「やかましい、こんな夜中に誰…」
 夜中に部屋のドアを叩く音で起こされ、機嫌の悪い庵がドアを開ける。騒音の主を見た庵は一瞬驚いた表情を見せた。そこにはへべれけに酔った草薙京が立っていたのだ。
「よぉ…」
「『よお』ではない。京、何て様だ貴様」
「何らよぉ、おれわもうハタチなんらから酒飲んらってな〜んにも文句いわれる筋合いわないもんねぇ」
 ケラケラと笑う京を庵は冷たく一瞥する。
「悪いが酔っ払いを部屋に入れる余裕は無いんでな、帰れ」
「入れてくれよぉ、でなきゃずーっとここにいるぞぉ」
「勝手にしろ」
 ガチャリとドアが閉まる。
「なんらよぉ、入れろよバカ庵ぃ!」
 京がドアを叩きながらわめき散らしていると、ドアがまた開く。と同時に京はずぶ濡れになった。頭から水をかぶせられたのだ。
「…にすんだよぉ!」
「…少しは酔いが覚めたか。馬鹿者が」
「…あ…」
「ここで騒がれたら周りに迷惑だからな。特別に入れてやるから服を乾かしていけ」
 そう言うと庵はくるりと向きを変え、奥に入って行こうとする。
「庵…」
「何だ」
 京が呼び止めると庵は背を向けたまま応える。京はその背中にぼそりと言う。
「…ありがとよ」
「ふん」
 中に入ると京は着替えを借りてリビングのソファに座る。庵は家族から独り離れてこのマンションに住んでいた。余分なものは何一つなく、きちんと片付けられた無機質な部屋。まるで住人がいないかの様な―
「どうした京」
 ふと気が付くとすぐそばに庵の顔がある。
「いや…別に」
「飲め。酔い覚ましだ」
 そう言うと彼は京の前にグラスを置く。ほのかな湯気がたっているそれはレモネードだった。京は黙ってそれを口にする。染み渡る温かさが京を包んだ。庵も京の隣に座り無言でコーヒーを飲んでいる。気まずい沈黙が続く…。
「…何があった」
 沈黙を破るように庵が口を開いた。
「えっ?」
「お前がここまで酒を飲むことは滅多にないからな、何かあったと思う方が自然だ。話してみろ」
「そっか…お前にはお見通しかぁ…」
「お前が単純なだけだ」
「ちぇーっ」
 京は一瞬むくれる素振りをしたが、すぐに真剣な顔付きになった。心なしか沈んでいる。「庵…俺達ってさ一体何なんだろうな。『オロチを封印しろ』だとか『血の宿命』だとか勝手に人生決められて、挙げ句の果てに俺たちの勝負…か」
「…お前らしくもない。そんな事で悩んでいたのか」
「人が悩んでるのに『そんな事』はねぇだろ!?」
「お前は自分で『宿命なんて俺には関係ない』と言っていただろうが。それに俺とお前の勝負は二人だけの問題だ、そうだろう?」
「違う!…そんなんじゃねぇよ…俺…不安なんだ…」
「一体何が…」
 怪訝な顔で庵が尋ねる。京は唇を噛んだ。
「お前がオロチになっちまうんじゃないかって…神楽が言ってた、オロチの血を引いてるお前は無意識にオロチの力を使ってるって…このままだとお前はオロチになっちまうって…俺やだよ!お前まで封印しなきゃいけなくなるかもしれないなんて!それに…そうじゃなくてもオロチの力を使い続けると死んじまう事だってあるって…そんなのは…もっと嫌だ!」
「…京…」
 泣きじゃくる京を庵は自分の胸にそっと抱き締めると、落ち着かせる様に耳元で囁いた。「大丈夫だ…俺はオロチにはならない…まして死ぬわけなどない…」
「いおり…」
「聞け、京…確かに俺は自分の中のオロチの血が騒ぐのに耐えられず家を飛び出した…このままでは家族を傷付けるのではないかと不安になってな…でも京、今は違う…お前がいるから…俺は大丈夫だ…」
「…」
 見上げると彼は微笑んでいた。自分を安心させるかの様にいつもは絶対に見せない優しげな表情で。つられて京も笑ったが、泣き笑いになってしまう。京はもう一度庵の胸に顔を埋めると、自分自身に問い掛けていた。
―クールで、捕らえ処がなくて、でもこんな風に切ない程さり気ない優しさをくれる庵に、俺は何をしてやれるんだろう―
「…本当は俺がしっかりしなきゃなんねぇのに逆に元気付けられちまったな…カッコ悪ぃの」
「慣れない事をするからだ」
「ちぇ…言ってくれるぜ」
「お前はお前のままでいい…それで十分だ…」
 庵の腕に力が込められ、そのまま二人の唇が重なる。京は庵にその身を預けたまま、ゆっくりと時間が流れていく。と、京がふと顔を上げ、その目を輝かせた。
「…おい、見ろよ庵」
 庵は京が指差した方向を見る。いつの間に降っていたのか、優しげな霧雨。それが夜明け独特の空の蒼に不思議な彩りを与えていた。
「きれいだな…」
「だろ?こういうのを『ラムネ色』って言うんだろーな」
 楽しそうにはしゃぐ京を愛しさを込めて庵は見詰める。
―我儘で、単純で、でも自分が忘れていた何かを与えてくれる京の存在に自分はどれだけ救われたか…―
「…俺がどうなっても、本当にお前は俺の側にいてくれるか?」
 庵の口からふと気が付くとそんな言葉が自然と零れていた。京は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの屈託ない笑顔になる。
「ばーか。当たり前だろ」
 京はその時先刻自分に掛けた問い掛けの答えがはっきりと見えた気がした。彼に伝えるのはその答え。
「お前がどんなになったって、俺がいてやるから…何処に居たって絶対呼べよ…俺の事…」
「…ああ…」
 

――ゆっくりと夜が明け、ラムネ色の雨の朝が訪れる――