東京へ遠征に来た最後の夜、俺は一人バーで飲んでいた。今までは土井垣と一緒に酒を酌み交わし、その後はお互いの身体を貪りあっていたが、土井垣は自分の婚約者を完全に選び、俺とは『自分の心がしっかりするまで会わない』と奴は言い残して、俺は一人闇の中に取り残されたから。そんな苦しさを忘れたくて俺はブランデーの水割りをあおる様に空けていく。そうしていて酔えればまだ幸せだが、闇に取り残された苦しさの余り酔う事もできない。そんな心のままに飲んでいると、不意にボックス席が騒がしくなる。振り返ってみると、その席にいる女がもう一人の女と並んで座っている男に酒を浴びせかけたらしい。こんな静かなバーで起きた修羅場を俺はふと興味深く思うと共に、酒を浴びせかけた女に無意識に目が行く自分を感じていた。身長は165位だろうか。それに高めのヒールを履いているから更に背が高く見える。そしてセミロングの手入れの行き届いた真っ直ぐな黒髪と気の強そうな眼差し。顔立ちはかなり気が強そうだが、正統派の美人だ。そんな美人が起こした修羅場を俺は興味半分、目が離せないのが半分で眺めていると、言い争う声が静かなバーの室内に響いていく。
「何をするんだ!僕は本当の事を言っただけだろう!」
「そう、二股かけてた男にしては素敵な居直りね」
「そういう所が君は可愛くないんだ。女性は愛嬌が全てを決めるんだ。その点美鈴さんは可愛いし、僕の言う事も素直に聞いてくれる。君みたいに論戦しようなんて思いもしない」
「そうよ、選ばれなかったからって言いがかりをつけるのはやめて下さらない?」
「あ〜ら、そうじゃないでしょ?あたしと一緒にいたらあなた、一生影が薄いものね。美鈴さんはあなたの会社の専務のお嬢さんだから出世にもいいし、男のメンツって奴が立つと思って選んだんじゃなくって?」
「っ!」
 激昂する男とは裏腹に女は傍目には冷静な態度で言葉をさらりさらりと零していく。しかし俺にはその態度が裏腹に彼女の危うさを表している様に何故か見えた。何故そう見えたのかは分からないし、今は追及する事じゃないと考えをまとめつつ、俺のこの考えがどうのこうの以前にこんな反応をする男だ、彼女の態度はこの男には逆効果だろうと思った。案の定男は更に激昂し、女に向かって手を振り上げる。女はそれにも臆せず男を見返していたが、女が殴られるのは見ていていい気分がしないので俺はその場にすっと寄って行くと男の手首を掴んだ。不意に手首を掴まれた男も女達も驚いて俺を見詰める。俺は男に向かって努めて静かに声を掛けた。
「…女を殴るなんざ、分別のある男のする事じゃねぇな」
「何だと!?君には関係ないだろう!」
「いいや、関係あるね。あんたらの言い争いを聞いてたら俺含めたあんたら以外の客の酒がまずくなっちまう。この店の営業妨害だと思われない様に、やりあうんだったら…他の心置きなくできる場所で…やってくんねぇかね」
「…」
 男は俺を睨みつける。俺も睨み返す。その男は俺の眼差しに気圧されたのか俺の手を振りほどくと、隣にいた女の肩を抱き、捨て台詞を吐いた。
「…とにかく、君とはさよならだ。もう二度と会う事もない。じゃあな…行こう、美鈴さん」
「ええ。雄介さん。…そうだわ、あなたも良家の令嬢でしたら少し性格を可愛らしく女性らしくなさったらどう?でないと一生男性とはご縁がないんじゃなくて?」
「おあいにく様、自分を変えてまで男が欲しいとは思わないわ。あなたこそ後でメッキがはがれまくりそうなお嬢様ぶりっ子はやめたらいかが?」
「〜!行きましょう!雄介さん」
 二人は代金を払うと怒っている割には逃げる様にそそくさと去って行った。残った女は、俺に微笑んで言葉を掛ける。
「ありがとう。殴られるのはかまわなかったけど、止めてもらえて助かったわ。さすがに顔を腫らせると、仕事に差しさわりが出るし」
「いや、俺こそ余計な事をしちまったんじゃねぇかなと思ったが…修羅場は見てていいもんじゃねぇしな。おせっかいついでに、あんた馬鹿な俺とは違って本当は頭よさそうだし実際分かってるだろうから言わせてもらうがよ…言い争うなら相手の性格見極めて態度と言葉考えろよ。いくら腹が立ったからって無謀なやり取りは10代の特権だろ?無駄な争いして無駄な怪我、なんて損なだけじゃねえか。折角の賢さが泣くぜ?」
「初対面でずけずけ言うわね…でも、そうね。あなたの言う通りだわ。無駄な男に無駄なエネルギー使うの、確かにもったいないものね」
 そう言うと女はまた微笑む。その微笑みに何故か俺は酔いが急に回ってきた気がした。この感覚は、どこか土井垣に持っていた感覚に似ている様な気がする。何故そう思ったのかは分からないが、彼女から目が離せない。じっと見詰めている俺を女も見詰め返すと、不意に提案をした。
「…どう?振られた後すぐに逆ナンなんて尻軽だと思うかもしれないけど…それでもいいから、これから験直しに一緒に飲まない?何だかあたし、あなたが気に入ったわ」
 女の誘いに俺は戸惑いつつも、何だか彼女と飲んでみたい気持ちになり、同意する事にした。
「ああ、喜んで。でもいいのか?あの男追いかけなくても」
「いいのよ。今言った通りあたしにとってもあの男は『無駄な男』だったし。キープとしか思ってなかったの。だからあいつに何か言える立場でも…すがる気もないわ」
「それは…?」
 俺の問い掛けに、女は寂しそうな微笑みを見せる。それを不思議に思いつつも、気持ちを盛り上げる様に言葉を掛ける。
「じゃあ、新しい出会いに乾杯って事で飲むか!」
「ええ」
 そう言うと二人はカウンター席で並んで飲み始める。会話はほとんど交わさなかった。しかし一人で飲んでいた時と違い、今までの酒も含めて気持ちの良い酔いが何故か俺に訪れる。そして俺はいつの間にか気が遠くなっていた――

 気が付くと朝で、俺はベッドで眠っていた。しかも良く見ると知らない部屋の上、自分の格好は下着一枚だ。状況が分からなくて部屋を見回すと、本棚には経済学の本が並んで、良く掃除が行き届いている部屋だ。個人の部屋だとは何となく分かったが、ここは一体どこなんだろう――不思議に思って部屋から出ると、随分広めだが、程よく生活観が漂う部屋のリビングで、昨日の女がルームウェア姿で眼の前にずらりと並ぶ新聞を読んでいた。女は起きてきた俺に気付くと、ふっと笑って言葉を掛ける。
「…起きたみたいね」
「ここは…?それに、俺は…一体…」
「あなた、飲んでたら潰れちゃってね。置いていくのも気が引けたから、あたしの部屋に連れてきたのよ。…ああ、気にしてるのはその格好の事?大丈夫、何の間違いも起こしてないから心配しないでね。下着姿なのは途中で吐いたから服を洗濯してたの。もう乾いてるし…はい、渡すわ」
「あ、ああ…ありがとう」
 そう言うと女は綺麗にアイロンをかけてたたんだ俺の服を渡す。俺がそれを受け取ると、女は更に言葉を重ねる。
「まだ少しお酒臭いから、シャワー浴びてから着るといいわ。タオルはお風呂場に用意してあるから。それから、二日酔いにはなってない?」
「え?…ああ、大丈夫だ」
「なら、朝食も食べてから出て行くといいわ」
「しかし…そこまでされるのは申し訳ない気が…」
「いいのよ。あたしも一人で食事するのが味気ないから誘ってるんだし。…言ったでしょ?『あなたの事が気に入った』って」
「あ…まあ…そうだが…」
「だから何の気兼ねも要らないわ。さ、シャワー浴びて着替えてきなさいな」
「じゃあ…お言葉に甘えて…」
 そう言うと俺はシャワーを浴び、服を着るとキッチンへと足を運ぶ。よく部屋を見渡すと、大分間取りが広い3LDKで、一人暮らしの女の部屋にしては随分贅を尽くしていると思うが、嫌味が全くない。つまりそれだけの育ちの女って事か――?そんな不思議な感覚を覚えながら促された席に座ると、そこには二人分の簡単な和食が用意されていた。
「飲んだ後は、こういうものが恋しくなるでしょ?とりあえず食べてみて」
「ああ…じゃあ、遠慮なく…いただきます」
 そう言うとまず俺は豆腐とねぎの味噌汁に手を付ける。一口飲んだ時、そのおいしさに俺は思わず感嘆の声をあげた。
「うめぇ…」
「そう、お口にあって良かったわ」
 そう言って女はまた微笑む。その笑顔にふと鼓動が高まる自分も感じながら、俺達は朝食をとっていく。そして食べ終わり、俺は礼の言葉を述べた。
「その…酔って潰れたのを助けてくれただけじゃなくて、ここまでしてもらって…ありがとうな」
「いいのよ。きっとあなたはそうやって酔いたかったのよ。あたしは単にあなたが気に入ったからそれを受けただけ。…それより、あたしこそありがとう。嫌な修羅場をスカッとさせてくれて」
「え?ああ…いや…あ、そうだ」
「何?」
「食器は俺が洗うよ。ここまでしてもらって何も返さないってのも悪い気がするし…」
「いいわよ、あたしは重役出勤で暇だから。それよりあなた、早くホテルに戻らなくちゃいけないんじゃなくって?『犬飼小次郎監督』」
「えっ?俺の正体を知ってたのか…?」
 俺の問いに女はくすりと笑って首を振ると答える。
「いいえ?でも今日の朝刊に目を通してたら、偶然あなたの写真と名前が書いてあった記事が載っていてね。それで知ったの…ほら『犬飼、一年ぶりの勝利投手に』っていう記事」
 そう言うと女は新聞の一つを取り出し、スポーツ欄を俺に見せる。そこには確かに昨日の登板で投げている自分が載っていた。
「久々の勝利で良かったわね…でも」
「でも?」
「飲んでいる時のあなたの目は寂しそうだった。まるで何かを失ったみたいに…ねえ、あなたは何かを失くしたの?」
「…」
 そう言うと女は優しく、しかし同時に寂しげな眼差しで微笑む。その眼差しはまるで自分も俺と同じだ、と言いたいかの様で、それを見た俺は不意に土井垣に対する様々な想いが湧き上がってきて――彼女の言葉に応える代わりに、思いもよらない言葉を返していた。
「また…会えないか?その…俺もあんたが気に入った。迷惑じゃなきゃ…会って欲しい。その時に…話したい」
「…」
 自分でも自分の言葉に驚いていたが、それは偽らざる本心。その言葉に女は驚いた表情を見せたが、すぐにふっと笑って頷いた。
「いいわ。…またあのバーで会いましょう」
 そう言うと俺達はお互いの連絡先を交換する。と、不意に俺は彼女の名前を聞いていない事に気付き、問い掛ける。
「そういえば…あんたの名前は何ていうんだ?」
 俺の問いに、彼女はふっと笑って答える。
「『あきこ』よ」
「『あきこ』…いい名前だな」
「ありがとう…じゃあまたあのバーで。ちなみにこのマンションはセキュリティが万全だから、来ても無駄よ」
「そうか…じゃあ、俺は悪いがこれで失礼するよ。…また、あのバーで」
「ええ…じゃあね」
 そう言うと俺は彼女のマンションを後にし、タクシーでホテルへと戻った――

 …はい、という訳で新シリーズ、『心の旅人シリーズ』でございます。『想いの迷路シリーズ』で土井垣さんに振られてしまった小次郎兄さんと不知火に(私的な)幸せをあげようと思って立ち上げたシリーズです。
 進行としては小次郎兄さんと不知火を交互に、時折交錯させていくつもりで(今は)います。で、表では女の影すら見せない小次郎兄さんのお相手は、このお方に決定。裏設定など余りまだ作っていない更なキャラですが、名前は所々に出てきてますね(笑)。
 小次郎兄さんは土井垣さんを思い出に出来るでしょうか?そして彼女との行方はどうなっていくのでしょうか?作者も決めてません(爆死)。でもどんな形になっても素敵な関係にしていきたいとは思っています。

[2012年 05月 27日改稿]