ある日の夕方、込み合った喫茶店の一角で少女がノートを読んでいた。側にある紅茶の冷め具合からしてかなりの時間ここにいる様である。しかし時折人待ち顔で窓の外を見る所から察してここにいるのは勉強をするためではなく、誰かを待っているといった所なのであろう。と、店の中に少年が息を切らして駆け込んでくる。少女の表情が明らかに不機嫌になった所を見ると、彼が少女の待ち人らしい。少年は店内を見渡し少女を見付けると急ぎ足で近付いてくる。
「…悪ぃ、碧。待ったか?」
少年が苦笑いをしながらすまなそうに手を合わせる。少女―八神碧は不機嫌そうに口を開く。
「『待ったか?』じゃないわ。人呼び出しといて30分以上遅れて来るってのはどういう了見よ、翔如」
翔如と呼ばれた少年―フルネーム草薙翔如―も負けじとばかりに言い返す。
「しょーがねーだろ、俺だって色々あるんだよ」
「色々って何よ…ま、おかげで影絵の音響が少しは決められたから、ここのオーダー全部あんた持ちって事で許してあげるか」
碧が悪戯っぽい微笑みを浮かべて言うと、翔如は呆れた表情を見せる。
「お前なぁ…まあ、今日は元々そのつもりでここにしたんだけどよ」
「どういう事?」
碧が不思議そうに尋ねると、翔如は顔を背けてぶっきらぼうに答える。
「…別に。あ、俺コーヒー。お前おごりなら何か食うだろ」
「うん。あたし、チョコパフェ追加」
翔如は碧の向かい側に座ると、先刻碧が見ていたノートを覗き込んで口を開く。
「それが影絵の演出ノートか?」
「うん、まあね。『演出ノート』っていうより今までまとめた事を書いてるだけなんだけど」
「…で?演出殿。出来栄えはいかがでございますか?」
からかう様に翔如が言うと碧はわざと仰々しく言う。
「まあ、みんなそれぞれきちんとやってくれてるし、あとは録音をちゃんとやれば、いいものができそうね」
そこまで言うと二人は吹き出しておかしそうに笑った。ひとしきり笑うと碧は口を開く。
「…そうそう。今回はあんたの出番多いから歩行をしっかり練習してよね」
「へーへー…でもあれ辛いんだよなぁ」
「何言ってんの。あんたは丈夫さだけが取り柄なんだから。志穂なんて腰と足首痛めてるから歩行したくてもあんまりできないのよ」
ぼやく翔如に碧はぴしりと言うと、思い出したように続ける。
「…そうだ、照明で都に相談したい事があるんだけど、都今日いる?」
碧の問いに翔如は困った様に口を開く。
「んー…あいつ、今日は庵とデート。多分帰りも遅いぜ」
「…そ、しょうがないなぁ…じゃ明日会った時でいいか」
「悪ぃな、もし早く帰ったら電話させっから」
「ありがと。でもいいよ、別に急がないから」
申し訳なさそうに言う翔如に碧は笑って返すと、運ばれてきたパフェを嬉しそうに口に入れた。翔如もコーヒーに口をつけると二人は都と庵をネタに話を始めた。
「…でも、うちの都が八神の人間の、しかも実質現当主の庵とああやって付き合ってるなんて、柴舟伯父貴や俺達本家筋はともかく頭の固い一族の末端の連中が聞いたら卒倒しちまうかな」
そのうちに翔如がしみじみと口を開く。碧はその言葉に意外だという表情を見せた。
「へぇ…あんたでも一族の事なんか考える事あるんだ」
「『あんたでも』は余計だよ。俺だって自分の家の事位たまにはは考えるさ。そういうお前んとこだって…いや、お前んとこの方がむしろうるさいんじゃねぇの?」
「ま…ね。あたしらが一緒の高校にいるのもイヤみたいよ。第一、ウチのタツ兄があんたんとこの遠縁の麻由義姉と結婚しちゃった時も大騒ぎしてた位だし。その上当主が二代続けて草薙の本家にごく近い人間とくっついた…なんて聞いたら反乱が起きるかもね」
おかしそうに言う碧に翔如は痛々しそうな表情を見せる。
「碧…それ、シャレになんねぇよ」
碧は翔如の表情を見て寂しそうに笑うと呟く様に言う。
「草薙と八神の660年の因縁…か。そんな因縁、捨てちゃえばいいのよ」
「碧…」
碧は続ける。
「草薙とか八神とかあたしらには関係ないわ。そんな事言ってたら都と庵兄の気持ちはどうなるのよ。そんな古臭い因縁のせいで別れるなんてばかばかしいじゃない」
「そっか…そうだな」
「それにそんな事言ったらあたしだって八神の人間なんだからあたしらも対立しなきゃいけないじゃない。あたしやーよ、都と別れるの。…ついでに、あんたともね」
そう言うと碧はばつの悪そうな表情で横を向いた。翔如はその横顔に向かってぼそりと言う。
「…俺だってやだぜ。お前と別れるの」
「えっ…?」
翔如の言葉に碧は驚いて彼の顔を見る。翔如は一瞬真剣な表情を碧に見せると、すぐにニッと笑って続けた。
「だって、お前みたいなバカ強の女と対立してみろよ。命がいくつあっても足りねぇよ」
「…んですってぇ?」
「悪ぃ悪ぃ、これでも褒めたつもりなんだよ」
むっとした顔をする碧を翔如は笑ってなだめる。
「それにしたって仮にも女の子に向かって『バカ強』はないでしょ?」
「『仮にも』…って…何だ、お前も自分が普通の女共とは違うって認めてんじゃねぇか」
「…」
翔如はにやにやしながら口を開く。碧は翔如の言葉に反論したつもりの自分の発言が墓穴を掘った事に気付いて絶句した。翔如はその様子を見て笑いながら続ける。
「でも、俺はそうやって相手をバッタバッタと倒してく強い碧が碧らしくていいと思うぜ」
碧はその言葉にさらにむっとする。
「えーえー、どうせあたしはあんたにくっついてくる他の子と違ってかわいい態度なんかできない格闘技しか能のない女よ。悪かったわね!」
むくれる碧に翔如は慌てて取り繕う。
「そうじゃねぇよ。俺はお前の才能を認めてんだよ。お前は巫女だけやってるより格闘技やってる方が生き生きしてていいって言ってんだ」
「はいはい、分かったわよ。お世辞でもこの際いいわ。許したげる」
翔如の反論に半ば呆れるように碧が口を開く。翔如はむきになって続ける。
「お世辞なんかじゃねぇよ。俺は正直に言っただけだぜ。それに俺は逆におしとやかな碧なんて想像つかねぇよ。第一そんな碧だったら…」
「だったら?」
碧が尋ねる。翔如は赤くなって顔を背けながら小さな声でぼそりと言う。
「…れねぇよ」
「何?」
翔如の言葉は聞き取れない程小さかったので碧がもう一度聞く。翔如はこんな恥ずかしい言葉(本人にとってもごく普通の高校生にとっても)を二度も言う根性はないので、ぶっきらぼうな態度を見せてごまかした。
「…何でもねぇよ」
「何よ、気になるわね」
翔如の態度に碧は不満そうな表情を見せる。
「何か今日のあんたおかしいわよ。それにすっかり忘れてたけど何でここにあたしを呼び出したのよ」
碧が不満そうな態度のまま尋ねると、翔如もぶっきらぼうな態度のまま彼の手によるものと思われるなかなか丁寧にラッピングされた包みを差し出した。
「…これ、やる」
「何?これ」
「前に言ったろ?『小遣い貰ったら一番にお前の誕生日プレゼント買ってやる』って。何やるか迷ったから結局一ヶ月も遅れたけどな」
「えっ?ほんとに買ってくれたの?あんたの事だからてっきり忘れてると思ってた」
「いちいちうるせぇ女だな…いいから開けてみろよ」
翔如に促されて碧は包みを開けて中身を見る。と、とたんに嬉しそうな表情を見せた。
「あーっ!これあたしが探してたCDじゃない!廃盤になってたしマイナーだから半分諦めてたのに!よく見つけたわね、翔如」
「隣の市の中古CD屋にあったぜ。傷もついてねぇみたいだし、ま、掘り出しもんだな。それに…あともう一つ入ってんだろ」
「えっ?…あ、これ…」
翔如の言葉に碧はもう一度包みを見る。そこにあったのは…
「ペンダント…」
そこにはきれいにカットされた蒼とも緑ともつかない美しい色の石がヘッドとなっているペンダントがあった。傍目から見てもなかなかいいデザインのものである。しかし碧の表情は先刻の嬉しそうな様子が消え、複雑なものに変わった。
「翔如…あたしが大事にしてるもの…知ってるわよね」
「ああ…倭樹さんにもらったペンダントと指輪…指輪ははめてねぇけどペンダントは今お前が付けてるやつだろ」
「そうよ。これはあたしにとって倭姉の形見でもあるわ…それ知ってて、何でわざわざこういう物贈るわけ?」
「だからだよ」
「え…?」
翔如は先刻とは打って変わった真剣な表情を見せる。
「お前、いつも倭樹さんの事笑って話してるけどよ。それしまわずに付けてるって事は…まだ責めてんだろ?…守れなかった事」
「そんな事…」
「ないなんて言うなよ。今だって泣きそうな顔してんじゃねぇか」
反論しようとする碧を翔如は遮る。実際碧は辛そうな表情を見せていた。翔如は真剣な表情のまま続ける。
「だから少し荒療治だと思ったけどよ、それやる事にしたんだ。倭樹さんのペンダント付けて自分を責める位だったら代わりにこのペンダント付けて元気になって欲しいと思ってよ」
「翔如…」
「忘れろ…とは言わねぇよ。でも自分を責めるのはやめろよな。お前も辛いだろうけど、俺も見てらんねぇんだよ。倭樹さんの話する時、変にはしゃいでるお前をさ」
「…」
「…それにその事抜きでもそれ、お前に絶対似合うと思ったからよ」
翔如はそう言うと赤面した顔を横に向ける。碧はしばらくじっとペンダントを見詰めていたが、ほっと溜め息をつくと包みの中にペンダントをしまった。それを見た翔如は申し訳なさそうに口を開く。
「…悪かったな、碧。お前の気持ち考えねぇで…嫌だったら返してくれていいぜ」
その言葉に、碧はわざとむくれた様な口調で口を開く。
「何言ってんのよ、あたしは返すとまでは言ってないでしょ」
「碧…」
碧は彼にふっと柔らかな笑顔を見せる。
「ありがと翔如…今はまだ付けらんないけど、いつかきっと付けるわ。約束する」
「おー…さーてと、お前もパフェ食い終わったしとりあえず店出ないか?」
碧の笑顔に内心どぎまぎしながらも翔如はそっけなく言う。
「そうね、あんたのせいであたしここで粘った形になっちゃったし」
「許してくれよ。ちゃんとおごってやるからさぁ」
意地悪っぽく言う碧に翔如は『勘弁してくれ』といった感じで片手を上げる。碧は笑って続ける。
「いいのよ。先刻言ったのは冗談。あたしは自分の分ちゃんと払うわ」
「いいや、俺が払うよ。今日は誕生日のプレゼントだけじゃなくてホワイトデーのお返しも兼ねてるからな…まあ、こっちも遅れちまったけどよ」
「『ホワイトデーのお返し』?…」
不思議そうに尋ねる碧に翔如は照れくさそうに答える。
「お前、バレンタインの時に『その人が喜ぶ物をあげればいい』って言ってただろ?俺もそれにならったって訳。お前、ここのチョコパ好きじゃねぇか」
「じゃあ、ここに呼び出したのはあたしのため…?」
「ああ。ま、元から最後にばらすつもりだったからお前がチョコパ頼むかは半分掛けだったんだけどな」
笑って言う翔如を碧はしばらく見詰めていたが、その内にふっと笑うと口を開く。
「…やっぱりあたしが払うわ」
「そうはいかねぇよ。俺にも男の意地ってもんがあるからな」
「ううん…あたしはもう素敵なプレゼントをもらったもん。もういい」
そう言うと碧はもう一度柔らかな笑みを見せる。翔如はしばらく黙っていたが、やがてぶっきらぼうに、けれど照れくさそうに口を開いた。
「…後でおごれって言っても知らねぇぞ」
「うん」
「…ねぇ、翔如…もしかして遅れて来たのってわざとあたしに『おごれ』って言わせるため?」
「いんや、単純に遅刻しただけ」
「もう、こういう時は嘘でも『そうだ』位言いなさいよ」
「そんな軟弱な男みてーな態度できるかよ」
二人が楽しそうに喧嘩をしながら歩いて行く街に、暖かな風がすり抜けていった。