――『あの人』を好きになったのはいつの事だろう。俺もはっきり覚えていない。月並みな言葉だけれど、俗に言う『気が付いたら恋に落ちていた』という感じだった――
初めて会ったのは秋の関東大会が終わった直後。今まで采配を振るってきた徳川監督の跡を継ぐ形で野球部に戻ってきた。話だけは仲間から聞いていた。素晴らしいキャッチャーで、キャプテンだったけれど、その座を山田に明け渡した男。その話を聞いた時、何故か自分とシンクロするものを感じていた。自分も学校を間違えて転校してきてしまったとはいえ、山田にキャッチャーの座を明け渡した身だ。そこにどこか通ずるものがあって、俺は何となくこの人とは上手くやっていけそうな気がした。そして実際、うまくやっていたと思う。『闘将』と呼ばれるこの人の練習はそれは厳しかった。しかし実生活となると実直で、不器用な優しさを持った人だと良く分かった。そんなこの人と俺は何となくではあるが馬が合い、そこそこ親しく話せる相手となった。そんな人なのにこの人は一方でとんでもない事もした。優勝旗が盗まれた時は『僕には優勝旗が見えます』とあからさまな嘘を言って理事長達を無理矢理納得させ春のセンバツに出場を強行したり、折角ドラフト一位で指名されたのに『明訓が負けるまで入団しない』と言ってそれを実行に移したり。しっかりしている様でどこか危なっかしいこの人に俺はどんどん惹かれていった。男が男に惹かれるなんておかしいとも心の片隅にあったけれど、それも吹っ飛ばしてしまうほどの魅力がこの人にはあった。だから俺は惹かれるままに、この人への想いへ堕ちていった――
――でも、俺はその想いを伝える事はなかった。いや、できなかった。男同士でと気味悪がられるからじゃない。そう思われて、憎まれても良かった。少なくとも表面上はそう思っていた。しかし俺は言えなかった。想いを伝える事で、今の関係を壊したくなかったんだ。そういう意味では俺は卑怯者だったし、現状を甘く見すぎていた。ここで想いを伝えていたら、後の展開は変わっていたかもしれないのに――
そして明訓は弁慶高校に負け、この人は約束通り日本ハムに入った。そして皆の迷いを吹き飛ばす様な初打席初サヨナラホーマーを放った。ああ、この人はどこへ行っても同じなんだ。どこまでも自分を見据え、高みへと昇っていく、そんな人なんだ――俺はそのホームランでそれを実感した。そしてその後、俺もドラフト三位に引っかかった。しかし俺が指名されたのはジャイアンツ。チームどころかリーグすら違う。俺は落胆したけれど、同じプロ野球選手ではあるし、ホームも一緒だ。きっとまた接点ができるとかすかな希望を持って俺は入団した。そしてその予想通り、俺とあの人との関係は微妙な位置を取りながら続いていった。そう、あの日までは――
「…なあ、三太郎」
「何ですか?土井垣さん」
オフに急に呼び出された飲み屋で、土井垣さんはぽつりと口を開いた。俺が問い返すと、土井垣さんは真面目な顔で言葉を零す。
「男が…男に惚れるっていうのは…気持ち悪い事なんだろうか」
「…え?」
俺は驚いて土井垣さんを見詰め返す。まさか、俺の想いが通じたわけでもないだろう。じゃあ、誰の事を――驚いている俺に、土井垣さんは自嘲気味な笑みを見せて更にぽつりと言葉を紡ぐ。
「やっぱり…気持ち悪いよな」
「いえ…唐突な話でびっくりしただけです。人を好きになるのは男も女も関係ないですよ」
「三太郎…お前、優しいな」
「土井垣さん…」
土井垣さんは酔って潤んだ目を俺に向けて微笑む。俺は理性を総動員して話を聞こうと問いかける。
「…まあ、唐突な話ですけど、どういう事ですか?」
俺の問いに、土井垣さんは飲んでいた冷酒をあおるように飲むと、言葉を零し始めた。
「守に…告白されたんだ」
「不知火に…?」
「始めは俺もびっくりした。俺に対する態度は単なる先輩後輩のそれだと思っていたから、まさかそれが恋だとは俺も分からなかった…でも」
「でも?」
「そう言われて…初めて俺も気付いたんだ。…俺も同じ気持ちだったんだ…って」
「土井垣さん…」
俺は愕然とする。俺がこの人に対する想いを抑えている間に、想いを伝えた人間がいた。しかもこの人も同じ気持ちになっていた――呆然とする俺に、土井垣さんは自嘲気味な笑みをまた見せて口を開く。
「ほら…やっぱり、気持ち悪いと思ってるんだろう?」
その言葉に俺ははっとすると、茶化す様な口調で、しかし俺の精一杯の想いを込めて言葉を紡ぐ。
「違いますよ。…俺も…土井垣さんの事が好きだから、ちょっとショックなんです」
「三太郎…」
土井垣さんは新しく冷酒を注文すると、一口口をつけ、俺に話すともなしに言葉を零していく。
「お前は…飄々としている様で、優しいな…優し過ぎる。それに比べて俺は、本当に卑怯者だ…守への想いが抑えられないのに、守には伝えられなくて…お前の優しさにつけ込んで俺の想いをぶちまけて…お前の優しさに甘えて…」
俺は土井垣さんが痛々しくなって、ふっと顔を向けさせ、キスをする。驚いた土井垣さんは言葉をなくした。俺はそこへ言葉を畳み掛けていく。
「俺だって、土井垣さんの事が…好きです。いいや、俺の方が先に好きになっていました。明訓の頃からずっと…茶化していると思うかもしれませんが…本気で言っています」
「三太郎…」
土井垣さんは驚いた様に俺を見詰めていたが、やがてゆっくりと首を振り、言葉を紡ぐ。
「ありがとう…でも、俺が好きなのは守なんだ。…お前の気持ちには応えられない」
その言葉に俺は絶望したが、それでも、伝えるべき言葉を紡いでいく。
「分かっています。でも、伝えたい…いえ、伝えるべきだって思ったんです。不知火が好きな土井垣さんに…それはおかしい事じゃないって伝えるためにも」
「三太郎…すまん」
そう言って頭を下げる土井垣さんの頭を上げさせ、俺は口を開いた。
「頭を下げる事じゃありません…こればっかりは仕方がない事ですから」
「ああ…すまん」
「だから謝らないで下さいって。…でも、これからも…俺は土井垣さんが好きですし、味方です。だから、今までどおりの関わり方をして下さい…それがたった一つの俺の願いです」
「…分かった」
「じゃあ、飲みましょう。それから、ちゃんと不知火に土井垣さんの想いを伝えてくださいね。約束ですよ」
そう言うと俺は無理があったが、いつもの心を隠す時の笑顔を見せて、自分のウーロン茶に手を付けた。涙は俺には似合わない。だからこの人がどんなに泣いてもいいと言ったとしても、その涙は道化師の様に笑顔の仮面で隠すんだ――
初めて会ったのは秋の関東大会が終わった直後。今まで采配を振るってきた徳川監督の跡を継ぐ形で野球部に戻ってきた。話だけは仲間から聞いていた。素晴らしいキャッチャーで、キャプテンだったけれど、その座を山田に明け渡した男。その話を聞いた時、何故か自分とシンクロするものを感じていた。自分も学校を間違えて転校してきてしまったとはいえ、山田にキャッチャーの座を明け渡した身だ。そこにどこか通ずるものがあって、俺は何となくこの人とは上手くやっていけそうな気がした。そして実際、うまくやっていたと思う。『闘将』と呼ばれるこの人の練習はそれは厳しかった。しかし実生活となると実直で、不器用な優しさを持った人だと良く分かった。そんなこの人と俺は何となくではあるが馬が合い、そこそこ親しく話せる相手となった。そんな人なのにこの人は一方でとんでもない事もした。優勝旗が盗まれた時は『僕には優勝旗が見えます』とあからさまな嘘を言って理事長達を無理矢理納得させ春のセンバツに出場を強行したり、折角ドラフト一位で指名されたのに『明訓が負けるまで入団しない』と言ってそれを実行に移したり。しっかりしている様でどこか危なっかしいこの人に俺はどんどん惹かれていった。男が男に惹かれるなんておかしいとも心の片隅にあったけれど、それも吹っ飛ばしてしまうほどの魅力がこの人にはあった。だから俺は惹かれるままに、この人への想いへ堕ちていった――
――でも、俺はその想いを伝える事はなかった。いや、できなかった。男同士でと気味悪がられるからじゃない。そう思われて、憎まれても良かった。少なくとも表面上はそう思っていた。しかし俺は言えなかった。想いを伝える事で、今の関係を壊したくなかったんだ。そういう意味では俺は卑怯者だったし、現状を甘く見すぎていた。ここで想いを伝えていたら、後の展開は変わっていたかもしれないのに――
そして明訓は弁慶高校に負け、この人は約束通り日本ハムに入った。そして皆の迷いを吹き飛ばす様な初打席初サヨナラホーマーを放った。ああ、この人はどこへ行っても同じなんだ。どこまでも自分を見据え、高みへと昇っていく、そんな人なんだ――俺はそのホームランでそれを実感した。そしてその後、俺もドラフト三位に引っかかった。しかし俺が指名されたのはジャイアンツ。チームどころかリーグすら違う。俺は落胆したけれど、同じプロ野球選手ではあるし、ホームも一緒だ。きっとまた接点ができるとかすかな希望を持って俺は入団した。そしてその予想通り、俺とあの人との関係は微妙な位置を取りながら続いていった。そう、あの日までは――
「…なあ、三太郎」
「何ですか?土井垣さん」
オフに急に呼び出された飲み屋で、土井垣さんはぽつりと口を開いた。俺が問い返すと、土井垣さんは真面目な顔で言葉を零す。
「男が…男に惚れるっていうのは…気持ち悪い事なんだろうか」
「…え?」
俺は驚いて土井垣さんを見詰め返す。まさか、俺の想いが通じたわけでもないだろう。じゃあ、誰の事を――驚いている俺に、土井垣さんは自嘲気味な笑みを見せて更にぽつりと言葉を紡ぐ。
「やっぱり…気持ち悪いよな」
「いえ…唐突な話でびっくりしただけです。人を好きになるのは男も女も関係ないですよ」
「三太郎…お前、優しいな」
「土井垣さん…」
土井垣さんは酔って潤んだ目を俺に向けて微笑む。俺は理性を総動員して話を聞こうと問いかける。
「…まあ、唐突な話ですけど、どういう事ですか?」
俺の問いに、土井垣さんは飲んでいた冷酒をあおるように飲むと、言葉を零し始めた。
「守に…告白されたんだ」
「不知火に…?」
「始めは俺もびっくりした。俺に対する態度は単なる先輩後輩のそれだと思っていたから、まさかそれが恋だとは俺も分からなかった…でも」
「でも?」
「そう言われて…初めて俺も気付いたんだ。…俺も同じ気持ちだったんだ…って」
「土井垣さん…」
俺は愕然とする。俺がこの人に対する想いを抑えている間に、想いを伝えた人間がいた。しかもこの人も同じ気持ちになっていた――呆然とする俺に、土井垣さんは自嘲気味な笑みをまた見せて口を開く。
「ほら…やっぱり、気持ち悪いと思ってるんだろう?」
その言葉に俺ははっとすると、茶化す様な口調で、しかし俺の精一杯の想いを込めて言葉を紡ぐ。
「違いますよ。…俺も…土井垣さんの事が好きだから、ちょっとショックなんです」
「三太郎…」
土井垣さんは新しく冷酒を注文すると、一口口をつけ、俺に話すともなしに言葉を零していく。
「お前は…飄々としている様で、優しいな…優し過ぎる。それに比べて俺は、本当に卑怯者だ…守への想いが抑えられないのに、守には伝えられなくて…お前の優しさにつけ込んで俺の想いをぶちまけて…お前の優しさに甘えて…」
俺は土井垣さんが痛々しくなって、ふっと顔を向けさせ、キスをする。驚いた土井垣さんは言葉をなくした。俺はそこへ言葉を畳み掛けていく。
「俺だって、土井垣さんの事が…好きです。いいや、俺の方が先に好きになっていました。明訓の頃からずっと…茶化していると思うかもしれませんが…本気で言っています」
「三太郎…」
土井垣さんは驚いた様に俺を見詰めていたが、やがてゆっくりと首を振り、言葉を紡ぐ。
「ありがとう…でも、俺が好きなのは守なんだ。…お前の気持ちには応えられない」
その言葉に俺は絶望したが、それでも、伝えるべき言葉を紡いでいく。
「分かっています。でも、伝えたい…いえ、伝えるべきだって思ったんです。不知火が好きな土井垣さんに…それはおかしい事じゃないって伝えるためにも」
「三太郎…すまん」
そう言って頭を下げる土井垣さんの頭を上げさせ、俺は口を開いた。
「頭を下げる事じゃありません…こればっかりは仕方がない事ですから」
「ああ…すまん」
「だから謝らないで下さいって。…でも、これからも…俺は土井垣さんが好きですし、味方です。だから、今までどおりの関わり方をして下さい…それがたった一つの俺の願いです」
「…分かった」
「じゃあ、飲みましょう。それから、ちゃんと不知火に土井垣さんの想いを伝えてくださいね。約束ですよ」
そう言うと俺は無理があったが、いつもの心を隠す時の笑顔を見せて、自分のウーロン茶に手を付けた。涙は俺には似合わない。だからこの人がどんなに泣いてもいいと言ったとしても、その涙は道化師の様に笑顔の仮面で隠すんだ――
――ひびわれた心は まるでリヤドロのよう
舞台化粧の下に涙かくす
詠唱(アリア)が流れて 軽やかに歌えば
明日もビロードの幕が上がるよ
星さえも眠る 新月の闇に
話す相手は 古い手風琴(アコーディオン)
ブラボー ブラビッシモ プルティッネッラ
――そんな寂しい影が 道化役者の素顔と誰も知らないから――
(クレヨン社『絵のない絵本~サーカスの光と影~』より)
舞台化粧の下に涙かくす
詠唱(アリア)が流れて 軽やかに歌えば
明日もビロードの幕が上がるよ
星さえも眠る 新月の闇に
話す相手は 古い手風琴(アコーディオン)
ブラボー ブラビッシモ プルティッネッラ
――そんな寂しい影が 道化役者の素顔と誰も知らないから――
(クレヨン社『絵のない絵本~サーカスの光と影~』より)