「おねーちゃん、ほらこれ!」
 のどかな小春日和の午後。小さな女の子が頬を真っ赤にして庭に駆け込んでくる。その手には小さな花が咲いた鉢が抱えられていた。
「まぁ千枝子ちゃん、綺麗なお花。どうしましたの?」
「うん、うちのおにわでいっぱいさいてたから。おねーちゃんにもあげようとおもっておとーさんにとってもらったの。『さくらそう』っていうんだって」
「ありがとう、でも重かったでしょう?」
「ううん、これくらいだいじょうぶだよ。でもよかったぁ!おねーちゃんがよろこんでくれて」
「私もこんなに綺麗なお花を頂いて嬉しいですわ。折角ですからこのお花は家のお庭の一番いい所に植えましょうね」
「うん!」
「でしたら今から…」
 そう言ったとき、ふと紫野が生け垣の外に顔を向ける。
「どうしたの?」
「…ごめんなさいね、千枝子ちゃん。急にお客様がいらしてしまいました」
「えーっ、そうなの?つまんないのぉ」
「植え代えはまた明日致しましょう。植木鉢はお借りしますね」
「だったらこのおはな、あしたもうちょっともってくるよ!」
「よろしいのですか?千枝子ちゃん」
「いーのいーの、いっぱいあるし。じゃあしたね、おねーちゃん」
 女の子が帰っていくと、彼女はもう一度先程の方向を見詰めて微笑んだ。
「…人払いは致しましたわ。隠れていらっしゃらないで、出ていらしたらどうですの?」
 そう言うと生け垣の陰から一人の若い女性が現れる。切れ長の目をした少々きつめの美人である。
「…良く分かったわね。完全に気配は消したつもりなのに…」
「気配を消しても、存在は消せませんもの。異質なものがいれば、空気や花が教えてくれます」
「『巫女として素晴らしい能力を持っている』と聞いていたけれど、どうやら嘘では無い様ね。八神紫野さん…」
「ありがとうございます。それで、今日は何の御用でしょうか。八咫の巫女様…」
 微笑みながら少女は女性に問う。女性は驚いたように彼女を見たが、そこには悪意も皮肉も全く無かった。
「私の正体も分かっているのね」
「ええ、お名前までは存じ上げませんが…」
「私の名は八咫ちづる…いえ、神楽ちづると言った方がいいかしら」
「神楽ちづる様…ですか。いいお名前ですね、それで御用は…」
 紫野が尋ねると、神楽ちづると名乗った女性は真剣な顔で言った。
「私の正体まで分かっているなら話は早いわ。オロチを封じたいの。八神紫野、あなたの兄さんと共に力を貸して頂戴」
 紫野はゆっくりと頭を振って答えた。
「お断り致します」
「なぜ!?あなた方の先祖が八桀衆の魂を解放し、今またオロチの力が解放されてしまった今、このままオロチの長まで目覚めてしまったら世界は破滅してしまうのよ!それでもいいの!?」
「確かに、私達の先祖は八桀衆の魂を解放しましたわ。その罪は重いでしょう…けれど、それはオロチを確実に封じようとしたため…それに、私達が解かずとも封印は解けてしまう運命にあったのですわ…」
 紫野の意外な言葉にちづるは愕然とする。
「どういう事…?」
「勾玉が私に見せてくれましたわ…オロチの本来の役割を…」
「勾玉って…八尺瓊勾玉の事…?」
「そうですわ」
「嘘!八尺瓊勾玉はあなた方が私達から離れたときに壊したと聞いたわ!」
「神代の時に作られた神器が人の手で壊せるはずはありません…再生して私達一族が代々護って参りました。今は私がその後継…」
「そんな…事実にしろオロチの血を引く者に神器が扱えるわけが…」
「ですから申しましたでしょう?オロチには本来の役割があったのです」
「何のこと?その『本来の役割』って?」
 ちづるは今まで聞かされてきた事がことごとく覆されていくのを感じたが、それでも聞かずにはいられなかった。
「本来オロチは水の恵みを司り、人が自然の恵みを忘れ世を欲望に満たした時には人々に戒めを与える存在…しかし、それはイザナミ・イザナキの子であり、太陽の恵みと豊穣を司るアマテラスがいればこそ…これがどういう意味かはもうお分かりでしょう?」
「まさか…」
「そう…人の欲望が余りに肥大し過ぎ、人間は自然の一部ではなくなってしまった…アマテラスは本来の能力を出せなくなり、その様な世の中を嘆いたアマテラスは身を隠し…その結果オロチは暴走してしまった…」
「そんな…」
「彼の時はアマテラスを見付け出し何とか力添えを得たものの、彼女も暴走を止めるだけの能力は出せず、かろうじて封印できたのみ…そして欲望が増すばかりの人の世にアマテラスは再び身を隠し、そのまま眠りについてしまいました…それから永い時が経った上、あの欲にまみれた戦乱の世…厳重に封印した長ならいざしらず、比較的封印が甘かった八桀衆なら、私達が解かずとも自然と封印は破れていたでしょう…」
「嘘…嘘よ…作り話はやめて!」
 ちづるは耳を塞いだ。けれど彼女はあくまで穏やかである。
「信じて下さらなくとも結構ですわ…けれど、闇雲に封印し続ければ歪みはいつか現れます…その結果がこの状態なのでは…?」
「そんな事ないわ!たとえそうだったとしてもあなたはただ世界が破滅するのを黙って見ていろと言うの?」
「世界が破滅するかどうかは人間次第…人間が奢りを捨てない限りオロチも暴走し続けるのですから…」
「あなたが何と言っても私はオロチを封じてみせる!それが私に、そして八神、草薙に課せられた宿命だもの!」
 そう叫んだちづるに紫野はまた頭を振った。
「宿命も運命もあるものではなく人が造るもの…」
「…何を言っているの?」
「宿命や運命に囚われていては何もできません。流れに身を置き、自分で選び取って行かなければ…」
「それじゃあなたは自分の兄も見捨てるの?彼は無意識にオロチの力を使っているわ!そこまで知っていれば彼があのまま力を使い続ければ彼の命が危ないという事位分かるでしょう!?」
 ちづるがそう言うと彼女は微笑んだ。
「兄は死を望んではいません…死を望まなければ、運命はその様に動いていきますわ…」
「彼を止める者が現れる…という事?」
「はい、そしてそれは人も同じ…人が滅びる事を望まなければ、自から奢りに気付くはず…私が今できる事はそれまでこの身のオロチの血と能力を封じ続け、アマテラスが再び現れる様祈り続ける事だけ…っ!…」
 彼女の口の端から一筋の紅いものが流れる。倒れそうになる彼女をちづるは支えた。
「あなた…まさか…」
「私の生命が尽きるのが先か、アマテラスが再び能力を取り戻すのが先か…どちらが早いのでしょうね…」
「…」
 彼女は身を起こして口の血を拭うと傍らの花を見詰めた。ちづるもその花に目をやる。それは彼女が先程もらったさくら草であった。
「その花…先刻の女の子がくれたものよね」
「はい」
「綺麗ね…それに花からあの子の優しさが伝わってくるわ…」
「分かりますか…?」
「ええ、あなた程ではないと思うけど…それだけ思いが強いって事だわ」
 紫野は花を見詰めたまま口を開いた。
「世の人々は欲にまみれた人ばかりではありません…まだあの子の様な方々がおります…。あなたも御覧になったはずです。キング・オブ・ファイターズで…」
「ええ…そうね…」
 ちづるはキング・オブ・ファイターズで出会った格闘家達を思った。強いものと戦い、自分の力を試さんとする者達。彼等には何の欲もない。ただ純粋に戦う相手を求め、己の実力を極めんとする心のみであった。
「でも、あなたの話が本当だったとして、このままオロチの力が邪悪なまま世界を包んでしまったら?そうなる可能性だってあるのよ」
 紫野は見詰めていた花を指して言った。
「この花の花言葉をご存じですか?」
「さあ…何かしら」
「『希望』です」
「希望…」
「あの子や彼等の様な方々がいらっしゃる限り人には希望があります。ですから私はその様な方々の為に希望を信じて祈り続け、そうなる事を食い止めます…今私にできるのはそれだけですし、その為に私はここにいるのですから…」
「…わかったわ。それなら私もオロチを食い止める、ただし…私のやり方でね」
 そう言うと彼女は微笑んだ。紫野も微笑みを返す。
「お願い致します。ただご無理をなさらないように…」
「ええ…あなたもね」
「さて…長い間お茶も出さず失礼致しました。今お出し致しますから少々お待ち下さい」
 そう言って席を立とうとする紫野をちづるは引き止めた。
「いえ、もうこれで失礼するわ」
「そうですか…では、またいらして下さい。今度は表からどうぞ。歓迎致しますわ」
「そうね、考えておくわ」
「お待ち申し上げております」
 その時、ふわりと風が吹き込んで来た。暖かな風が二人の髪を揺らす。
「…春が…近いわね…」
「そうですわね…」