「暖かくなって一気に咲いたか…いい時期に来れたな」
 昼時のある都内の公園。オフを利用して土井垣は毎年恒例の花見に来ていた。この公園は桜だけではなく様々な花が名物であったが、桜の見事さは格段であり、しかも周辺住民のみの穴場である事もあってゆっくりと花見ができるため、彼のお気に入りの場所であった。穴場とはいえオフィス街が傍にある公園であるため、ランチを楽しむサラリーマンやOLの姿もちらほらと見えるが、皆桜の見事さに目を奪われているため土井垣に気付く様子は全くない。下手に騒がれる事がないのも土井垣にとっては好都合であった。そうして桜を見ながらぶらぶらしていると、ふと一人の女性が目に入る。腰まである長い髪をバレッタで留め、少しラフなスーツ姿で食事をしながらぼんやりと桜を眺めているその女性は、土井垣のちょっとした知り合いであった。久しぶりに、しかも珍しく昼間に見るその姿に土井垣は思わず声をかける。
「宮田さん、こんな時間に会うなんて偶然だな」
 頭上から声を掛けられて『宮田さん』と呼ばれた女性はびっくりした様に顔をあげると、土井垣の顔を確認して笑顔を見せる。
「何だ、土井垣さんですか。驚かさないで下さいよ~」
「いや、驚かせるつもりはなかったんだが…悪かったな」
「いえ、いいですよ。でもお久しぶりです」
「そうだな。そういえば君の職場はこの辺りだったか」
「そうですよ~でもこの時間に会うのは初めてですね」
「確かに」
 そう言うと二人はおかしそうに笑った。彼女の名前は宮田葉月、土井垣とは彼女の所属しているサークルを通じて親しくなった仲である。とはいえ、知り合った場所は土井垣とそのサークルが行きつけにしている飲み屋であり、お互い職場などは聞いていたが個人的な連絡先などは聞いていないため、必然的に二人が会うのは夜サークルが練習を終わってその飲み屋に顔を出した時に土井垣が飲みに来ていればという条件付きなので、昼間にこうして会うのは正に偶然の産物なのだ。土井垣に会えて嬉しいのか、葉月は楽しそうに彼に声を掛けていく。
「お花見ですか?土井垣さん」
「ああ。宮田さんも花見をしながら昼飯とは風流だな」
「あ…まあ、そんなところです」
 そう言ってにっこり笑う彼女の表情に、土井垣はふと違和感を感じた。それ程頻繁に会う事はないが、いつもの彼女はもっと周囲を明るくする様な元気さがあった気がする。しかし今ここで笑っている彼女にはその元気さがない。むしろ顔色が悪く、少ない量の上全くといっていい程進んでいない食事の様子からしてもどこか具合が悪いのではないかという印象すら与えた。土井垣はその感覚を素直に口にする。
「…宮田さん、もしかしてかなり疲れてないか?」
 土井垣の言葉に、彼女は驚いた様子を見せながらも茶化す様に口を開く。
「え?何でですか?私別に疲れてませんよ。それを言うなら土井垣さんこそ疲れてるんじゃないですか?」
「何故だ」
 土井垣か問い返すと、葉月は先程の茶化す様な口調を止め、心底心配そうに続ける。
「テレビ見てますよ。プレーイング監督だって事は知ってますけど、監督業だってきついでしょうに今年はオープン戦から試合にも本当に出て、しかも最初から飛ばし気味じゃないですか。疲れない方がおかしいです。しばらくぶりに会いましたけど、少し痩せたみたいですよ。大丈夫なんですか?」
 まくし立てる様な彼女の言葉に土井垣は言葉が詰まる。確かに彼女の言う通り、土井垣は少し疲れを感じていたのは確かだった。今回花見に来たのも毎年恒例というだけでなく、疲れを癒し鋭気を養いたいからという理由も心のどこかにあったのは否定できない。言葉につまる土井垣を見て彼女はぽつりと呟く。
「そう、土井垣さんに比べたらあたしなんてまだまだ。疲れたなんて言っちゃいけないもん…」
 そう呟いた葉月の言葉を土井垣は聞き逃さなかった。
「宮田さん…今本音が出たぞ。やっぱり疲れてるんじゃないか」
 土井垣は咎める様に口を開く。彼女ははっとして口をつぐむと、取り繕う様に言葉を続ける。
「何言ってるんですか、聞き違いですよ。私は大丈夫、元気で…」
 そう言って取り繕おうとする彼女に土井垣は真剣な目を向ける。その目に気圧されて葉月はまた口をつぐんだ。土井垣は小さく溜息をつく。
「…まあ俺と君はそれ程親しい訳ではないからな。別に言いたくないならいいが、溜め込むのは身体に良くないぞ…と俺もよく言われるんだがな」
 苦笑する土井垣を葉月はぼんやりと見詰めていたが、やがてその視線を桜に戻し、またぽつりと呟いた。
「土井垣さんは桜…綺麗に見えますか?」
「え?…ああ、まあ…そうだな」
 唐突な彼女の言葉に土井垣は一瞬言葉に詰まりながらも答える。その答えに彼女はしばらく沈黙すると、やがてゆっくりと言葉を続けた。
「…本当は職場で仕事しながら食事しようと思ったんですけど、ご飯を買いに出たらこの桜が目に入って、ふらっとここに来たんです」
 土井垣は沈黙したまま彼女の語るに任せている。それを知ってか知らずか彼女はぽつり、ぽつりと続ける。
「…毎年綺麗だなと思ってたから、今年だってきっと綺麗なはずの桜を見ながらご飯食べてるのに、ご飯はおいしくないし、桜だって今日はどうしても綺麗だなって思えなくて…でも何となく離れがたくて…ぐちゃぐちゃ考えてた時に土井垣さんが声掛けて来たんです…でも『疲れてないか?』なんて聞いて来たのは土井垣さんが初めてです。職場の人達も、友達だってみんな『宮田さんは元気でいいね』って言ってますよ…」
「…」
 葉月の搾り出すような言葉の重さに、土井垣は言葉を失う。と、彼女の目から涙が零れ落ちた。
「ほとんど毎日遠くの出張に出されて、その準備やら残務処理やら全部抱え込まされてホントはすごく疲れてるって言いたいですよ、私。でも、もっと頑張ってる土井垣さんを見てたらこの位で疲れたなんて言うのは土井垣さんに対して失礼ですよ…」
 まさか泣き出すとは思っていなかったので土井垣は慌てた。彼は何とかして泣き止ませようと考えをめぐらせると、彼女の頭を軽く叩き、言葉を掛ける。
「…気を遣ってくれるのはありがたいが、頑張るという事や疲れたという気持ちは他人と比べるものではないだろう?それに、君に泣かれたら俺は困るだけだ」
「…はい、すいません…」
「謝らなくていいから泣くのはやめてくれ。…その代わり、元気でいろとも言わないから」
「…え?」
 驚いた様に顔を上げる葉月に土井垣は感情を隠す様な無愛想な表情で続ける。
「どうせ周りから元気でいる事を押し付けられているんだろう?それ程深くない付き合いとはいえ、その位は今までの様子から想像がつく」
「…」
「俺だって一応は監督だからな、選手に目を行き届かせるのも仕事の一つだ。それを応用しただけだが、当たったみたいだな」
 事務的な口調のその言葉に今まで沈んでいた葉月はくすりと笑って言葉を返す。
「そうして目を配ってるのはキャッチャー時代からでしょう?バッテリーを組んだピッチャーのコンディションを見極めなきゃいけないんでしょうし。監督の仕事だからじゃなくて、根っからの職業病ですよ」
「あのなぁ…そう言うと身もフタもないだろう。…でもな、冗談は抜きにして俺の様に常に公の目があったり周囲をまとめなければならない人間ならともかく、君の様に普通に与えられた仕事をしている人間なら、疲れた時には少しくらいなら疲れた様にしていてもいいんだぞ」
 葉月の言葉に少しむくれた様な口調で、しかし同時に労わりも込められた言葉を続ける土井垣。彼女はその言葉にくすくすと笑うと、指先で涙をぬぐった。
「ありがとうございます…土井垣さん。でも今の言葉だとやっぱり土井垣さんだって疲れてるんじゃないですか。それなのに気を遣わせてすいません」
「あ、ああ…俺の事は別に構わんから…」
 芯から申し訳なさそうに謝る葉月に土井垣は少し慌てた様子を見せる。彼女はそれを見て茶化す様に、しかし今度は先程と違う翳りのない笑顔を見せ、言葉を返した。
「ま、お互い無茶はしない様にしましょうね」
「…あれだけ沈んでいたくせに、うまくまとめたな。まあいつもの宮田さんに戻ったのは良かったか…」
 すっかりいつもの調子で土井垣を茶化す方向に行った葉月の様子に彼は呆れた様に口を開いたが、やがてふっと笑うと柔らかな口調で続ける。
「まだ時間はあるんだろう?とりあえず…今はお互いこの桜を満喫するとしようか」
「そうですね。…今なら綺麗だなって思えそうです」
 二人は微笑み合うと桜を見上げる。散り始めの桜が二人を暖かく包みこんだ。