が混じった奇妙な感覚を迎え、果てていった――

「どうして…彼女を迎えに行かないんですか?居場所は分かってるんでしょう?」
 俺はミネラルウォーターを飲みながら、『その人』――土井垣さんに静かに問いかける。今でもこんなに愛しているのなら、ちゃんとそれを伝えて連れ戻せばいい。彼女だって絶対この人がそうして迎えに来てくれるのを待っている――奇妙だけれど、俺にはそんな確信があった。それは俺が感じているだけかもしれないが、俺と彼女の奇妙に重なるこの人に対する想いのせいかもしれない。俺の問いに、ビールを飲んでいた土井垣さんは静かに答える。
「…葉月は、俺の手からすり抜けてしまった。…確かに、お前の言う通り迎えに行って…無理矢理連れ帰る事はできると思う。でも…そうやって連れて帰っても、気持ちがすれ違ったまま壊れてしまった俺達じゃ、もう…一緒にいても、お互いが苦しくなるだけだ」
「…そうですか」
 どうして愛しているのにこうやって逃げようとするのか、俺には全く分からなかった。お互いが苦しくなっても、それを乗り越える事が二人にはできるはず。そして、そうしていかなければたとえここで彼女と別れてまた別の人間を愛したとしても、同じ事を繰り返すだけだ。俺は怒りと哀しみが湧いてきて、ミネラルウォーターを一気に飲み干すと、その心のままに言葉をぶつけた。
「それで、俺や…『あの人』に逃げるんですか?俺達は…宮田さんの代用品じゃありません!」
「守…」
 土井垣さんは驚いた様子を見せる。俺は心のままに続ける。
「宮田さんは…待ってます、絶対に…土井垣さんが迎えに来るのを、待ってます。…たとえ表に出さなくってもそれ位…土井垣さんだって分かってるでしょう!?」
「…」
 土井垣さんは俺の言葉に答える代わりに俺を見詰める。まるで俺に縋り、助けを求める様な眼差しで――そんな土井垣さんは見たくなかった。俺はその眼差しから目を逸らすと、呟く様に言い捨てた。
「…出て行って下さい。今の土井垣さんは…見たくありません」
「…分かった」
 土井垣さんは哀しげに頭を垂れると、シャワーを浴びて着替え、部屋を出て行った。本当は引き止めたかった。俺がいます。彼女の事は忘れて、俺だけ見て、愛して下さいと言いたかった。おそらくあの人とやはり関係を持っているであろう『もう一人の男』は少なくともそう言うだろうと思っている。でも――俺には言えなかった。あの人が欲しいのは彼女との愛と快楽、彼女との安らぎ、そして彼女と歩む人生――ただそれだけ。それは絶対に変える事ができない。そんな答えが分かっている事に反発する心は、俺には持てなかった。その時点で俺は彼女にも、『もう一人の男』にも負けているのだろう。それでも、あの人の幸せを願う心はその二人には絶対に負けないという自負があった。俺はその心のままに行為の跡を消す様にシャワーを浴び、着替えてホテルを出る。そして街をそぞろ歩いていると、不意に見知った女性の姿を見つける。あの女性は――分かった瞬間、俺は思わず声を掛けていた。
「…宮田さん、どうしてこんな所に?」
 急に声を掛けられてデパートから出てきた宮田さんは驚いた様に振り返り、そして少し寂しげな表情を見せて微笑むと、俺に言葉を返した。
「ああ、不知火さん。…ちょっと買いたい物があって…とりあえずのウィンドウショッピングをね。あなたは?」
「俺は、その…土井垣さんと飲んで…帰る所で」
「…そう」
 宮田さんは俺の言葉にほんの一瞬だけ固まった表情を見せたけれど、すぐにその表情を微笑みに変える。しかしその微笑みは表情にどこか無理があった。土井垣さんの名前が出た事と、おそらく俺の『嘘』を見抜いているからだろう。何故なら、彼女は俺と土井垣さんの関係を知っているから。それに気づいた時、俺は彼女に対して抱いている『ある感情』が沸き起こる。それは、彼女に対する申し訳なさと、良く分からない優越感が交じり合った奇妙な感情。彼女が出て行った直後会った時に、彼女は俺と土井垣さんの関係を知っていたと土井垣さんの口から聞いた時に初めて覚え、その後も彼女に対して感じているこの奇妙な感情を、今も同じ様に俺は彼女に対して感じていた。俺は彼女に対しては、本当に不可解な人間になってしまう。そんな感覚を覚えつつも、俺はふっと彼女に誘いを掛けていた。
「少し…この辺りでコーヒーでもどうかな?一息つくためにも」
 宮田さんは俺の誘いの言葉に、静かに頷いた。
「…ええ」

 俺は駅の傍の静かな雰囲気の喫茶店を選ぶと、コーヒーを二つ頼む。しかし彼女はふとそれを遮って、自分の分はホットミルクに変えてもらった。彼女の対応を俺は不思議に思った。俺の知っている彼女はコーヒーが大好きで、自分でも淹れ方を研究して、おいしく淹れる人だから。俺はその不思議な気持ちのままに問い掛ける。
「宮田さん、コーヒーじゃなくていいのか?ここのコーヒーは最高にうまいんだけれど」
 俺の言葉に、彼女は困った様に微笑んで言葉を返す。
「ええ。本当は飲みたいんだけど、今はコーヒーや紅茶はあんまり飲んじゃ駄目なの。…私の好みを気遣ってくれたのに、ごめんなさいね」
「どういう事だ?」
 俺の問いに彼女は困った様な微笑みを見せるだけ。俺は訳が分からず彼女を見詰め返す。彼女はそれにも困った様に微笑んだ。そうしている内にコーヒーとホットミルクが運ばれてきて俺達は口をつける。飲みながら彼女は俺に問いかける。
「しょ…土井垣さんは…元気?」
「ああ…一見は元気だが…でも」
「でも?」
「心の中では…かなり傷ついて、荒れている。あなたがいなくて、その辛さで。…なあ、俺が言う事じゃないって分かってるけれど…戻る気はもうないのか?」
 俺の問いに彼女は静かに首を振ると、静かに言葉を紡いでいく。
「ええ。…土井垣さんは、私の魔性に囚われていただけよ…だから、離れて…自由にしてあげなくちゃ。…そうしないと…土井垣さんは幸せになれない」
「『魔性』?」
「ええ…私は『魔性の女』。この身体で男を惑わせて、狂わせる…そんな女なのよ」
「そんな事…!俺はそんなもの感じた事ない!誰がそんな事を…!」
 声を荒げる俺にも、彼女は哀しげに微笑みを返すだけ。答えたくない…いや、答える事ができないんだと俺は無意識に分かった。彼女はそんな俺に静かに言葉を掛ける様に続ける。
「土井垣さんは…もう自由。だから…不知火さん、あなたにもチャンスはあるのよ。あの人を手に入れて、幸せにする…私の事は気にしないで大丈夫。あの人から最高のプレゼントをもらったから…もうあの人を解放してあげられる」
 その言葉に俺はある事に辿り着き、その思いを言葉にならない言葉にする。
「『最高のプレゼント』…『コーヒーが飲めない』……まさか…」
 あまりのショックに絶句している俺に、彼女はいつも以上の聖母の様な優しい微笑みを見せた。俺は頭が混乱しながらも、浮かんでくる言葉を口に出していく。
「だったら尚更…何で繋ぎ止めようとしないんだ!俺や『あの人』に譲る様な真似をして、生まれてくる子に父親のいない不幸を負わせる真似まで…!」
 激昂する俺とは逆に、彼女は静かに、少し哀しげだが最高の優しさのこもった表情と口調で言葉を返す。
「言ったでしょう?土井垣さんは私の『魔性』に囚われていただけだって。本当は私を愛している訳じゃないのよ。…でも…私は土井垣さんを愛してる。あの人を繋ぎ止めるためにその罪深さを知っていたのに、自分の『魔性』の力を借りていたとしても。…だから神様は、この子達を土井垣さんとの生命として宿して、私に返してくれたの…愛をやっと知った私が、過去に一度この子達を愛せずに殺してしまった罪を償える様にって。だから…この子達は私だけの赤ちゃん。一人で産んで、育てて…愛してあげるの」
 彼女の言葉に不可解な部分が含まれている事にも俺は気付かず、ただその『事実』のみに目が行き、自分の思いを言葉に出していく。
「お願いだ!そんな事を言わないでくれ!土井垣さんはあなたしか見えてないし、愛してもいないんだ!だから…そんな哀しい事を…言わないでくれ…!」
 俺はいつの間にか泣いていた。どうしてこんな風に二人の気持ちがすれ違ってしまったのだろう。愛し合っているはずなのに、すれ違ってしまう心。それが哀しくて俺は泣いていた。彼女はそれを見て哀しげに微笑みながら俺の手を優しく握り、囁く様に言葉を掛けた。
「それは不知火さんの遠慮が見せた幻よ。…大丈夫…将さんは自分が私の魔性に囚われてただけで、もう自由だって分かったら、あなたの気持ちにも気付くわ。…だからお願い…もし、本気で将さんを想っているなら…それを将さんにぶつけて…将さんを幸せにしてあげて。…将さんが幸せなら…私は生きていけるから…」
 そう言葉を紡いだ後、彼女はホットミルクの代金を置いて立ち上がる。
「じゃあ…今の同居人が待ってると思うから…これで」
 そう言って彼女は立ち去った。俺はまだ泣いていた。土井垣さんを愛しているのに、あの人の幸せのためなら何の躊躇いもなく自ら身を引ける彼女。それが何故か俺の想いに重なる。そして俺は自分が感じていた奇妙な感覚の理由にやっと気付いた。俺は彼女のコピーじゃない。俺と彼女は鏡の様に表裏一体なんだ。でも、土井垣さんに心から愛されている彼女とは違い、俺は絶対に土井垣さんに愛される事はない。だから鏡は鏡でも、その鏡は水鏡。水面が揺れる度にその形は崩れ、そのままの姿を映す事はないんだ――彼女の哀しい愛の決意と、俺はその陰でしかないという絶望を更に感じ、俺は涙を流し続けた――

  …はい、『想いの迷路番外・不知火編』でした。しかし不知火はどう書いても不幸にしかならないなぁ…(苦笑)。その緩衝材として葉月ちゃんが出てきてくれました。もちろん嫉妬はあるんですが、対抗意識を持っている小次郎兄さんに対して、不知火にはどちらかというと、同類の様な意識を彼女も持っているんです。だから小次郎兄さんに渡すくらいならあんたが持ってけ状態になる…と←身も蓋もありませんな…(笑)
 で、タイトルと本文中に書いた『水鏡』は、ふっとそうした不知火と葉月ちゃんの関係性として浮かんだ言葉です。ただの鏡じゃない、水面が揺れれば映っている姿も崩れてしまう水鏡、二人はそんな不安定な感じの表裏一体性を持っていると勝手に思ってます。
 次回の番外編のメインキャラは小次郎兄さんです。

[2012年 05月 27日改稿]