マルヴィーダ・フォン・ブロッケンは悩んでいた。その悩みは、この度めでたく婚約したブロッケン一族の当主、フランツ・フォン・ブロッケン――通称ブロッケンマン――の事。彼女の周辺は彼女と当主の婚姻による自分たちの影響力の強化を喜んでいる様だったが、彼女はたとえ『ドイツの鬼』と恐れられる残虐超人という存在であっても、彼女が少女の頃に一度だけ出会った静かで誇り高い青年の姿こそが彼の真の姿だと理解し、そしてその頃からその姿にほのかな想いを寄せていたため、その想いが叶った事が純粋に嬉しいだけであった。しかし、彼女の自分が選ばれたという表では控えめだが内心のはちきれんばかりの喜びとは裏腹に、彼がどんどん沈んでいき、時には憔悴している様子も伺える事で彼女は何よりも胸が痛んだ。もしかすると彼にとって自分は負担なのだろうか、だとしたら自分にできる事が何かないだろうかと日々悩んでいた――
彼女は聡明な女性であったが、世俗から離れた世界にいたため知らなかった。彼が本当に愛を捧げているのは『ピアノの歌姫』と呼ばれ、国民に愛される心優しく美しいピアニストであり、彼は彼女と結婚を一度は決意したものの、国民と一族の者達の執拗な反対にあって涙ながらに別れた事を。そして自分が選ばれたのはその女性に面影が似ていたから――つまり身代わりでしかないという事を。けれど彼女は何も知らない故の純粋さで彼に寄り添った。その彼女に対し彼は愛ではないがある種の親愛と感謝は返していた。しかし聡明ではあるが世間知らずの彼女はそれすら彼の愛と勘違いをしていた。そして彼女は彼にそれとなく尽くしていった。それが残酷な結果を生む事になるとも知らずに――
「失礼致します」
ある日のフォン・ブロッケン邸。マルヴィーダは手に綺麗にラッピングされた包みを持って一人でこの屋敷にやってきた。客人なのでもう実質執事の実権を手に入れている執事見習いのクラウスが応対し、彼女を客間に案内するとお茶を入れる。そうしてお茶を一息飲んだところで彼女はクラウスに問いかける。
「あの…あの方は今ご不在なのでしょうか」
マルヴィーダの問いにクラウスは少し考えると静かに答える。
「その言葉とお手にある物から察しますと…フランツに直接渡したい物がある様ですね」
クラウスの言葉にマルヴィーダは一瞬顔を赤らめ沈黙し、静かに頷いた。
「…はい」
「…フランツは今執務中です。もうしばらくしたら休憩に入るでしょうから、そのわずかな時間でよろしければお話をどうぞ」
「…ありがとうございます」
そうしてまたしばらくお茶を飲んでいると、クラウスがわざわざ連れてきたのであろうか、愛しい許嫁の姿が現れる。一見こそ冷たく、人を斬る様な雰囲気を漂わせていたが、その内には温かい情がある事も彼女にはちゃんと感じ取っていた。その心のままに戸惑っているマルヴィーダにフランツは静かに問いかける。
「わざわざ深層の令嬢がおひとりでわが屋敷を訪問とは、よほど重要な事でしょう。何ですか」
一見感情が込められていないが彼女に気を遣ったフランツの問いに、マルヴィーダは自分のわがままな行動で彼の手を煩わせる事に軽い胸の痛みを感じたが、自分の想いを止められず、その心のままに包みを彼の前に差し出し、言葉を紡ぐ。
「あの…これ…私の手縫いと手編みで悪いのですが…シャツとこれから寒くなって来るのでセーターを編んだのです。嫌でなければ…貰って、使って下さい。…フランツ様にわたくしができる事は…これ位しかないので…」
「…」
フランツは黙ってその包みを見詰めたままである。マルヴィーダは失敗した、彼の気分を害してしまったと思ったが、やがて彼はふっと笑みを見せると静かに言葉を返した。
「ありがとう、わざわざ手間を掛けさせてしまった…あなたの心遣いは、嬉しいし…心から感謝している。…でも」
「でも?」
「ああ、いや…何でもない」
「…?」
「ではもう少しお茶を飲んでいきますか。何しろクラウスの茶はドイツ一うまいので」
「ああ、いえ…もう随分頂きましたし、これ以上長居はできませんから…帰ります」
「ならば屋敷の車を使うといいでしょう。目立たず帰れるはずです」
「お気遣い…ありがとうございます」
本当にうれしかった。自分の心遣いを彼は受けてくれた。それだけじゃない。自分に対して心遣いを見せてくれた。それだけで満たされた。これならば大丈夫、きっと自分達はいい夫婦になれるだろう。そう信じていた――
彼女は聡明な女性であったが、世俗から離れた世界にいたため知らなかった。彼が本当に愛を捧げているのは『ピアノの歌姫』と呼ばれ、国民に愛される心優しく美しいピアニストであり、彼は彼女と結婚を一度は決意したものの、国民と一族の者達の執拗な反対にあって涙ながらに別れた事を。そして自分が選ばれたのはその女性に面影が似ていたから――つまり身代わりでしかないという事を。けれど彼女は何も知らない故の純粋さで彼に寄り添った。その彼女に対し彼は愛ではないがある種の親愛と感謝は返していた。しかし聡明ではあるが世間知らずの彼女はそれすら彼の愛と勘違いをしていた。そして彼女は彼にそれとなく尽くしていった。それが残酷な結果を生む事になるとも知らずに――
「失礼致します」
ある日のフォン・ブロッケン邸。マルヴィーダは手に綺麗にラッピングされた包みを持って一人でこの屋敷にやってきた。客人なのでもう実質執事の実権を手に入れている執事見習いのクラウスが応対し、彼女を客間に案内するとお茶を入れる。そうしてお茶を一息飲んだところで彼女はクラウスに問いかける。
「あの…あの方は今ご不在なのでしょうか」
マルヴィーダの問いにクラウスは少し考えると静かに答える。
「その言葉とお手にある物から察しますと…フランツに直接渡したい物がある様ですね」
クラウスの言葉にマルヴィーダは一瞬顔を赤らめ沈黙し、静かに頷いた。
「…はい」
「…フランツは今執務中です。もうしばらくしたら休憩に入るでしょうから、そのわずかな時間でよろしければお話をどうぞ」
「…ありがとうございます」
そうしてまたしばらくお茶を飲んでいると、クラウスがわざわざ連れてきたのであろうか、愛しい許嫁の姿が現れる。一見こそ冷たく、人を斬る様な雰囲気を漂わせていたが、その内には温かい情がある事も彼女にはちゃんと感じ取っていた。その心のままに戸惑っているマルヴィーダにフランツは静かに問いかける。
「わざわざ深層の令嬢がおひとりでわが屋敷を訪問とは、よほど重要な事でしょう。何ですか」
一見感情が込められていないが彼女に気を遣ったフランツの問いに、マルヴィーダは自分のわがままな行動で彼の手を煩わせる事に軽い胸の痛みを感じたが、自分の想いを止められず、その心のままに包みを彼の前に差し出し、言葉を紡ぐ。
「あの…これ…私の手縫いと手編みで悪いのですが…シャツとこれから寒くなって来るのでセーターを編んだのです。嫌でなければ…貰って、使って下さい。…フランツ様にわたくしができる事は…これ位しかないので…」
「…」
フランツは黙ってその包みを見詰めたままである。マルヴィーダは失敗した、彼の気分を害してしまったと思ったが、やがて彼はふっと笑みを見せると静かに言葉を返した。
「ありがとう、わざわざ手間を掛けさせてしまった…あなたの心遣いは、嬉しいし…心から感謝している。…でも」
「でも?」
「ああ、いや…何でもない」
「…?」
「ではもう少しお茶を飲んでいきますか。何しろクラウスの茶はドイツ一うまいので」
「ああ、いえ…もう随分頂きましたし、これ以上長居はできませんから…帰ります」
「ならば屋敷の車を使うといいでしょう。目立たず帰れるはずです」
「お気遣い…ありがとうございます」
本当にうれしかった。自分の心遣いを彼は受けてくれた。それだけじゃない。自分に対して心遣いを見せてくれた。それだけで満たされた。これならば大丈夫、きっと自分達はいい夫婦になれるだろう。そう信じていた――