――たとえ俺がいなくなっても、俺の事を忘れないでいてくれよ――

今年の四国アイアンドッグスはリーグ優勝はしたものの、クライマックスシリーズでまたもや東京スーパースターズに敗北し、結局は日本シリーズに進むことができなかった。しかもその直接的な原因を作ったのは大半が大切なところで打ち負かされてしまった自分の責任だ、と俺は分かっている。監督は『単に俺の采配と運が足りなかっただけさ、気にするな。お前は最高のピッチングをしてたぜ』と俺を励ましてくれたが、自分ではそうは思えなかった。そしてその打ち負かされてしまう原因は、自分の中のある思いが原因だとも分かっていた。

――『あの人』が俺の球を受けてくれたら、それだけじゃない、俺だけのものになってくれたら――

叶わない願いだとは知っている。いや、自分が勝負師としてのプライドを捨ててしまえば片方は少なくとも叶う可能性がある。しかし、自分は勝負師として生きる事から抜け出せない事も分かっている。勝負師として生きる道しか自分には許していないのだから、断ち切らなければ俺はピッチャーとして成長できない。なのに断ち切れない想い、そのジレンマに俺は悩み続けていた。


――そんな時だった、『それ』が起きたのは――

秋季キャンプも終わり冬のオフとなり、里中の結婚式に参列して数日後の事。俺は実家に帰るのは年末にして、とりあえずシーズンで疲れた体を高知の部屋で一人癒していた。そして、食料を買いに行って部屋に帰ってきた時、俺の部屋のドアの前に私的な旅行で使っているボストンバッグを持った『その人』は座っていた。まさかここに来るはずがない『その人』に俺は声をかける。

「土井垣さん、どうしてここにいるんですか?」
 俺の問いに『土井垣さん』は逆に俺にあり得ない問いを返してきた。
「『どいがき』…?俺の名前は『将』だ。『どいがき』じゃない」
「…え?」
 あまりに突拍子もない『土井垣さん』の言葉に、俺は目を丸くする。『土井垣さん』は頭を抱えながら呟く様に言葉を紡ぐ。
「分からない…何で俺がここにいるのかも…自分が誰なのかも…分かるのは名前が『将』って事と…何故かは分からないがここに来るべきだ、という事だけなんだ。…教えてくれ、君は…何より俺は誰なんだ?何でここに来るべきだったんだ?ここの人間だったら分かるだろう?」
「…」
 懇願する様に俺に問いかける『土井垣さん』に驚きながらも、俺はさっと頭部を見る。こういう場合はベタに頭を打って記憶喪失という線が一番分かりやすい。そうだとしたら記憶喪失もそうだけれど怪我も大変だから、病院に行って治療を受けさせなければならない。…が、頭部に目立った外傷はない。だったらこの人は『土井垣さん』じゃないのか?それとも何か他の理由があるのか――?考え込みながらもこうして外にいるのは何かと目立つと思い、俺は部屋に『土井垣さん』を促した。
「とりあえずは…部屋で落ち着いて話しましょう。その前に自己紹介を。俺は不知火守です。『守』って呼んで下さい。よろしく…『将さん』」
「ああ…よろしく。まも…る…まもる…?」
「どうかしたんですか?」
「いや…何故か君の名前が頭に引っ掛かるんだ。…何か…とても大切な事の様な…」
「…そうですか。まあとりあえず入って下さい」
 俺の事を大切な事と感じてくれている事の嬉しさと、それでも俺を覚えていない一片の寂しさを感じながら、俺は『土井垣さん』を部屋に入れた。

「…ああ、そうなんだ。…いや、急に来たからびっくりしただけだよ…分かった。じゃあ土井垣さんの気が済むまでうちに置いていいんだな。…分かった。土井垣さん、しばらく俺の所にいるって言ってるから…ああ、じゃあ遠慮なくもらうから。じゃあ宮田さんも心配しないでたまにはフリーの気分を味わうといい…すまない、調子に乗りすぎたな。でも冗談抜きで一人の時は特に身体を大事にしてくれよ?帰った時に君の具合が悪かったら、結局俺達二人とも土井垣さんに怒られるし…ああ、じゃあまた」
 俺は携帯を切ると、リビングに座らせた土井垣さんを向こうの死角となるキッチンの陰から見詰める。今俺が電話を掛けたのは土井垣さんの許嫁で、今では結婚に向けて同居をしている宮田さん。彼女の話によると、どうやら土井垣さんは今回のクライマックスシリーズで何か思う所があったらしく、俺と何の気負いを持つ事もなく話ができればとアポ無し訪問を思いついて実行に移したらしい。それでシーズン中帰りを待つばかりだった彼女にもこうしてアポなし無期限滞在を押し付けられる俺にも悪いが『守と納得のいく話ができるまで帰らない』と言って家を出たそうだ。…という事はここにいるのは確かに土井垣さんで、その『アポ無し訪問』の道すがら何かがあって、土井垣さんは今の状態になったのだろう。そう判断した俺が今の土井垣さんの状態を隠して、ただ『しばらく土井垣さんは俺の所にいるから』と告げたら、彼女は安心した様な声でくすりと笑いながら『不知火さんの所にいるって分かっていれば安心できますから、よろしくお願いします。生活費と光熱費は遠慮なく徴収して下さいね』と俺に返して電話を切った。俺が土井垣さんの本当の現状を隠して、しかも本人の意志ではなく置く事にしている事を知らないからだけじゃない。彼女は俺の本当の気持ちを知らず、元バッテリーという事で俺を素直に信頼しきっている。その事につけ込んで小さな嘘をついた事にある種の罪悪感を覚えたが、俺は土井垣さんの身体が何でもないのならこの『偶然』を楽しもう、という思いにいつの間にか切り替わっていた。どうせオフで退屈していたんだ。それに元々土井垣さん本人がここに来るつもりだったのなら全然かまわないじゃないか。こんな絶対無い様な『偶然』を神様が与えてくれたんだ。だったらそれを利用させてもらおう。この人を独占したいという俺の秘めていた想いを充足させるために――俺は携帯を置くと、俺と土井垣さんのお茶を用意してリビングに持って行き土井垣さんに出して、正面に座りながら戸惑っている土井垣さんに声をかける。
「どうぞ、飲んで下さい。冷えた体が温まりますよ」
「ああ、すまん。…でも俺はこんな風に君に歓迎されて…いいものなんだろうか」
「いいんですよ。…じゃあ、まず俺と将さんの関係を話しましょうか。そうすれば安心できるでしょうし」
 戸惑う土井垣さんを安心させる様に、俺は物事の核心的な事や宮田さんの事はわざと隠して、そしてその隠し事でつじつまが合わなくなりそうな箇所にほんの少しの嘘を加えながら俺と土井垣さんの関係を話していった。俺の説明を土井垣さんは静かに聞いて、一通り終わったところで無意識にお茶を一口飲むとぽつりと呟いた。
「つまり…俺と君はとても親しくて、家の距離は遠いものの家同士を行き来するような仲だった…という事か?」
「ええ、だから今回もその調子で連絡なしで俺の家に来たんですよ。その途中で何かがあって、記憶が飛んだ…という所だと思います。見た所けがとかはしていないみたいですし、ちょっとした度忘れでしょうから、記憶が戻るまで家にいていいですよ。俺もあなたもちょうど仕事は冬のオフなんで、誰にも迷惑掛ける事はないですしね」
「仕事がオフ?…俺は会社員じゃないのか?俺はどういう仕事をしていたんだ…?」
 土井垣さんの言葉に俺は一瞬この人の状態を忘れ、微笑ましいと思ってその心情のままに笑みが漏れた。確かに土井垣さんがプロ野球選手じゃなかったら、総務か人事あたりを務める公務員や会社員が似合いそうだ。そうして、家では笑顔で帰りを待つ奥さんと子どもがいて、その家族のために夕刻お土産を手にやはり笑顔で家路を急いで――そんな事を考えて、微笑ましさからまたきりきりと胸が痛む感覚に戻りながらも、こちらも悩み始めた土井垣さんに気付いて、ここを思い出させたら何もかもが壊れてしまう気がして――俺は取り繕うように嘘ではないけれど、真実でもない言葉を紡ぐ。
「俺と、あなたの仕事は……ああ、そうですね…そう、自由業みたいなものですよ。ちなみに、今はちょっと違いますけど、俺とあなたは仕事でパートナーだった事もあるんですよ」
「そうなのか…後、こういう時に連絡する家族がいないというのは…俺は天涯孤独…という事なのか?」
「いいえ。親御さん達は元気でいますが、独立しているからとりあえずは連絡しなくてもいいという事ですよ。奥さんとか子どもはいないって程度です」
「そうか、誰か…連絡するべき人間がいる様な気がするんだが…気のせいなのか」
「…そうですね、気のせいですよ」
 俺は宮田さんと彼女の素直な言葉を思い出しまた少し罪悪感を覚えたが、この人を独占したいという欲求の前にはその罪悪感を吹き飛ばすのは容易な事だった。そうして、俺も一口お茶を飲むと励ます様に言葉を返す。
「さあ、あんまり考え過ぎると余計に何も思い出せなくなりますよ。とりあえずはのんびりして…普通の生活の中で思い出していくのがいいですよ。さっき言った通り思い出すまでうちにいてくれてかまいませんから」
「いやしかし…」
「いいんです。記憶をなくしたあなたが誰でもない、俺を頼って来てくれた。それが俺は嬉しいんです。だから気にせずいて下さい。それから…『君』っていう他人行儀な呼び方じゃなくっていつも通り『守』か『お前』って呼んで下さい。俺も『将さん』って呼びますから」
「…いいのか?」
「いいんです」
 俺のある種強引な言葉に土井垣さんはしばらく逡巡している様子だったけれど、やがて複雑な笑みを見せながら、俺に右手を差し出して口を開く。
「…確かに、これも何かの縁かもしれない。甘えさせてくれ…よろしく…守」
「ええ。よろしく…『将さん』」
 そうして握手を交わしながら土井垣…いや、将さんはふっと笑うとぽつりと呟いた。
「…まるで、捨て猫だな」
「将さん?」
「いや…なんだか寄る辺がないこの状態は、飼い主のいない捨て猫に似ているな、と思ってな…」
「寄る辺がないというのには賛成したくないですが…それも…そうですね」
「まあ…こんなでかい捨て猫じゃ、かさばって誰も拾ってくれそうにないがな」
「そんな事ないですよ!俺は…何があっても、将さんを拾いますから!」
「守?」
 いきなり声を上げた俺に将さんは驚いてそのままの表情で見詰める。俺も自分の言葉に驚いていたけれど、これは俺の偽らざる本心。とはいえ将さんを戸惑わせてはいけないので、俺は取り繕う様に笑うと、言葉を紡ぐ。
「つまり…将さんには誰かしらがちゃんと手を差し伸べてくれるって事ですよ」
「…?」
「さあ、お茶が冷めちゃいましたね。いれ直しますよ。それから、夕飯も作りますから」
 俺は笑うと、しばらくとても大きい『捨て猫』とお茶を飲んだ後、食事の支度をして二人で食べた――

 そうして一夜明けて翌朝、俺は一足早く起きて朝食を作る。朝食を作ってコーヒーをいれている時に、将さんが起きだしてきて、寝ぼけ眼でふと呟いた。
「…はづき、おはよう…」
 その言葉に将さんが思い出した嬉しさと、もうこの人を独占できない一片の落胆を覚えながら俺は将さんに声を掛ける。
「将さん…思い出したんですか?」
「え?…俺は今何か言ったのか?」
「…」
 どうやら、将さんは無意識に彼女の名前を口にしたみたいだ。思い出した訳じゃない。その事に安堵した自分にまたほんの少しの罪悪感と、まだこの人を独占できるという大きな喜びを感じ、俺はまた小さな嘘をつく。
「いいえ…何も言ってませんよ。俺の気のせいでした。さあ、朝食ができていますよ。食べて下さい」
「ああ。…いただきます」
 そうして俺達は朝食を食べていく。将さんの好き嫌いはバッテリー時代に覚え込んだから、メニューは完璧だと思う。将さんもおいしそうに食べていた。が、コーヒーを口にした途端――
「…違う」
「え?将さん、どうしたんですか?」
 問いかける俺に、将さんは心底申し訳なさそうな口調で答える。
「いや…この朝食もコーヒーも本当にうまいんだが…それなのに、このコーヒーは何かが違うと感じるんだ。何故だろう…すまん、守…」
「…」
 俺は宮田さんを思い出す。彼女はコーヒーやお茶をいれるのが大好きでいれ方も研究していて、そのいれたお茶やコーヒーは経験に加えて研究がきちんと反映されているせいか、とてもうまい。そして将さんはその宮田さんのコーヒーを本当に愛していた。だからその味をどこかで求めているんだろうか――きりきりとまた嫉妬で痛む胸を押さえながらも、俺は明るく言葉を紡ぐ。
「もしかすると、それが記憶のカギかもしれませんよ。…じゃあ、今日はコーヒーをキーワードにして記憶探しをしましょうか。この辺りには本当にコーヒーがおいしい喫茶店がありますし、将さんの記憶に関わる味があるかもしれないですし」
 嘘だ。本当に記憶のカギになるだろうコーヒーはここにはない。でも記憶のカギ探しという名目で俺はこの人と街を歩きたかった。バッテリーとしてではなく、またライバルとしてでもなく、一人の人間同士として、できるなら恋人として――後者は叶わないが前者は叶う。だからそんな記憶のカギを、俺の都合のいい様に利用させてもらおう。いや…させてくれ。ほんの短い間でいいから――

 そうして朝食をとった後、俺達は着替えて外へ出る。俺はマスコミに気づかれない様念のためトレードマークのキャップを被らず、将さんは無意識なのか、部屋の前にいた時にも被っていた帽子を被って外へ出ると、将さんに聞かれた事を核心に迫らない程度に答えながら、近くの喫茶店巡りをする。多少の後ろめたさがあったので一応記憶のカギになるかもしれないと思い、将さんが遠征に来た時に俺とちょっと話すのに行きつけにしていた喫茶店も混ぜたが、将さんは『確かにおいしいんだが…』と呟くだけで、何も思い出せない様だった。そうして一通りの喫茶店を回った所で、将さんは苦笑しながら言葉を零した。
「…何だか、一年分位コーヒーを飲んだ気がする」
「そうですね」
「しばらくは、コーヒーはいいかな」
「俺も同感です」
 そう言うと俺達は笑い合った。ひとしきり笑った後、将さんはぽつりと口を開く。
「…不思議だな」
「何がですか?」
「本当なら一刻も早く記憶を戻した方がいいと思うのに、守といると、守には悪いんだが…本当に居心地が良くて…何だかしばらくは今のままで、記憶なんてどうでもいいんじゃないかって思ってしまいそうになるんだ。…守に迷惑を掛けているって言うのに…勝手だな」
「…将さん」
 そう言うと将さんは自嘲気味に笑った。そんな表情を見せる将さんが痛々しくて、でもそんな将さんを見られた上に俺といる事に居心地の良さを感じてくれる事が嬉しくて、でもこの非常事態を隠している事で将さん本人を含めた色々な人達に申し訳なくて――そんなめちゃくちゃな思考をまとめて将さんも同時に宥める様に、俺は言葉を明るく返した。
「そんな事言わないで下さいよ。言ったでしょう?俺は将さんが俺を頼ってくれたのが嬉しいって。だから居心地がいいって思ってくれて、本当に嬉しいんですから。だから、どうでもよくったって全然構いませんよ。むしろ…」
「むしろ?」
「……いえ、何でもありません」
 『このまま思い出さないでいて下さい』と言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。それは望んではいけない事。将さんには本来の将さんの生活があり、スターズの監督という使命がある。このまま思い出さなかったら来シーズンのスターズは指揮官不在となり、大混乱だ。いくら将さんと一緒にいたいからといっても、その周辺に迷惑を掛けるのは本意じゃない。それに…将さんにはもう、家族となる人がいる。何も知らずただ純粋に将さんの帰りを待つ『その人』を思うと、どう忘れようとしても罪悪感が胸を刺す。そうした思いで沈黙した俺を将さんは怪訝そうに見ながら問い掛けた。
「守…どうした?」
 怪訝そうに俺を見詰めている将さんの視線に気づいて、俺は取り繕う様に明るく笑って言葉を返す。
「ああ…いえ、何でもないですよ」
「…そうか」
「はい」
 将さんは笑う俺をやはり見詰めていたが、やがてぽつりと言葉を零した。
「…守」
「何ですか?」
「記憶が戻ると、記憶を失っていた時の事は忘れる…って言うよな」
「…そうですね」
「もし、記憶が戻って今の俺がいなくなっても…俺の事を忘れないでいてくれよ」
「将さん…」
 そう言って将さんは笑う。その口調も表情もまるで天気の事でも話す様に本当にさりげなくて、俺はそのさりげなさに隠された将さんの気持ちを感じ取ってふとまた胸が痛んだけれど、この幸せは忘れる事はないだろうと分かっていたから、その心のままに返事をした。
「…はい」
「…ありがとう」
 俺達は顔を見合せて微笑み合うと、俺は話題を変えて場を明るくする様に提案を口にした。
「じゃあ、コーヒーだけ飲んでたせいで胃もたれしそうですし、何か食べましょうよ。将さん、何がいいですか?」
「そうだな…」
 将さんも俺の提案にのって楽しそうに考え込む。そうして俺達は街を歩いて行った。

 それからずっと、将さんはうちにいた。記憶が戻る気配もなく、俺との共同生活にすっかり馴染んでいた。食事は交替で作り、時には酒を飲み、まるでお互いずっと一緒に暮らしていた家族の様な生活が穏やかに流れて行き、クリスマスが近くなった頃、俺は将さんにこう提案した。
「将さん、クリスマスは二人で盛大にパーティーしましょうよ。ケーキを買って、シャンパンを開けて、プレゼントをお互いに交換して…そんな風に楽しく過ごしましょう」
「そうだな。じゃあ俺も手持ちの金で守に最高のプレゼントを用意してやるよ」
「ありがとうございます」
 そう言って俺達…いや、俺は夢の様に幸せな日々を過ごしていた。もう何もかもがどうでもよかった。将さんをこのまま俺のものにしてしまえると思った。そういつの間にか思い込んでいた――

 そしてクリスマスイブ。プレゼントは一緒に買いに行こうと言っていたが、俺はいきなりプレゼントを贈って驚かすために、昼寝をしている将さんを残してそっと部屋を出た。様々な店を探して最終的に選んだのはノーブランドだけれどシックな腕時計。記憶を失っている将さんに時計はある意味嫌がらせだろうかという思いもあるにはあったけれど、俺との時間をこれからずっと過ごして欲しい、という願いを込めるにはこれが一番合っている気がした。俺は時計をラッピングしてもらうと、時間が思いの外かかってしまったので夕闇迫る道を将さんが待っているであろう部屋へと戻る。そして部屋に戻ると、何故かカギが開いている。不思議に思ってドアを開けると…部屋は真っ暗だ。
「将さん…?」
 俺は部屋中を探し回ったが…誰もいなかった。何が起こったんだ?将さんはどこへ行ったんだ――?そうしてふとリビングの机を見ると、そこには一枚の紙があった。窓から漏れる街灯の光に照らされたその紙を見ると、それは将さんからの手紙だった。

――守へ
 この十数日、お前に迷惑を掛けた事を申し訳なく思う。俺は飛行機内で眠っている間に何故か記憶を失って、ただ一つ心に残っていたお前への思いのままにここに辿り着いた。何故お前の事がそこまで心に残っていたか…それはある俺の『願い』があったからだと思う。その願いとは、ここでだけ正直に話すがお前の今度のFA権取得時に、スターズへ来てもらえないかという事だった。小次郎ももちろんお前の能力を最大限に引き出しているとは思う。しかし、俺にとっては今のお前が歯がゆかった。俺だったらもっとお前の能力を引き出してやれるんじゃないか、というある種の思い上がりと確信が相まって、ルール違反のこの行動に俺を駆り立てた。しかし、それを言う事もなく俺は記憶を失った。それはきっと、見えない『何か』がそれを止めたのだと思っている。お前の意志を無視した俺の思い上がりを戒めるために。そして俺は今全てを思い出した。だからここでは告白するが、顔を合わせないで直接的には何も言わずに帰ろうと思う。
 それからもう一つ、顔を合わせられないのには理由がある。このままお前と顔を合わせてしまったら、きっと俺はお前との関係で後戻りできない所に行ってしまいそうだからだ。だから、本来の日常に戻って自分の心をもう一度しっかりさせるために、全てを封印して今はこのままこの場を立ち去る。でも、お前の温かい思いやりは本当に嬉しかった。ずっと浸っていたかった位に。だから…

ありがとう。

捨て猫より
――

「そんな…」
 俺が望んでいた事、それを将…いや、土井垣さんも望んでいてくれた。しかし、その想いは通じ合う事なく、土井垣さんは去ってしまった。俺は崩れ落ちると号泣する。夢はいつか終わる事は分かっていた。でもこんな突然に終わるなんて――そうしてどれだけ泣いただろうか。俺はふとあの日『将さん』の言った事を思い出す。


――もし、記憶が戻って今の俺がいなくなっても…俺の事を忘れないでいてくれよ――

そうだ。この十数日の『将さん』と過ごした日々は本物だ。俺と将さんの穏やかな二人だけの日々、これだけは二人だけが持っている記憶だ――
「忘れませんよ…『将さん』の事は。だから…土井垣さんも忘れないで下さい。『守』との日々を」
 そう呟いて俺はふっと自嘲気味に笑った。ここには土井垣さんがいないのに、そんな事を言ったって届く訳がない。土井垣さんは忘れてしまうだろう。宮田さんとの優しい『日常』の中で『守』との日々の事なんて――俺はその思いに辿り着き、また涙を零した。

 そうして年末に実家に帰り、大晦日。父親と年越しそばを食べ何となくテレビを見ていた時、不意に携帯が鳴った。このメロディーは――慌てて俺は電話に出る。
「土井垣さん?」
『ああ、守。今お前の実家の前にいるんだが…いるか?』
「ええ、います。今出ますね」
 そう言うと俺は慌てて外へ出る。そこには何やら包みを持った土井垣さんがいた。
「土井垣さん…」
「…突然来てすまなかった。でも、どうしてもこれを…贈りたくて」
 そう言うと土井垣さんは持っていた包みを渡す。俺が受け取ると『開けてみてくれ』と言葉を重ねた。俺が言われるままに包みを開けると――
「土井垣さん、これ…」
 そこにあったのは俺の気に入っているブランドのキャップ。しかもちゃんとつばがカットされていた。土井垣さんはふわりと笑って言葉を紡ぐ。
「どうしても…これだけは果たしたかったんだ。『守』との約束だからな」
「…」
 俺は胸が一杯になる。土井垣さんは忘れなかった。そしてこのプレゼントは何よりの証に思えた。土井垣さんが『将さん』としての日々を、心の片隅に残してくれるんだという――俺は涙が出そうになるのを必死に堪えて笑いかけると、言葉を返した。
「ありがとうございます…『将さん』。俺からのプレゼントは…これです」
 そう言うと俺はあの日から身につけていたあの時計を外して、『将さん』に差し出す。『将さん』はふわりと笑ったまま受け取った。
「ありがとう」
「俺も…ありがとうございます。忘れないでいてくれて」
「忘れないさ…あの穏やかな日々と…『守』の事は。たとえ夢で…これからの日々とは相反するものだったとしても…忘れない」
「俺も…忘れませんから。『将さん』の事は」
「そうか」
「はい」

 そうして俺達はまた微笑み合った。ほんの少しの間だけれど、二人だけで『夢の続き』を楽しむ様に――