――広々とした草原、その草原に満月の月光を浴び妖しく立つ桜、
その光景は神秘的でもありまたある種の『魔』を連想させるものであった。
あたかもその一族を現すかのように
――


「ここは…どこだ?」
 背中に日輪を背負った学ラン姿の男――草薙京は呟いた。彼は自分がなぜここにいるのか、どうやってここに来たのか全く覚えがないのである。まるで気がついたらここにいた様な感覚であった。
「…草薙…京様、ですね…」
 不意にどこからか声がする。驚いて周りを見回すと桜の下に人影があった。京はその人影に向かって叫ぶ。
「誰だ!誰だか知らねぇが姿を見せろ!」
 その声を聞くとその人影はゆっくりと近付いて来る。花吹雪の中、月光に照らされたその姿は美しい少女であった。いや、少女なのだろうか。彼女は自分と同じくらいの歳にも、また幼い少女の様にも見えたからだ。その『少女』は純白の巫女装束に身を包み、腰を隠すほどの豊かな黒髪をゆったりと結っている。そしてその首には美しい首飾りがかかっていた。
「ここはあなたの意識の中…この勾玉の力であなたの意識と私の意識を同調させました…」
「あんたは誰だ!何の目的があって俺にこんな事をする!!」
訳が分からないまま少女に向かって叫ぶ京。しかし少女は臆すことなく彼の前まで来て悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。
「この顔に憶えはありませんか?」
「な…」
 彼は面食らった。しかしそう言われて見てみると確かに見覚えがある。しかしその切れ長の目の光は『その男』の様な冷たさも狂気も持ち合わせていない。いや、むしろその目には深い優しさがあふれていた。
「まさか…八神…」
「そうです…私の名は八神紫野…オロチの血を引きし者…そして兄と共にその身にオロチの血を封印し、八尺瓊勾玉を守護する者…」
 彼女の言葉に彼は身構えた。少女とはいえ八神一族の者である。彼女の兄と同じく彼を抹殺しようとしていると思った方が自然であった。しかし彼女は悪戯っぽい微笑みを浮かべたまま意外なことを言った。
「その様に身構えないでくださいませ。私は別にあなたに危害を加えるつもりはありませんわ。そのつもりでしたら既にそうしております」
「それならなぜこんな事をするんだ!何のために!!」
 京の言葉に紫野は微笑みからふっと真剣な顔つきになる。そしてさらに意外なことを口にした。
「草薙様、兄を…八神庵を救って下さいませ…」
「何!?」
 更に言葉を続けようとする京を制止し、彼女は首飾りを外し京の首に掛けると何事か念じた。すると、京の周りに風が吹き荒れ、目の前に様々な光景が現れる。

――古代の衣装を纏った男達が何人かの者と対峙している。大いなる力を操る者達に立ち向かう彼らが操るものは――

『あれは…草薙の炎…!!』
 そして彼らはその大いなる力を封印し…。

 場面が変わり、一面燃えさかる炎となる。炎の中には一人の男。その男は逃げ惑う人々を封印したはずの彼の力で無差別に虐殺している。そこに二人の人間が立ちはだかる。一人は巫女装束の少女、そしてもう一人は…。
「…ヤガミ…?」
 しかしその少年は庵ではなかった。少年はその声が聞こえたかのように振り返り、京にむかって微笑みかけた。そして二人は覚悟を決めたかのように見つめ合い、その男に立ち向かっていく――

 そこで目の前が真っ白になり、京は正気にかえった。

 「…今のは…?」
「この勾玉の記憶です…草薙家と袂を分かった後、当時の長はオロチと血の契りを交わしました…しかしそのあまりに強大な力に長は支配され…暴走する長を止めるために当時一族で最も強い能力を持っていた長の末の息子と娘が勾玉の力を借りて自らの身体にオロチの血を封印したのです…それ以来、八神の直系には勾玉の加護を受けながらオロチの血をその身に封印する宿命を負った男女が生まれる様になりました…。そして男子は八神流古武術を使い、女子は勾玉の力を受ける巫女となりオロチの血を封印し、勾玉を護って来たのです…」
 そこまで話すと彼女は京の首から勾玉を外し、自分の首に掛け直した。
「でも俺はそんな話一度も聞いた事がねえぞ」
「そうでしょう。今となってはこの事を知る人間は勾玉の意志と記憶を知りそして伝える能力を持つ私だけ…私は幼い頃勾玉にすべてを教えられたのです…そしてもうすぐそれぞれの運命が交わるという事も…」
「どういう事だ」
「あなたはもうオロチの者に出会いました…そしてもうすぐ八咫一族の者にも会う事になるはずです…」
「八咫一族?何者なんだそいつらは」
「あなた方草薙一族が草薙剣を、私達八神一族が八尺瓊勾玉を守護する様に八咫鏡を守護する一族…。そしてオロチの能力の封印を護りし者…」
「でもなぜ俺のところに…?」
「オロチの能力が解放されてしまいました…今のオロチの能力は世の中に災いを起こすもの…そうなる前に再び封印するため、あなたの力を借りに…」
「それとあんたの言う俺に八神を救ってくれっていうのと何の関係があるって言うんだ!」
「オロチの能力を封印するには『払う者』であるあなた方草薙の能力と『封ずる者』である私達八神の能力、そして『護る者』である彼ら八咫一族の能力が必要…オロチ一族はそれを知って利用するために私達一族と血の契りを交わしたのです…その能力を失わせ、自分達の能力が再び解放された時、二度と封印されぬ様に…彼らの誤算は私達が『封ずる者』
としての能力を失わなかった事…でもオロチの能力が解放された今、もし私達の中のオロチの血が目覚めてしまったら…あなたと兄は陽と陰…お願いします、兄が人であるうちに…オロチの能力に完全に飲み込まれる前にオロチの血から兄を救って下さい……私では兄を救えない…兄を救えるのはあなただけなのです…」
「あんたには悪ぃがオロチがどうだとか『払う者』だとかいうのは俺には知ったこっちゃねぇな。俺は俺のやりたい様にやる、誰の指図も受ける気はねぇ。もちろんあんたの指図もな!」
「お願いです…もし今のオロチの能力に世界が覆われる様なことになったら…いいえ、違う…私はもう二度と兄さまに大切な人をオロチの血の暴走で傷付ける様になって欲しくないの…!」
彼女はそう言って泣き崩れる。その時京は悟った、彼女も自分と同じくオロチの事や一族の宿命など関係ないのだ。兄を…八神を救いたい一心なのだ――
「…悪かった。きつい事言って。でも俺の正直な気持ちは今言った通りだ。それにあいつがそんな事を望むわけねぇ。それはあんただって良く分かってる筈だ」
「…分かっております…でも…私には堪えられない…」
「…あいつは誇り高い男だ。そう簡単に力に溺れる奴じゃねぇ。俺はそう信じてる」
 京の言葉に彼女は驚いたように彼を見る。京は微笑んでいた。
「大丈夫だ、自分の兄さんだろ?もっと信用してやれよ」
「そう…そうですわね…」
彼女も悲しそうに微笑んだ。沈黙が二人を包み、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる――
「…でも、あなたの運命は動き出しましたわ…それにオロチの者がいつまたあなたの命を狙いに来るか…その時のために…」
 彼女はそう言うと京の手を取って瞑黙した。彼女の体から青い炎がたちのぼり、京をも覆う。しかしその炎は決して彼の体を焦がす事はなく、むしろ暖かく包み込む様な炎だった。…そして炎が彼の身体を包むと共に、ゆっくりと暖かな力が流れ込む…。


――これが…八神の本来の力…?――


 京の身体が暖かな力で満たされたその時、目の前の紫野が急に崩れ落ちる。京が抱き起こすと、純白の布地に鮮やかな紅色――
「…あんた…まさか…!」
「…私の能力にはともかく…身体には少々重労働の様でしたわね…」
「どこが『少々』だよ!そんな身体でどうして俺にここまで…!」
「…私にできる事は…これ位しかありませんもの…」
「馬鹿野郎!自分の命削ってまで人のために働いてどーすんだ!!」
彼女は大きく息を吐くと京を見つめた。
「…『自分のしたい様にする』…そうおっしゃったのはあなたですわ…私は自分の意思であなたを守りたかった…それだけです…」
「え…」
彼女はもう一度にっこりと微笑む。今までのどの微笑みとも違う、懐かしい恋人でも見るような、優しく、幸せそうな顔であった。京が口を開こうとした刹那、彼女の身体は彼の腕の中で花びらとなり風に散る。
『さあ、もうすぐ皆様が参りますわ。しばらくの間お休みなさいませ…』
花びらが舞い、月光が輝きを増し、そして京は何も見えなくなった――

 次の瞬間彼の目に入った物は真っ白な天井。しかしその天井は見慣れた自分の部屋のものではない。
「…ここは?」
「おいっ!京、聞こえるのか?京!」
「大丈夫か?京!」
聞き慣れた声に京はその声の主である二つの顔をぼんやりと見る。
「紅丸…大門…」
「何があったんだ!こんなになっちまって!」
「…」


――そうだ…。俺は野試合で負けてそのまま気を失って…それじゃ今まであった事は…夢…だったのか…?――


「…なぁ、誰が俺をここまで連れて来たんだ?」
「さぁな。俺たちが来た時にゃちっちゃい女の子がいてよ。その子は『お姉ちゃんが助けたんだ』…って言ってたが」
「『お姉ちゃん』…?」
「ああ。心配だからと暫くここで付いていてくれたらしいが、途中で倒れたらしくてな、今別の病室で休んでいるそうだ。ここにいた女の子も今はそちらへ行った」
「夢…じゃ、なかったんだな…」
「ん?何か言ったか?」
「いや別に…で…その娘の名前は…?」
「そういえば聞きそびれたな…何だ、心当たりは無いのか?」
「いや…」
「それにしても…ふぅん…。ただ道で転んだとかっていうモンじゃねぇな、まさか!八神か!?」
「違う…」
「では、一体何者が!?」
「…分かんねぇんだよ。くそっ!」
 もしかすると、あいつが彼女の言っていたオロチなのかもしれない。しかしそんな事よりも渾身の力で放った大蛇薙さえ効かず、その上一方的にやられっぱなしであった事が悔しい!京はその心のままベッドの横の壁を寝転んだ状態で力一杯殴った。
 「惨めな姿だな、京…」
 ふいに背後から声が聞こえた。驚いて三人が声のした方を見ると、そこに立っていたのは…
「八神…!」
「てめぇ、何しに来やがった!!」
 紅丸と大門は即座に身構える。今の京の状態を見たところでこの男は容赦などしないと思ったからである。
「美しい友情…と言ったところか。安心しろ、今日は別に貴様を殺しに来たわけではない。第一今の貴様を血祭りにあげてもつまらんしな…今の貴様は俺が手にかける価値もない…」
「何っ!?…っ痛…!」
「今の貴様に何ができる、敗北に身も心も萎えただ苛立つだけの貴様にな!」
「…!」
 庵の言葉に京は愕然としたが、その言葉は同時に彼の闘志をも甦えらせる。
「どうした、図星のあまり声も出んか」
 嘲るように言う庵を京は睨み付けた。
「…こんな傷、かすり傷にも入りゃしねぇ。すぐに治して草薙の真の力を見せてやる!俺をこんなにしたあいつにも、そして…お前にもな!」
「…そうだ、それでこそ俺の知っている草薙京だ…!」
 庵は冷たい笑みを浮かべ、京を見つめる。と、その表情が怪訝なものに変わった。
「…あいつめ…」
「…」
 京は無言で庵を見詰める。庵はその表情を再び冷たいものに戻すと口を開く。
「…あれが何をしたか知らんが、俺には草薙、八神など知ったことではない。貴様の息の根を止める、それだけだ…」
「残念だがそう簡単にお前に殺されるわけにはいかねぇんだよ…」
「ふっ、そうでなければ面白くはない…」
 庵は冷たい笑みを浮かべたまま踵を返し病室を出ていった。
「…なあ京、八神が言っていた事は一体…?」
「別に…どうでもいい事さ…痛っ、いててて…」
「馬鹿、何やってんだ!まだ歩ける状態じゃねぇだろうが!」
「言ったろ…こんな傷、かすり傷にも入りゃしねえって…それにいつまでもこんな所に寝てるわけにはいかねぇんだよ」
 京はベッドから立ち上がった。
「お前、これ以上悪くして助けた奴の親切を無駄にする気かよ!」
 紅丸が言うと京は振り返って言った。
「いいや…それを無駄にしないためにも俺は寝てられねぇんだ…」
「京、それは一体…?」
「…何でもねぇよ…いいか、絶対ついて来んなよ!」
 そう言うと彼はフラフラと病室から出ていった。

 病院を出ると外は夜であった。ちょうど桜並木が満開であり、はらはらと散る花びらが満月の光に照らされ、幻想的な風景を作り出していた。


――まるであの場所みてぇだな――


 不意に京は彼の場所であった事を思い出した。勾玉が見せたあの光景、あの少年は八神に生き写しであった。それはただの偶然なのだろうか、それとも―京は自分達が何か大きな流れの中に巻き込まれていくのを感じる。彼女は言った、それぞれの運命がもうすぐ交わると…。ではそれから自分達はどういう運命を辿るのだろうか――
「ま、俺には関係ねーがな…」


――そうだ、草薙の宿命だの何だのは関係ない。俺の未来は俺が切り開く――


 花吹雪の中しばらくぼんやりと佇んでいると、京の頬を何かが伝わった。彼の頬を濡らすそれは――


――涙?――


 京は泣いていた。しかしその涙は悲しいものでも悔し涙でもなく、心の中のいろいろなものがゆるゆると溶けていくような暖かなものであった。


――これは彼女の涙かもしれない――


 彼女が自分に与えた力に込められた、彼女の兄への、そして自分への想い…それがこの涙なのだろう――京にはなぜかそう思えた。そして、流れる涙と共に身体の中からあの暖かな力が沸き上がって来る。


――今ならできそうな気がする…草薙の神技が――


 京は修行場所に向かって歩き出す。と、背後で微かに人の気配を感じた。


――…どうか…兄を頼みます…――


 振り返るとそこには誰もいない。京はそっと呟いた。
「…心配するなよ。あいつなら大丈夫だ。もしいざとなったら…俺がいる。だからもう泣かなくていいぜ…」
 花びらが一瞬京の周りを取り巻くかの様に降り注ぐ。京は舞い落ちる花びらを見上げ微笑むと、花吹雪の中をゆっくりと歩き出した。