しかしその希望は打ち砕かれた。彼が偶然手に入れた『ピアノの歌姫』アマーリエ・シェリングと『歌の語り部』カタリーナ・アウグスタのコンサートのチケット。国民に愛され、席をとるのも難しいそのチケットをボックス席で取ってくれた彼の愛情に喜びを覚えつつそのコンサートに二人で足を運んだ時から、違和感が彼女を襲った。アマーリエのピアノに合わせてカタリーナがオリジナルの恋の歌を歌った途端、彼の表情が一変したのだ。そしてそれから後彼は一度も自分を見る事はなかった。ひたすらに見詰めていたのはステージで美しい旋律を奏でる女性。その視線の柔らかさに込められた熱い炎を感じた時、彼女は何故か自分の想いは打ち砕かれてしまうという不安が胸を渦巻いた。そしてコンサートが終わると、彼女は彼に一人先に屋敷に返された。その時に確信した。自分たちの仲はこれで終わりになるのだと――
そしてその確信通り、彼は自分との婚約を破棄し、『ピアノの歌姫』との結婚を決めた。一族はもちろん、国民も大反対した。しかし二人はひるまなかった。互いに守りあい、国民から愛される彼女がすべてを投げ打ってまでドイツの鬼と恐れる男と添い遂げる覚悟を公的な場で表明した。そしてその時やっと彼女は全てを知った。二人は元々恋人同士で結婚間際まで行ったものの一族はもとより国民の大反対にあい、互いの身を守るために身を斬る別れをしたのだと。そしてその後選ばれたのが自分であり、そして彼女の容貌と自分を改めて見比べて、彼から直接言われなくても分かってしまった。自分が婚約者として選ばれた理由。それは自分が彼女に似ているから――つまり身代わりだったのだと――それに気づいてマルヴィーダは泣いた。彼女に与えられた気遣いや思いやり自体は本物だったかもしれない。でもそれはすべて『身代わり』として与えられたもので、自分の想いは全く伝わっていなかったのだという寂しさで――そして泣き暮らして数週間。どう転んでも自分の想いは伝わらず、彼と結ばれる事もないと悟った彼女は『たった一つの思い残し』に決着をつけるため、ブロッケン邸に再び一人で訪れた。丁度空き時間だったためか、自分に対する贖罪のためなのかは分からない…いや、考えようとも思わなかったが、今回は今でも想いを残す愛しい男が直接応対してくれた。クラウスの入れたお茶を飲みながら、二人は静かに話す。
「この度は…申し訳なかった」
「…いえ、コンサートの時のあなたのあの方を見詰める眼差しを見て…お二人には敵わないと分かりましたから。…まだ気持ちに整理がついていませんが…必ず新しい愛と伴侶は見つけるので安心して下さい」
「…そうか」
「ところで奥様になる…あの方は?」
「今日は客演でドレスデンだ。ピアニストの仕事は続ける様に私も、父も勧めて…彼女も承諾してくれた」
「…そうですか。でも」
「でも?」
「これはわたくしの勝手な願いですが…以前私が贈ったシャツとセーターは…奥様の前でとは言いませんから、何らかの形で使ってやってください。わたくしの叶わなかったものの…ほのかな初恋の思い出ですから」
「…」
マルヴィーダの言葉にフランツは暫く逡巡していたが、やがて静かに頷いた。
「…ああ、約束する。君の想いも…大切にさせてもらう」
「…ありがとうございます」
彼の言葉の『真実』を受け取り、マルヴィーダは泣きそうになったが、その涙を目の奥に呑みこみ、微笑みを見せる。フランツも微笑みを返す。彼女は紅茶を飲み干して立ち上がると静かに言葉を紡ぐ。
「ではこれで失礼いたします。…素敵な思い出を…ありがとうございました」
「…ああ。君にいい縁が訪れる事を心から願っている。嫌でなければ…その手助けも」
「…ありがとうございます。でも、それは遠慮します。嫌味ではなく…自分で…自分の愛すべき存在は見つけたいと思ったのです。…あなたの様に」
「…そうか」
「…はい」
「では帰りのために…車を用意しよう」
「いいえ、今日は歩きたいんです。…今言った事を実行するためにも…それだけじゃなく…自分の生きる道をこれから自分の足で歩いていくためにも…その第一歩に」
「…そうか」
「はい。では…さようなら、『あなた』」
そう言うと彼女はブロッケン邸から出ていき、街を歩いて自分の屋敷に戻る。今までの様に流される人生じゃない。これからは今こうして街を歩く様に、自分で歩いていく人生を行こう。自分が初めて心から愛したあの人の様に――