「ただいまーっ!」
ある日の午後のひととき、学ラン姿の青年がマンションの一室のドアを開け、部屋の中に声を掛ける。彼の名前は草薙京。格闘技界ではその名を轟かせる存在である。が、彼も普段は普通の(留年はしているが・笑)高校生として生活をしている。そして今日もつまらない授業をほとんど寝て過ごし、自称弟子(京曰くパシリ)である矢吹真吾の相手を軽くして帰って来た所であった。ただし、このマンションは京のものではない。彼の宿命のライバルであり従兄弟でもある八神庵のものである。彼は実家にいるのがわずらわしいのか一人暮らしをしており、京はその庵の家に半居候の身になっている(というか勝手に居座っている)のだ。
「庵ー、いるかー?腹減ったー…あれ?」
「いらっしゃいませ…それとも『お帰りなさいませ』の方がよろしいのでしょうか?」
京が上がろうとすると、部屋の中から少女が出てきた。意外な出迎えに京は驚く。それもそのはず、この少女は合鍵は持っているものの体が弱く滅多に外には出ないため、この部屋にもあまり来ないのである。
「紫野ちゃん、どうしてここにいるんだよ」
腰を覆うほどある豊かな黒髪を髪止めでゆったりと止めたその少女はこの部屋の主である庵の妹、八神紫野である。京の問いに紫野はにっこりと微笑んで答える。
「久し振りに兄様とゆっくりお話したくなりまして参りましたの。京兄様、御無沙汰しております」
「ああ、久し振り…でも外に出て大丈夫か?」
「はい。このところ調子が良いので大丈夫です。父様からも許可は得ておりますし…」
「そっか…ならいいけどよ。…ところで何か食うもんないかな。俺、腹減っちまってさぁ」
紫野が元気と分かった途端、すっかりいつも通りの態度になるあたり、さすが草薙京という所か…。しかし紫野も気を遣われずにいつも通りの態度で接してもらう方が気が楽なのか、くすりと笑うと口を開く。
「丁度パウンドケーキを焼いて参りましたの。お腹の足しにはならないかもしれませんが、いかがですか」
「紫野ちゃんのパウンドケーキ?ラッキー!食う食う!」
料理の得意な紫野お手製のお菓子があると聞くやいなや京は目を輝かせる。紫野はその京を見てまたくすりと笑うと京を部屋へ招き入れる仕草をした。
「そうですか。ではお茶を用意致しますから取り敢えずお部屋へどうぞ」
「おー、どうせ入る所だったし、邪魔するぜ」
京は部屋へ入るとリビングのソファに腰を下ろす。暫く待っていると紫野が茶器とパウンドケーキを持ってリビングに入って来た。
「さ、どうぞ」
紫野はティーポットからカップへ紅茶を入れ、ケーキと共に京に勧めると自分も京と差し向かいのソファに座る。
「久し振りの紫野ちゃんのパウンドケーキっと…じゃ、遠慮なく。いただきまーす」
京は用意をしてくれた紫野にとりあえず敬意を示してそう言うと一口食べた。途端に満面の笑みが浮かぶ。
「うめぇ!やっぱ紫野ちゃんのパウンドケーキはうまいわ。ユキだとこうはいかねぇもんなぁ」
「まあ、その様な事をおっしゃってはそのユキさんとおっしゃる方に失礼ですわ」
「まあまあ、いーじゃねーか。でもほんとにうまいぜ。俺、いい時にここに来たわ」
「あら、ほとんどここにいらっしゃるのに?」
紫野は紅茶を飲みながら悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。滅多にここに来ない紫野には自分がここに居着いている事は知られていないと思っていた京は、ぎくりとした表情で紫野を見詰める。
「えっ…ばれてたの?」
「伯母様がこの間家へ参りました時こぼしておりましたわ。『京兄様がなかなか家に帰って来ない、兄様に迷惑をかけて申し訳ない』と」
「オフクロ…人ん家行ってまでグチこぼすなよ…」
「でも、京兄様も悪いのですよ。これからはなるべく家に帰って、伯母様達を安心させてくださいな」
「へーへー、そうします」
そう言うと、二人は顔を見合わせて笑った。しばらく穏やかな沈黙が続いた後、京が口を開く。
「でも、こうやって紫野ちゃんと落ち着いて二人で話すのって…もしかして初めてじゃねぇか?」
京の言葉に紫野は微笑んで同意する。
「そうですわね。初めてお会いした時、私は名乗りませんでしたし、話していたらお店のご主人に怒られましたもの」
「そりゃそうだろ、俺はバイトであそこにいたんだし。仕事中は私語厳禁だからな」
「そして、ここに私が参ります時はいつも兄様がいらっしゃいますし…」
「その庵も今日はいない…と。そーいや、庵はどうしたんだ?」
京の問いに、紫野は小首を傾げた。
「さあ…私がここに参りました時には、もうおりませんでした」
「今日は実家で働く日じゃねぇよな」
「はい。そうでしたら私も初めからここには参りませんわ」
「だよなぁ…バイトじゃねぇはずだし、バンドも活動オフしてるって言ってたし…買い物かな。ま、いいか。たまには紫野ちゃんとゆっくり話すのもおつなもんだし」
「そうおっしゃって頂けるとうれしいですわ」
そう言うと紫野はまた微笑んで紅茶を一口飲んだ。そして、微笑みを浮かべたまましみじみとした口調で呟いた。
「こうして京兄様とお話しできる日が参りますなんて、あの頃は思ってもおりませんでしたわ…」
「ほえ?『はのほろ』っへ?」
京はパウンドケーキを口に入れたまま口を開く。紫野は空になった京と自分のティーカップに紅茶を注いで、しばらく考える素振りを見せた後口を開いた。
「京兄様…私、初めてこの部屋で京兄様に会った時に京兄様の事は『草薙の方の気配と兄様の話で分かった』と申しましたわね」
「ああ、確かんな事言ってたっけ…で、それがどうかしたのか?」
「それも確かに本当の事ですけれど…今ですから申しますと私、実は京兄様の事は昔から知っておりましたの」
「えーっ!?本当かよ」
「はい」
意外な発言に驚く京とそれを見て微笑む紫野。
「でも、どこで俺と会ったんだよ」
不思議そうに尋ねる京に紫野は微笑んだまま続けた。
「初めは私が五つの時、兄様を迎えに参りました折に。その時京兄様は私だけではなく兄様や父様とも会っております。その時の事はおそらく覚えていらっしゃらないでしょうけれど」
「うーん、…確かに覚えがねぇや」
考え込んでみたものの思い当たるふしがないので、『降参』といった感じで両手を上げる京。
「…で、その次は?」
「その次からは厳密には『会った』とは申せませんわね」
「何で」
「私は遠巻きにしか京兄様を見ていないからです」
「へ?どこで俺を見てたの?」
「伯母様が勤めていらっしゃる病院ですわ」
「はぁ?」
あまりに意外だったので思わず声が大きくなる京。紫野は続けた。
「私は京兄様に初めてお会いした後位から、父様と伯父様の考えで伯母様に主治医が変わりましたの。小さい頃から体が弱かった私は入退院を繰り返しておりましたし、そうでなくとも月に一度は検診がございますから必然的に病院にいる事が多かったのですわ」
「へえ…で、それが何で俺につながる訳?」
京の問いに紫野はくすくすと笑って答える。
「京兄様…よく怪我をして伯母様の所にいらしていたでしょう?」
「うっ…」
「手当てをする時も元気な声を出していらっしゃいましたし、京兄様は病院内では有名でしたのよ」
「…」
京は知られたくない過去を知られていた事実に愕然とする。しかも、兄貴風を吹かせていた相手に知られていたとなると面目丸潰れである。ばつの悪さに京はふてくされた表情のまま口を開く。
「…で?そういうかっこ悪ぃ所を見て、笑ってたってか?」
京の言葉に紫野は微笑んで首を降る。
「いいえ、私は京兄様にあこがれていたのですわ」
「は?」
「病院で京兄様を見た時、すぐに兄様を迎えに参った時会った方だと分かりましたわ。いつも怪我をしていらっしゃるのに元気に病院の中を走り回っては、入院していらっしゃるお年寄りに話し掛けたり…私にはその様な京兄様がきらきらと輝いていらっしゃる様に見えましたの…そして、私はいつの間にか病院へ参ります度に京兄様を探す様になっておりました…」
「紫野ちゃん…」
紫野はその時の事を思い出したのか、紅茶をまた一口飲むとその頃を懐しむ様に天井をふと見上げた。
「京兄様を見付けると嬉しくて…話し掛けようと思うのですができなくて…結局、遠くからそっと見ている事しかできなかったのですわ…」
「…」
沈黙する京。紫野は続ける。
「その内に時が過ぎて…私は京兄様と同じ高校に通信で入って…京兄様と女の方が一緒にいる事に気が付いて…あの方がユキさんでしょう?」
「…」
「それからは何だか京兄様を見るのが辛かった…それでも、探すのはやめられなかった…」
紫野は一旦沈黙すると、呟く様に口を開いた。
「もしかすると…これが私の初恋だったのかもしれませんね…」
「…」
「あ、申し訳ありません。今の言葉は忘れてください」
真っ赤になって両手を振る紫野。京はしばらく考え込んでいたが、やがて紅茶を一口飲むとぼそりと口を開く。
「…紫野ちゃん」
「はい?」
「俺、紫野ちゃんが見てる事知ってたぜ。まあ、紫野ちゃんだって事は知らなかったんだけどよ」
「えっ…?」
驚いた顔で京を見詰める紫野。京は続けた。
「俺がケガしてオフクロの病院に行くだろ?で、あちこち病院の中を歩き回るじゃねぇか。そういう時、時々物陰で女の子が俺の事見てるのには気付いてたんだよ。でも、俺がそっち見るとその子は逃げちまうし…今の話からすると、それ紫野ちゃんだったんじゃねぇか?」
「はい…おそらく…」
紫野はうなずいた。京はまた続ける。
「俺も悪い気はしなくてさ。一度でいいからその子と話してみたいと思って何度か俺の方もその女の子を探し回った事があるんだわ。でも探してみると見付からないもんでさ、かと言って向こうが見てる時はこっちが気付くと逃げちまうだろ?結局話せずじまいに終わった訳だ」
「はあ…」
「で、まあその後長い時間が経って…ユキに出会って付き合い始めて今に至る訳だけどよ…それまでのけっこう長い間、俺はその女の子の事が気になってしょうがなかったんだぜ」
「まあ…」
「ま、ぶっちゃけた話、俺にとってはその女の子が初恋だったんだろうな」
「…」
照れ臭そうに言う京に、紫野も真っ赤になって沈黙する。しばらくの気まずい沈黙の後、二人はやっとの事で口を開く。
「と、言う事は…」
「俺達…両思いだったって事かぁ?」
「でも…結局、その恋は実らなかった…と」
そこまで言うと二人は顔を見合わせ、一瞬の沈黙の後、紫野はくすくすと笑い出し、京は爆笑した。
「…ったく、お互いバカな事やってたんだなぁ!」
「ええ、本当に」
しばらく笑った後、京は大きく伸びをして口を開く。
「…もしもあの時俺が紫野ちゃんを引っ掴まえてでも話してたら、今頃紫野ちゃんが俺の彼女だったかもしれねぇなぁ…庵に殺されそ」
京の言葉に、紫野は穏やかな口調で口を開く。
「…でもそうはなりませんでした…という事は、私達はきっとご縁が無かったのでしょうね」
「そっか…そうかも知れねぇなぁ…」
呟く様に言う京に紫野は微笑みかける。
「でも、私は今の状態でも充分幸せですよ。京兄様の『妹』として一緒にいられますし、何よりこうしてお話する事ができる様になりましたから」
「へぇ…そんなもんかな?」
「はい。確かに始めは辛かったですわ。けれど、今の私は京兄様が幸せならそれでいい…そう思えますの。京兄様は今ユキさんとお付き合いしていらして幸せでしょう?」
「へ?…あ、ああ…まあな」
照れながらも否定はしない京。紫野はそれを見てまた微笑んだ。
「ですから、もうよろしいのですわ。私は京兄様の『妹』でいられるだけで充分です」
「ふーん…でも、そうだとしても幸せなのはそのせいだけじゃねぇだろ」
「『そのせいだけじゃない』…と申しますと?」
「案外、紫野ちゃんも新しい恋を見付けたんじゃねぇのか?」
「はい?」
きょとんとする紫野をからかう様に京は口を開いた。
「真吾がよく紫野ちゃん家に来てるんだってなー。樹さんから聞いたぜ」
京の言葉に紫野は思わずティーカップをひっくり返しそうになる。
「何でそこで矢吹さんが出て来るのですか?矢吹さんは関係ございませんでしょう?」
慌てた素振りを見せた紫野を京はにやにや笑って見詰める。
「そーかなー?庵は真吾が来る様になってから紫野ちゃんが明るくなったって拗ねてるぜぇ。俺もその話聞いて紫野ちゃんが明るくなった原因、真吾にあると思ったもん。恋すると人が変わるって言うしなぁ」
「なぜそういう話になるのですか!?」
「おやぁ?俺は事実と一般論を述べただけだぜぇ。何でそんなにムキになるかなー?」
にやにやと笑ったまま意地悪っぽく言う京に、紫野は真っ赤になって反論する。
「確かに矢吹さんはいい方だと思いますわ。でも矢吹さんとは、ただ勉強を教え合っているだけです。第一、矢吹さんには恋人がいらっしゃるそうではありませんか。すでに恋人がいらっしゃる方に恋をする程、私ははしたなくありません!」
紫野の言葉に、京は笑ってパタパタと片手を振る。
「真吾の彼女ー?あー、いないいない。あいつが勝手に彼女だと思ってるだけだって」
「それでも、恋人がいらっしゃるのと同じです。人の恋路の邪魔など、私はしたくありませんわ」
「ふーん、ま、どーでもいいけどよ…」
「そうですわ。どうでもよろしい事です」
「へーへー、そうでしょうそうでしょう」
珍しく少々怒った紫野をからかう様に京は相槌を打つと、ふと(わざとらしくだが)思い出した様にまた口を開いた。
「そうそう。どーでもいい事だけどよ、真吾はその『彼女』に会いたくてその娘の家に一生懸命通ってるんだとさ。ご苦労なこった」
「はい…?」
「で、その甲斐あってその娘と仲良く話はする様になったんだと。でもそれから先は真吾がアプローチしても邪魔が入ったり相手が全く気付いてくれなかったりでちっとも進展しないってぼやいてたぜ」
「あの…それは…」
また落ち着きのなくなった紫野を京は悪戯っぽい目で見詰めるとわざとらしく大きな伸びをした。
「さーて、その『彼女』ってのは誰の事なのかねぇ?…ま、紫野ちゃんにはどうでもいい話だっけか?」
「あの…」
戸惑う紫野に京は今までとは打って変わった真剣な表情を見せ、口を開く。
「穴の開く程見てたって、言葉とか態度に表さなきゃ想いは伝わらねぇよ。仮に両思いでもな。伝わらなきゃいつかはその想いも離れちまう。紫野ちゃんはもうその事痛い程分かってんだろ。…真吾の事好きだと思うんなら、何でもいいから行動を起こしてみろよ」
「でも…」
「紫野ちゃんはいっつも自分を抑えちゃうもんな。たまには自分に正直に、我儘に振る舞ってもいいと思うぜ、俺」
「京兄様…」
困惑する紫野を見て京は大きく溜め息をつくと、また悪戯っぽい表情に戻る。
「…ま、俺には関係ねぇけどな。おせっかいな『兄さん』のたわごとだと思ってくれていいぜ」
そう言って京は残りの紅茶を飲み干した。紫野はしばらく困惑した表情を見せていたが、やがて決心した様にうなずくとにっこりと微笑んだ。
「…ありがとうございます…『兄様』」
「どういたしまして」
京も微笑むと、二人は見詰め合う。と、不意に玄関のドアの開く音。その後聞き慣れた足音がリビングに近付いて来た。二人が足音のする方向を向くと、この部屋の主が姿を現す。
「京、貴様また…何だ、紫野もいるのか」
「兄様、お帰りなさいませ。お邪魔しております」
「ああ…体は大丈夫か」
妹の事を人一倍可愛がっている庵は、表情には出さないものの労りのこもった声でそう言うと紫野を見詰める。紫野はそんな兄に微笑みを返した。
「はい。この頃は調子が良いのです。ですから参りましたの」
「そうか…それならいいが」
「庵、お帰りー。どこ行ってたんだよ」
「何が『お帰り』だ。勝手に人の家に転がり込んでる身のくせに」
妹に向けられた声とは正反対の冷たい口調が京に向けられる。しかしそんな事に参る京ではない。庵の言葉はさっさと受け流す。
「まあまあ、堅い事言いっこなし!…そうだ、紫野ちゃんがパウンドケーキを焼いてきてくれたんだ。庵も食えよ」
「それは元々俺への物だろうが。貴様がなぜ勝手に食ってる」
「あの、私が勧めましたの。どうか京兄様を怒らないでくださいな」
「ふん、どうせこいつが『腹が減った』とか言ったんだろう…まあいい。紫野に免じて許してやるか」
「さっすが庵大明神様、心が広い!」
調子良く言う京を庵は睨み付ける。紫野はそんな二人の様子を相変わらずだと思いながらも楽しむ様な表情で微笑んだ。
「では、兄様が参りましたし、もう一度紅茶をいれ直して参りましょうか」
紫野はそう言うと茶器を持ってキッチンへ入って行った。それを見届けると庵は京を肘で小突く。
「…京」
「…んだよ」
「紫野と何かあったのか?」
「何で」
「いや、紫野の様子がいつもと違うんでな。他人には同じに見えるだろうが、身内の俺には分かる」
庵の言葉に京はニッと笑って答える。
「まーな!」
「こら!何をした!」
「ひーみーつー!」
京は掴み掛かろうとする庵の腕を擦り抜けるとリビングに入ってきた紫野にウインクした。
「…なっ、紫野ちゃん?」
紫野もその京の様子に事を察すると悪戯っぽい笑顔で答える。
「はい」
「…」
この態度の理由が分からずに庵は二人を複雑な表情で見詰めていた。その内にまた新しい紅茶がいれられ、改めて賑やかなお茶会が始まる。でも、それまでのお茶会は二人だけの秘密。
――お互いの過去の想いを伝え合ったほろ苦い、でも暖かな秘密のお茶会――