ブロッケン邸のある日の昼下がり、掃除をしながら女中の一団が噂話に華を咲かせていた。
「ねえねえ、坊ちゃまのデビュー戦が決まったんでしょ?」
「ええ、今度日本である超人オリンピックの後ですって!」
「超人オリンピックにはだんな様も出るし、いい事づくめよね~。あたし、デビュー戦観に行っちゃおうかしら~」
「あたしだって坊ちゃまのデビュー戦に行きたいわ~」
「あら、あたしだって!」
「こらこら、いい事が続いているからと言って、仕事をほったらかして喋っているのは感心しないな」
「あっ、エルンストさん…」
お喋りに華を咲かせている使用人達に釘を刺したのはエルンスト・ベルガー――この屋敷の執事見習いである。エルンストに注意され少し反省した様子を見せたものの、女中達は何とか彼も巻き込もうと口々に彼に声を掛ける。
「すいませーん」
「でもエルンストさんだって嬉しいでしょ?」
「もちろんデビュー戦は観に行くんですよね、あたし達も連れて行ってくれませんか?」
女中達のテンションの高さに内心圧されながらも、エルンストはきっぱりと話を打ち切る。
「私も嬉しいし、デビュー戦は観に行くだろうが…それとこれとは話が別だろう。さあ、仕事に戻りなさい」
「は~い…」
不満気な表情で散って行く女中達をため息交じりに見送っているエルンストに、一人だけ散らずに残った女中がおかしそうにくすくす笑いながら声を掛けた。
「…ほんっと、素直じゃないんだから」
「何だよ、ルイーゼ」
つっけんどんな態度で応えるエルンストに、残った女中――ルイーゼ・エアハルト――はくすくす笑いを見せたまま、更に続ける。
「あんたが一番あの人のデビュー戦を触れ回りたいでしょうに。無理しちゃって」
「うるさいな…俺がやらなくったって、お前達が勝手に話を広げるだろうが。しかも仕事をさぼってな。俺は広げるのはともかく、仕事を優先しろって言ってるだけだ」
「ほ~ら、あんたが一番広げたがってる」
「う…」
ルイーゼにしっかり本心を見抜かれていた上、誘導尋問でその気持ちを図らずも吐露してしまい絶句するエルンスト。彼女はそれを見てまたくすくす笑いながらも、優しい口調で続ける。
「…でも、それが当たり前よ。あんたとあの人は十年以上の付き合いで、一番の親友じゃない。あの人の夢が叶うのを一番楽しみにしてたのもあんたでしょ?」
「まあな。…でもそれはお前も一緒だろ」
「ま…ね。でも、やっぱりあんたにはかなわないわ」
そう言うとルイーゼはまじまじとエルンストを見詰める。ルイーゼの視線に戸惑いながらも、エルンストは相変わらずつっけんどんな態度で口を開く。
「何だよ」
戸惑いを隠したつっけんどんなエルンストの言葉に、ルイーゼはしみじみとした口調で言葉を返す。
「ん~?…見習いって言っても何だかすっかり執事姿が板についたな…って思ってね」
「当たり前だろ、十年以上そう仕込まれてきたんだからな。お前だってすっかり古参女中の風格で、マリアさんから女中頭の引継ぎの話が出てるらしいじゃないか」
エルンストの言葉にルイーゼはため息をつきながら同意する。
「まったくね…確かにこの仕事は大好きだし、マリアさんの評価はすごく嬉しいんだけど…でもまだあたし16よ?なのに周りからはお局扱いなんだから嫌になっちゃうわ」
「仕方ないさ、お前だってそれだけの年季が入ってるのは事実なんだしな」
「それはそうなんだけどね…あらいけない、あたしも仕事に戻らなきゃ。みんなに仕事させといてあたしだけ喋ってたら示しがつかないわ。あんたも注意した手前、仕事はちゃんとしなさいよ」
「分かってる」
「じゃね、また暇な時にお茶飲ませてちょうだい」
そう言うとルイーゼは小走りに去って行く。エルンストはそれを見ながらもう一度大きな溜め息をつくと、自分も仕事に戻って行った。
「エルンスト…いるかい」
仕事が一段落つき部屋で読書をしていると、ドアをノックする音と聞き慣れた声。エルンストがドアを開けると、そこには自分の祖父であり、この屋敷の現執事であるハンスが立っていた。同じ屋敷内にいるとはいえ、滅多に自分の部屋を訪れる事がない祖父の姿にエルンストは少し驚いて口を開く。
「じいさん、どうしたんだよ。用があるなら呼んでくれればいいのに」
「いや…急ぎの用だったんでな」
「何だい、急ぎの用って」
エルンストの言葉に、ハンスは孫に対する表情ではなく、執事としての表情で応える。
「だんな様がお呼びだ」
祖父の意外な言葉にエルンストは驚き、今日の自分の仕事を思い返しながら呟く。
「だんな様が…?俺、何かやらかしたのかな」
「いや…そういう話ではないよ」
「じゃあ一体何の話で…」
「まあ…行けば分かるよ」
「…?…分かった。とりあえず行くよ。執務室でいいのかな」
「ああ」
滅多な用事では自分を呼び出さないこの屋敷の当主が、自分に一体何の用事だろう。祖父は何か知っている様だが、この表情をしている時の祖父からは何も聞き出せない事が分かっているので、エルンストはとにかく主人の部屋に出向く事にした。
執務室のドアをノックすると中から『誰だ』という声。名前を告げると続けて『入れ』と言う声がした。「入ります」と声を掛けてから部屋に入ると、執務室の机にこの屋敷の当主であるブロッケンマンが座っていた。
「私に何のご用でしょうか。何か屋敷の仕事に不備でも…」
エルンストが尋ねると、ブロッケンマンはいつもの様にあまり感情を見せない表情のまま口を開く。
「いや…そういう話で呼んだのではない。少し『これからの事』についてお前に話しておかなければならないと思ってな」
「『これからの事』?」
エルンストが言葉を繰り返すと、ブロッケンマンはゆっくりと続ける。
「うむ。…あれがデビューするという話はもう聞いたろう」
「はい…もう屋敷中の噂になっていますから」
「そうか」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは一瞬苦笑するとすぐに元の表情に戻り、話を続けた。
「あれはまだ17だが、訓練として教える事はもうない。普通より早いが髑髏の徽章を授ける事にした」
「そうですか…」
噂だけでは半分信じる事ができなかったが、こうして当主の口から事実として告げられ、エルンストは表情にこそ見せないが大きな喜びを持ってその言葉を聞いていた。ブロッケンマンは更に続ける。
「あれが徽章を受け継いだら、私はあれに当主の座を譲ろうと思う。…それと同時に、あれが当主になったらハンスは引退し、執事はお前だ」
エルンストは親友であり主人である少年の前途を喜びながら話を聞いていたが、話の意外な展開に慌てて口を開く。
「そんな、若輩者の私にはまだ…」
慌てた様子を見せたエルンストに、ブロッケンマンはきっぱりと続ける。
「これはハンスの意向でもある。ハンスももうお前に教える事はないと言っていた。そしてこれからは、若い者がブロッケン一族を盛り立てていく事が必要だともな」
「祖父が…ですか…」
「そうだ」
エルンストは少し迷っていたが、執事としての職務に人一倍誇りと責任感を持っている祖父の決意を思い、そして自分への期待に喜びを感じ、当主の提案を受け入れる事にした。
「承知しました。…若輩者の私にどこまで勤め上げる事ができるかは分かりませんが、誠心誠意お仕えします」
「うむ」
エルンストの言葉にブロッケンマンは満足そうに頷くと、やがてぽつりと口を開いた。
「私も超人オリンピックを最後に、第一線を退くつもりだ。…あれに最後の教えを託してな」
「最後の教え…?」
ブロッケンマンの言葉にエルンストは何か不吉なものを感じ、それをそのまま言葉に乗せる。
「最後の教えとは何ですか?だんな様、まさか…」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは内容とは裏腹の淡々とした口調で応える。
「『因果応報』…と言ったところか。歴史の影に生きる残虐超人の末路がどの様なものかを、あれに見せる」
「そんな…」
エルンストは言葉の真意を理解し絶句する。ブロッケンマンは彼の表情を見て自嘲気味な笑みを見せると、すぐまた感情が読み取れない表情に戻り、言葉を続ける。
「私は確かに残虐超人として生きてきた、その事に対し後悔はない。影で生きる事が私の役目だと思っていた…だがあれは私と違う。あれには明るい光こそがふさわしい…」
「だんな様…」
「『正義の心を持った残虐超人』…そう言われたところで、残虐超人である事に変わりはない。残虐超人と言う肩書きを一度背負えば、たとえ正義の側についていたとしても、影に生きる事を強いられる。…あれにはそうしたものは背負わせたくない」
「…」
「訓練としては戦闘超人とはいえ、普通の正義超人として生きられる様に育ててきたつもりだ。後は…残虐超人の末路を理解し、自らが真に進むべき道を知る事で、あれの訓練は終わる」
「しかし…それではだんな様は…」
「これはあれの訓練を始めた頃から決めていた事だ、覚悟はできている。それに、あれが光の中で生きられるのなら…この命など惜しくはない」
あまりの事にやっとの事で言葉を発するエルンストに対し、全く感情を見せない表情と淡々とした口調でさらりと言葉を紡ぐブロッケンマン。しかしその言葉を聞いた時、エルンストにある思いが湧き出て来て、エルンストは少し迷いながらもその思いを言葉にするため、口を開いた。
「…だんな様」
「何だ」
「失礼を承知で申し上げますが、あいつはそう簡単にはだんな様の死を意向通りには受けとらないと思います」
エルンストの意外な反論に、ブロッケンマンは少し驚いた表情で問い返す。
「どうなるというのだ」
ブロッケンマンの問いに、エルンストは主に対し、自分が持つ思いを突き付けた。
「…だんな様がそこまで決心なさっておられるのなら、私は止めようとは思いません。しかし…だんな様がどの様な意思で散ったとしても、あいつはおそらくだんな様を殺した相手に復讐しようと考えるでしょう…それがあいつです。そして、それはだんな様の決意と同様に…誰にも止める事はできません」
「お前でもか」
「はい。そして復讐が叶うにしろ叶わないにしろ、その中であいつの心がどう育っていくのかは、私にも予想がつきません…そして私にあいつを導けと言われても、あいつを正しく導けるかどうか私には自信がありません。…あいつが一度こうと決めたら一直線にしか進めない事を、だんな様も理解しているでしょう…」
エルンストの反論に、ブロッケンマンは少し沈んだ口調で口を開く。
「うむ。…ではあれも私と同じ道を歩まなければならないのだろうか…」
ブロッケンマンの言葉に、エルンストは心にあるもう一つの思いを口にする。
「あいつがどうなるかはあいつ次第です。だんな様の訓練が正しい方向に身についていた上で、人を慈しむ事を知り、戦う相手に恵まれれば…あいつは光の中へ行けるでしょう」
「エルンスト…」
「そして、私はそうなるであろうと思います。あいつは人を慈しむ事をだんな様を始めとして、屋敷の人間達から身につけているはずですから…」
「私からも…?」
「はい」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは怪訝そうな表情を見せる。
「自分で言うのも何だが、私はあれを特別慈しんだとは思えんが…」
ブロッケンマンの言葉に、エルンストは穏やかな微笑みを見せて口を開く。
「訓練を始める前、だんな様から『もう親子じゃない』と言われてあいつは泣いていましたよ。…あいつは面と向かって優しくされなくても、自分がだんな様に大切にされている事は、分かっていたんだと思います。それにこうも言っていました。『訓練の時のだんな様は一見鬼の様だけれど、自分が付いてくると確信しての厳しさだという事が分かる』と…そして『厳しい目をしていても、それが少し悲しそうに見える事がある』とも。…最初からではないにせよ、あいつは全部分かっていたんでしょう。だんな様のお心が…」
「…」
「私が申すのは大変失礼だとは分かっておりますが…お辛かったでしょうね、だんな様」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンはふといつもは見せない寂しげな表情を見せ、やがてしみじみとした口調で口を開く。
「…お前も成長したのだな」
「そうでしょうか…」
「うむ。しかし、一番内の部分はあの頃から全く変わっていない。…あれの事を一番想い、理解しているのはやはりお前だ」
「…」
エルンストは沈黙する。ブロッケンマンはそれにかまわず更に続けた。
「光の中で生きるのであれ、影として生きるのであれ、あれがどういう道を歩むのかは、もう私には見る事はできん。…私がいなくなってもテオドールが残るが、あいつもあれが当主になったら、第一線は退くと言っている。あれは一人で超人としての道を切り開かなければならない…」
「…」
沈黙を続けるエルンストに、ブロッケンマンは言葉を掛ける。
「エルンスト…あの日の言葉を覚えているか」
「『あの日の言葉』?」
「あれの訓練を始める前日に言った言葉だ…あの言葉を改めてもう一度言う。…あれの事を頼むぞ」
ブロッケンマンの言葉が、あの日の様に胸に響いてくる。エルンストは力強く頷き、その言葉に応えた。
「はい…だんな様」
エルンストの言葉にブロッケンマンも頷き、しばし静かな沈黙が訪れる。そしてどの位経ったであろうか、ブロッケンマンが静かにまた口火を切った。
「ここで話した事は内密にしてくれ。教えが台無しになるからな」
「はい…承知しております」
「それから…あれに伝えてくれ、『後で部屋に行く』とな」
「だんな様…」
主人の意図を読み取り、何とも言えない表情で主人を見つめるエルンストに、ブロッケンマンは寂しげな笑みを見せて続ける。
「『最後の晩餐』だ。もう二人で飲む事もないだろうしな…」
「…承知致しました」
「話はここまでだ。もう出て行ってもらえるか?」
「はい。…では、失礼致します」
エルンストは一礼すると執務室を後にした。
彼は廊下を歩きながら、部屋で話された事を反芻する。自分にあそこまで話した主の真意はどうでも良かった。何を話されたとしても平静に受け止め、必要ない事は口外しないという心構えは、もう自分にはできている。しかし話された内容は、彼には余りにも重過ぎた。エルンストは主人であり、親友である青年を思う。どんな苦しい訓練を課されても、父の期待と絆を胸に感じ訓練を続けて行った青年。訓練が終われば普通の親子に戻れるかもしれない、というかすかな期待を青年が抱いていた事を彼は分かっていた。そうでなくとも戦う者同士という絆は残るであろう、と彼自身も考えていた。しかしそのどちらの期待も裏切られ、青年の父は、自分の命をもって訓練を終わらせようと決心していたとは…それが父からの最後の教えであったとしても、何も知らない青年は絆を無理矢理断ち切られて、どうなるのだろうか。形は全く別であるが、自分も親との絆を突然断ち切られた身である。そうなった時の苦しみは容易に想像できた。確かにその苦しみは青年との友情という新たな絆で癒された面もあるが、十数年経った今も完全には癒されていないのだ。たとえ親友としての絆でも、親子の絆には到底かなわない――
「あら、どうしたのよエルンスト。難しい顔しちゃって」
いつの間に側にいたのだろうか、ルイーゼがエルンストに声を掛ける。
「え?…ああ、何でもない」
彼女の声も聞こえているのかいないのか、エルンストはぼんやりと答えるのみ。その態度にルイーゼは不満気な声を上げる。
「何よ、感じ悪いわね。あんたらしくな…えっ?ちょっと、どうしたのよ!」
不満気にエルンストを見たルイーゼが慌てる。その様子にやっと自分の頬に伝わるものを無造作に手で拭うと、エルンストはぼんやりと呟く。
「え…?ああ、俺泣いてるのか…」
「『泣いてるのか』じゃないわよ!あんた一体何があったの?」
「さあな…」
彼は嘘を吐いたつもりはない。彼の涙は無意識のもので、この涙の意味は彼自身にも分からないのだ。親友を思っての悲しみの涙なのか、当主の決意に対する怒りの涙なのか、あるいは全く別の意味があるのか――分からないが止まらない。そして彼は止めようとも思わなかった。涙の意味は分からないが、この涙は流し尽くさなければならない事だけは分かっていたのだ。そうしなければおそらく自分は当主との約束を果たせない、そして親友に余計な苦しみを与えてしまう――エルンストの様子にルイーゼは呆れた様な声で、しかし優しげな表情で口を開く。
「…しょうがないわね…ほら」
そう言うとルイーゼはエルンストを軽く抱き締め、背中を叩いた。
「何があったかは聞かないわ。でもね…あんたがそんな顔してると、あたしもみんなもあの人も調子が狂っちゃうのよ。…だから早くやめてちょうだい」
「ああ…」
口調こそ咎める様な感じだが、あくまで彼女は優しかった。エルンストはしばらくされるがままになり涙を流していたが、やがて体を離し持っていたハンカチで涙を拭うと、柔らかな微笑みを見せる。
「…悪かったな、心配かけて」
「いいのよ、あんたとあたしの仲じゃない。それに昔はいつもあたしがこうされる方だったから、今度はあたしができて、何だか気分がいいわ」
「そうか」
おどける様なルイーゼの言葉にエルンストは笑う。これが彼女流の励ましだという事も分かっているので彼は内心彼女に感謝すると、先程とは違った明るい声で口を開いた。
「…さあ、これから忙しくなるぞ」
「…そうね、なんて言ってもあの人がデビューするんだから」
エルンストの態度の変化に、彼女は何かがあると感じ取ったが、永年の付き合いで身に付けた勘でその『何か』には触れない方がいいと理解し、内容を彼が気楽に話せるものに置き換えて、彼の言葉に同意した。その様子を見て彼も彼女の気遣いに気づいて内心感謝しながら笑顔を見せると、彼女に問いかける。
「そうだ、あいつって言えば俺、あいつに用があるんだ。ルイーゼ、あいつ今どこにいるか知ってるか?」
「ああ、あの人なら今確か部屋にいるはずよ」
「そうか…じゃあ部屋に行ってみるか」
そう言うとエルンストは彼女と別れ、主人であり、親友である青年の部屋へ向かう。部屋へ向かう中で彼は一つの決意を固めた。あいつがどんな道を歩もうと、あいつの苦しみが癒せないとしても、自分はいつでもあいつの側にいよう…それは幼い頃にぼんやりと決心していた事ではあった。しかしあの頃とは違い、それははっきりした決意となる。もう迷いはない、何があっても俺はあいつの側にいる――そして気が付くと彼は青年の部屋の前に立っていた。ドアをノックすると『誰だ』という聞き慣れた声。その声にエルンストは「俺だ、入るぞ」と言葉を返し、笑顔でドアを開けた。
「ねえねえ、坊ちゃまのデビュー戦が決まったんでしょ?」
「ええ、今度日本である超人オリンピックの後ですって!」
「超人オリンピックにはだんな様も出るし、いい事づくめよね~。あたし、デビュー戦観に行っちゃおうかしら~」
「あたしだって坊ちゃまのデビュー戦に行きたいわ~」
「あら、あたしだって!」
「こらこら、いい事が続いているからと言って、仕事をほったらかして喋っているのは感心しないな」
「あっ、エルンストさん…」
お喋りに華を咲かせている使用人達に釘を刺したのはエルンスト・ベルガー――この屋敷の執事見習いである。エルンストに注意され少し反省した様子を見せたものの、女中達は何とか彼も巻き込もうと口々に彼に声を掛ける。
「すいませーん」
「でもエルンストさんだって嬉しいでしょ?」
「もちろんデビュー戦は観に行くんですよね、あたし達も連れて行ってくれませんか?」
女中達のテンションの高さに内心圧されながらも、エルンストはきっぱりと話を打ち切る。
「私も嬉しいし、デビュー戦は観に行くだろうが…それとこれとは話が別だろう。さあ、仕事に戻りなさい」
「は~い…」
不満気な表情で散って行く女中達をため息交じりに見送っているエルンストに、一人だけ散らずに残った女中がおかしそうにくすくす笑いながら声を掛けた。
「…ほんっと、素直じゃないんだから」
「何だよ、ルイーゼ」
つっけんどんな態度で応えるエルンストに、残った女中――ルイーゼ・エアハルト――はくすくす笑いを見せたまま、更に続ける。
「あんたが一番あの人のデビュー戦を触れ回りたいでしょうに。無理しちゃって」
「うるさいな…俺がやらなくったって、お前達が勝手に話を広げるだろうが。しかも仕事をさぼってな。俺は広げるのはともかく、仕事を優先しろって言ってるだけだ」
「ほ~ら、あんたが一番広げたがってる」
「う…」
ルイーゼにしっかり本心を見抜かれていた上、誘導尋問でその気持ちを図らずも吐露してしまい絶句するエルンスト。彼女はそれを見てまたくすくす笑いながらも、優しい口調で続ける。
「…でも、それが当たり前よ。あんたとあの人は十年以上の付き合いで、一番の親友じゃない。あの人の夢が叶うのを一番楽しみにしてたのもあんたでしょ?」
「まあな。…でもそれはお前も一緒だろ」
「ま…ね。でも、やっぱりあんたにはかなわないわ」
そう言うとルイーゼはまじまじとエルンストを見詰める。ルイーゼの視線に戸惑いながらも、エルンストは相変わらずつっけんどんな態度で口を開く。
「何だよ」
戸惑いを隠したつっけんどんなエルンストの言葉に、ルイーゼはしみじみとした口調で言葉を返す。
「ん~?…見習いって言っても何だかすっかり執事姿が板についたな…って思ってね」
「当たり前だろ、十年以上そう仕込まれてきたんだからな。お前だってすっかり古参女中の風格で、マリアさんから女中頭の引継ぎの話が出てるらしいじゃないか」
エルンストの言葉にルイーゼはため息をつきながら同意する。
「まったくね…確かにこの仕事は大好きだし、マリアさんの評価はすごく嬉しいんだけど…でもまだあたし16よ?なのに周りからはお局扱いなんだから嫌になっちゃうわ」
「仕方ないさ、お前だってそれだけの年季が入ってるのは事実なんだしな」
「それはそうなんだけどね…あらいけない、あたしも仕事に戻らなきゃ。みんなに仕事させといてあたしだけ喋ってたら示しがつかないわ。あんたも注意した手前、仕事はちゃんとしなさいよ」
「分かってる」
「じゃね、また暇な時にお茶飲ませてちょうだい」
そう言うとルイーゼは小走りに去って行く。エルンストはそれを見ながらもう一度大きな溜め息をつくと、自分も仕事に戻って行った。
「エルンスト…いるかい」
仕事が一段落つき部屋で読書をしていると、ドアをノックする音と聞き慣れた声。エルンストがドアを開けると、そこには自分の祖父であり、この屋敷の現執事であるハンスが立っていた。同じ屋敷内にいるとはいえ、滅多に自分の部屋を訪れる事がない祖父の姿にエルンストは少し驚いて口を開く。
「じいさん、どうしたんだよ。用があるなら呼んでくれればいいのに」
「いや…急ぎの用だったんでな」
「何だい、急ぎの用って」
エルンストの言葉に、ハンスは孫に対する表情ではなく、執事としての表情で応える。
「だんな様がお呼びだ」
祖父の意外な言葉にエルンストは驚き、今日の自分の仕事を思い返しながら呟く。
「だんな様が…?俺、何かやらかしたのかな」
「いや…そういう話ではないよ」
「じゃあ一体何の話で…」
「まあ…行けば分かるよ」
「…?…分かった。とりあえず行くよ。執務室でいいのかな」
「ああ」
滅多な用事では自分を呼び出さないこの屋敷の当主が、自分に一体何の用事だろう。祖父は何か知っている様だが、この表情をしている時の祖父からは何も聞き出せない事が分かっているので、エルンストはとにかく主人の部屋に出向く事にした。
執務室のドアをノックすると中から『誰だ』という声。名前を告げると続けて『入れ』と言う声がした。「入ります」と声を掛けてから部屋に入ると、執務室の机にこの屋敷の当主であるブロッケンマンが座っていた。
「私に何のご用でしょうか。何か屋敷の仕事に不備でも…」
エルンストが尋ねると、ブロッケンマンはいつもの様にあまり感情を見せない表情のまま口を開く。
「いや…そういう話で呼んだのではない。少し『これからの事』についてお前に話しておかなければならないと思ってな」
「『これからの事』?」
エルンストが言葉を繰り返すと、ブロッケンマンはゆっくりと続ける。
「うむ。…あれがデビューするという話はもう聞いたろう」
「はい…もう屋敷中の噂になっていますから」
「そうか」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは一瞬苦笑するとすぐに元の表情に戻り、話を続けた。
「あれはまだ17だが、訓練として教える事はもうない。普通より早いが髑髏の徽章を授ける事にした」
「そうですか…」
噂だけでは半分信じる事ができなかったが、こうして当主の口から事実として告げられ、エルンストは表情にこそ見せないが大きな喜びを持ってその言葉を聞いていた。ブロッケンマンは更に続ける。
「あれが徽章を受け継いだら、私はあれに当主の座を譲ろうと思う。…それと同時に、あれが当主になったらハンスは引退し、執事はお前だ」
エルンストは親友であり主人である少年の前途を喜びながら話を聞いていたが、話の意外な展開に慌てて口を開く。
「そんな、若輩者の私にはまだ…」
慌てた様子を見せたエルンストに、ブロッケンマンはきっぱりと続ける。
「これはハンスの意向でもある。ハンスももうお前に教える事はないと言っていた。そしてこれからは、若い者がブロッケン一族を盛り立てていく事が必要だともな」
「祖父が…ですか…」
「そうだ」
エルンストは少し迷っていたが、執事としての職務に人一倍誇りと責任感を持っている祖父の決意を思い、そして自分への期待に喜びを感じ、当主の提案を受け入れる事にした。
「承知しました。…若輩者の私にどこまで勤め上げる事ができるかは分かりませんが、誠心誠意お仕えします」
「うむ」
エルンストの言葉にブロッケンマンは満足そうに頷くと、やがてぽつりと口を開いた。
「私も超人オリンピックを最後に、第一線を退くつもりだ。…あれに最後の教えを託してな」
「最後の教え…?」
ブロッケンマンの言葉にエルンストは何か不吉なものを感じ、それをそのまま言葉に乗せる。
「最後の教えとは何ですか?だんな様、まさか…」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは内容とは裏腹の淡々とした口調で応える。
「『因果応報』…と言ったところか。歴史の影に生きる残虐超人の末路がどの様なものかを、あれに見せる」
「そんな…」
エルンストは言葉の真意を理解し絶句する。ブロッケンマンは彼の表情を見て自嘲気味な笑みを見せると、すぐまた感情が読み取れない表情に戻り、言葉を続ける。
「私は確かに残虐超人として生きてきた、その事に対し後悔はない。影で生きる事が私の役目だと思っていた…だがあれは私と違う。あれには明るい光こそがふさわしい…」
「だんな様…」
「『正義の心を持った残虐超人』…そう言われたところで、残虐超人である事に変わりはない。残虐超人と言う肩書きを一度背負えば、たとえ正義の側についていたとしても、影に生きる事を強いられる。…あれにはそうしたものは背負わせたくない」
「…」
「訓練としては戦闘超人とはいえ、普通の正義超人として生きられる様に育ててきたつもりだ。後は…残虐超人の末路を理解し、自らが真に進むべき道を知る事で、あれの訓練は終わる」
「しかし…それではだんな様は…」
「これはあれの訓練を始めた頃から決めていた事だ、覚悟はできている。それに、あれが光の中で生きられるのなら…この命など惜しくはない」
あまりの事にやっとの事で言葉を発するエルンストに対し、全く感情を見せない表情と淡々とした口調でさらりと言葉を紡ぐブロッケンマン。しかしその言葉を聞いた時、エルンストにある思いが湧き出て来て、エルンストは少し迷いながらもその思いを言葉にするため、口を開いた。
「…だんな様」
「何だ」
「失礼を承知で申し上げますが、あいつはそう簡単にはだんな様の死を意向通りには受けとらないと思います」
エルンストの意外な反論に、ブロッケンマンは少し驚いた表情で問い返す。
「どうなるというのだ」
ブロッケンマンの問いに、エルンストは主に対し、自分が持つ思いを突き付けた。
「…だんな様がそこまで決心なさっておられるのなら、私は止めようとは思いません。しかし…だんな様がどの様な意思で散ったとしても、あいつはおそらくだんな様を殺した相手に復讐しようと考えるでしょう…それがあいつです。そして、それはだんな様の決意と同様に…誰にも止める事はできません」
「お前でもか」
「はい。そして復讐が叶うにしろ叶わないにしろ、その中であいつの心がどう育っていくのかは、私にも予想がつきません…そして私にあいつを導けと言われても、あいつを正しく導けるかどうか私には自信がありません。…あいつが一度こうと決めたら一直線にしか進めない事を、だんな様も理解しているでしょう…」
エルンストの反論に、ブロッケンマンは少し沈んだ口調で口を開く。
「うむ。…ではあれも私と同じ道を歩まなければならないのだろうか…」
ブロッケンマンの言葉に、エルンストは心にあるもう一つの思いを口にする。
「あいつがどうなるかはあいつ次第です。だんな様の訓練が正しい方向に身についていた上で、人を慈しむ事を知り、戦う相手に恵まれれば…あいつは光の中へ行けるでしょう」
「エルンスト…」
「そして、私はそうなるであろうと思います。あいつは人を慈しむ事をだんな様を始めとして、屋敷の人間達から身につけているはずですから…」
「私からも…?」
「はい」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンは怪訝そうな表情を見せる。
「自分で言うのも何だが、私はあれを特別慈しんだとは思えんが…」
ブロッケンマンの言葉に、エルンストは穏やかな微笑みを見せて口を開く。
「訓練を始める前、だんな様から『もう親子じゃない』と言われてあいつは泣いていましたよ。…あいつは面と向かって優しくされなくても、自分がだんな様に大切にされている事は、分かっていたんだと思います。それにこうも言っていました。『訓練の時のだんな様は一見鬼の様だけれど、自分が付いてくると確信しての厳しさだという事が分かる』と…そして『厳しい目をしていても、それが少し悲しそうに見える事がある』とも。…最初からではないにせよ、あいつは全部分かっていたんでしょう。だんな様のお心が…」
「…」
「私が申すのは大変失礼だとは分かっておりますが…お辛かったでしょうね、だんな様」
エルンストの言葉に、ブロッケンマンはふといつもは見せない寂しげな表情を見せ、やがてしみじみとした口調で口を開く。
「…お前も成長したのだな」
「そうでしょうか…」
「うむ。しかし、一番内の部分はあの頃から全く変わっていない。…あれの事を一番想い、理解しているのはやはりお前だ」
「…」
エルンストは沈黙する。ブロッケンマンはそれにかまわず更に続けた。
「光の中で生きるのであれ、影として生きるのであれ、あれがどういう道を歩むのかは、もう私には見る事はできん。…私がいなくなってもテオドールが残るが、あいつもあれが当主になったら、第一線は退くと言っている。あれは一人で超人としての道を切り開かなければならない…」
「…」
沈黙を続けるエルンストに、ブロッケンマンは言葉を掛ける。
「エルンスト…あの日の言葉を覚えているか」
「『あの日の言葉』?」
「あれの訓練を始める前日に言った言葉だ…あの言葉を改めてもう一度言う。…あれの事を頼むぞ」
ブロッケンマンの言葉が、あの日の様に胸に響いてくる。エルンストは力強く頷き、その言葉に応えた。
「はい…だんな様」
エルンストの言葉にブロッケンマンも頷き、しばし静かな沈黙が訪れる。そしてどの位経ったであろうか、ブロッケンマンが静かにまた口火を切った。
「ここで話した事は内密にしてくれ。教えが台無しになるからな」
「はい…承知しております」
「それから…あれに伝えてくれ、『後で部屋に行く』とな」
「だんな様…」
主人の意図を読み取り、何とも言えない表情で主人を見つめるエルンストに、ブロッケンマンは寂しげな笑みを見せて続ける。
「『最後の晩餐』だ。もう二人で飲む事もないだろうしな…」
「…承知致しました」
「話はここまでだ。もう出て行ってもらえるか?」
「はい。…では、失礼致します」
エルンストは一礼すると執務室を後にした。
彼は廊下を歩きながら、部屋で話された事を反芻する。自分にあそこまで話した主の真意はどうでも良かった。何を話されたとしても平静に受け止め、必要ない事は口外しないという心構えは、もう自分にはできている。しかし話された内容は、彼には余りにも重過ぎた。エルンストは主人であり、親友である青年を思う。どんな苦しい訓練を課されても、父の期待と絆を胸に感じ訓練を続けて行った青年。訓練が終われば普通の親子に戻れるかもしれない、というかすかな期待を青年が抱いていた事を彼は分かっていた。そうでなくとも戦う者同士という絆は残るであろう、と彼自身も考えていた。しかしそのどちらの期待も裏切られ、青年の父は、自分の命をもって訓練を終わらせようと決心していたとは…それが父からの最後の教えであったとしても、何も知らない青年は絆を無理矢理断ち切られて、どうなるのだろうか。形は全く別であるが、自分も親との絆を突然断ち切られた身である。そうなった時の苦しみは容易に想像できた。確かにその苦しみは青年との友情という新たな絆で癒された面もあるが、十数年経った今も完全には癒されていないのだ。たとえ親友としての絆でも、親子の絆には到底かなわない――
「あら、どうしたのよエルンスト。難しい顔しちゃって」
いつの間に側にいたのだろうか、ルイーゼがエルンストに声を掛ける。
「え?…ああ、何でもない」
彼女の声も聞こえているのかいないのか、エルンストはぼんやりと答えるのみ。その態度にルイーゼは不満気な声を上げる。
「何よ、感じ悪いわね。あんたらしくな…えっ?ちょっと、どうしたのよ!」
不満気にエルンストを見たルイーゼが慌てる。その様子にやっと自分の頬に伝わるものを無造作に手で拭うと、エルンストはぼんやりと呟く。
「え…?ああ、俺泣いてるのか…」
「『泣いてるのか』じゃないわよ!あんた一体何があったの?」
「さあな…」
彼は嘘を吐いたつもりはない。彼の涙は無意識のもので、この涙の意味は彼自身にも分からないのだ。親友を思っての悲しみの涙なのか、当主の決意に対する怒りの涙なのか、あるいは全く別の意味があるのか――分からないが止まらない。そして彼は止めようとも思わなかった。涙の意味は分からないが、この涙は流し尽くさなければならない事だけは分かっていたのだ。そうしなければおそらく自分は当主との約束を果たせない、そして親友に余計な苦しみを与えてしまう――エルンストの様子にルイーゼは呆れた様な声で、しかし優しげな表情で口を開く。
「…しょうがないわね…ほら」
そう言うとルイーゼはエルンストを軽く抱き締め、背中を叩いた。
「何があったかは聞かないわ。でもね…あんたがそんな顔してると、あたしもみんなもあの人も調子が狂っちゃうのよ。…だから早くやめてちょうだい」
「ああ…」
口調こそ咎める様な感じだが、あくまで彼女は優しかった。エルンストはしばらくされるがままになり涙を流していたが、やがて体を離し持っていたハンカチで涙を拭うと、柔らかな微笑みを見せる。
「…悪かったな、心配かけて」
「いいのよ、あんたとあたしの仲じゃない。それに昔はいつもあたしがこうされる方だったから、今度はあたしができて、何だか気分がいいわ」
「そうか」
おどける様なルイーゼの言葉にエルンストは笑う。これが彼女流の励ましだという事も分かっているので彼は内心彼女に感謝すると、先程とは違った明るい声で口を開いた。
「…さあ、これから忙しくなるぞ」
「…そうね、なんて言ってもあの人がデビューするんだから」
エルンストの態度の変化に、彼女は何かがあると感じ取ったが、永年の付き合いで身に付けた勘でその『何か』には触れない方がいいと理解し、内容を彼が気楽に話せるものに置き換えて、彼の言葉に同意した。その様子を見て彼も彼女の気遣いに気づいて内心感謝しながら笑顔を見せると、彼女に問いかける。
「そうだ、あいつって言えば俺、あいつに用があるんだ。ルイーゼ、あいつ今どこにいるか知ってるか?」
「ああ、あの人なら今確か部屋にいるはずよ」
「そうか…じゃあ部屋に行ってみるか」
そう言うとエルンストは彼女と別れ、主人であり、親友である青年の部屋へ向かう。部屋へ向かう中で彼は一つの決意を固めた。あいつがどんな道を歩もうと、あいつの苦しみが癒せないとしても、自分はいつでもあいつの側にいよう…それは幼い頃にぼんやりと決心していた事ではあった。しかしあの頃とは違い、それははっきりした決意となる。もう迷いはない、何があっても俺はあいつの側にいる――そして気が付くと彼は青年の部屋の前に立っていた。ドアをノックすると『誰だ』という聞き慣れた声。その声にエルンストは「俺だ、入るぞ」と言葉を返し、笑顔でドアを開けた。