あたしは『ある男性』を見送ると、一緒に食べた朝食を片付け、ルームウェアからスーツに着替え、化粧をする。ひとつボタンが掛け違っていたら、あたしは今泣き腫らした惨めな顔になっていたかもしれない。その運命を変えてくれた『その男性』にあたしは思いを馳せる。愛している男性に雰囲気が似た『彼』。あの場面で彼に出会ったのは偶然だったのか。それとも――
「…非科学的よね、『運命』なんて。…でも、ありがとう。『犬飼小次郎さん』」
あたしは鏡を見て微笑んだ。昨日の今日でこんな顔ができるのも彼のおかげだ。傷ついたあたしに笑顔が出せる安らぎをくれた彼に本当にまた会えたら、その時は心からお礼を言おう。そう心に決めた――
「社長、今日のスケジュールですが…」
出社し、社長室に入ると秘書の佐倉さんがいつもの様にスケジュールをあたしに伝える。あたしはそれを聞きながらそれぞれに対する対処をその場で考えていく。こうしないと女の身で社長業をしていくのは、まだ男社会の名残が根強い経営側だと大変だから。本当なら専務の弟に社長業を明け渡してもいいのだけれど、仕事は好きだし面白いし、何より弟はまだこの会社を背負って立つには少々未熟だ。だから今弟には『教育係』を付けて、あたしがいつその座を明け渡しても大丈夫と言える様にじっくり育てている。あたしはスケジュールを聞くと、午前中の仕事をこなしていく。ほとんどが決裁の判子を押せばいいだけの仕事だけれど、よく見ておかないと今の現場の状況が見えてこないし、安易に判を押す事で何が起こるか分からない。現に一人は名目上の肩書きだけれど…三人いる常務の内二人の間には深い溝があり、その片方はあたしを追い落とそうとしているという事も知っている。だから会社の維持発展もそうだけれど、医療の発展のために尽くせる人材を育て、使う人間の事を考えた製品を作る、という理念を壊さないためには何事も慎重に進めなければならない。そうしてひと段落付いたのでコーヒーをいれてもらおうと秘書課に内線を入れようとした時、不意に社長室のドアがノックされる。こんな風に来られる人間は限られているので「誰?」と声を掛けると『俺だ、入るぜ』と返って来る。その声に思わず胸が弾むのを抑えて「あたしがどうぞ、入って」と応えると、長身で会社員にしては少しアウトロー風だけれども決して下品ではなく、むしろある種の品の良さすら漂う男性が入って来た。彼こそが弟の『教育係』であり、経営コンサルタント兼名目上の最後の一人の常務であり――あたしが愛している男性だった。彼は入ってくるなり机の角に腰掛けてあたしに言葉を掛ける。
「…おい、昨日『ノラ』で付き合ってた男とやりあったんだって?マスターから聞いたぜ」
彼のこんな態度もあたしを気遣っての事だと分かるし、何よりあたし達の間柄だからできる事。あたしは苦笑してその言葉に応える。
「…相変わらず情報が早いわね」
「それが俺の『本業』だからな」
そう、彼の本業は探偵と人材派遣業を主とした何でも屋。あたしはあるきっかけから彼のその経営手腕に目を付けて、経営コンサルタント兼常務取締役として、そして弟の『教育係』としてこの会社に入ってもらったのだ。そしてその手腕と人柄を見ていくうちに…いつの間にかあたしは彼を愛していた。あたしは幾度となくアプローチをしたけれど、彼はあたしに対してはビジネスパートナー以上の感情は持たず…決して女性として愛してくれる事はない。彼にはずっと愛している女性がいるから。でもその女性は別の男性を愛し、婚約して…今ではお腹に子どもも授かっているそうだ。それでも彼は彼女への愛に殉じ、あたしを受け入れる事はなかった。そんな彼を苦しめたくて――あたしはわざと好きでも何でもない他の男性と――それもあまり評判の良くない男性と付き合った。それでも彼は『お前がそれでいいなら、俺は何も言わない』と言うだけだった。たとえ愛してくれなくてもいい。せめてやけっぱちになったあたしを止めて欲しかった。ううん、そこまでじゃなくてもあたしの事をほんの少しだけでいい、気にかけてくれれば良かった。『彼女』の何十万分の一でもいいから――でも、結果はこの通り。あたしは自嘲気味な口調で問いかける。
「馬鹿だって笑う?元々好きでもない人と当て付けで付き合って…あげく二股かけられたなんて」
その言葉に、彼は静かに首を振って応える。
「いいや、こうなったのは俺のせいもあるからな」
「随分と思い上がってるわね」
「そうだな…でも」
「でも?」
不意に彼は真剣な顔になり、口を開く。
「忠告しておく。分かってるだろうが、誰と付き合おうが俺には何も言う資格はねぇ。…だがな、犬飼だけはやめておけ」
「柊司さん…」
「俺とあいつはちょっとした面識があってな…他の男ならともかく、あいつだけはお前に勧めたくねぇ男だって思ってる。もし惹かれてるとしたら…深入りしないうちに手を切れ。俺からの助言だ」
「…」
彼の心からの心配が伝わる言葉に嬉しさが起こると共に、どうして彼がそこまで言うのかが分からず、あたしはその心のままに問い掛ける。
「柊司さん…犬飼さんってそんなに悪い人なの?そうは見えなかったけど」
「悪いっていうか…すまねぇ、これはとても俺の口からは言えねぇ」
「ならいいじゃない。柊司さんには口出しさせないわ。あたしの付き合いはあたしが決める」
「おい、彰子!」
「じゃあ柊司さん、あたしと結婚できる?…できないでしょ?…だからほっといて」
「…」
あたしの言葉に、彼は言葉を失う。あたしはにっこり笑うと、更に言葉を重ねる。
「大丈夫。あたしはこれでも人の目を見る才能はあるつもりよ。でなきゃあなたをここまで重用したり…愛したりしないわ」
「彰子…」
「今回ダメ男と付き合って二股されたのは、ヤケになったから目が曇っただけ。あたしは大丈夫。でも…」
「でも?」
「もし心配してくれるなら…愛してくれなくてもいい、あたしが幸せになるまででいいから…見守って。お願い」
「…」
不思議とあたしはずっと言いたかった心の言葉が出せた。これも犬飼さんのおかげなのだろうか――彼は今まで聞かなかった言葉に驚いた表情を見せていたけれど、やがて乱暴に頭を掻くと、呟く様に口を開く。
「全く、あっちもこっちもどうしてこうなるんだか…」
「何か言った?」
「いや?…分かった。見守ってやるよ。…但し、お前は女だって以前に社長だって事を忘れるな。片岡常務派の人間がどこで目を光らせてるか分かったもんじゃねぇからな。今回の一件は何とか揉み消しといたが、あんまり続くと俺もかばいきれねぇぞ」
「ありがとう、その忠告は受けるわ。じゃあコーヒーでも飲んでいきなさいよ。丁度頼もうと思ってたところなの」
「そうか。じゃあ、お言葉に甘えるとするか。ちなみに飲んだ後はすぐH食品の社長とその息子との会食、その後は定例の役員会議だろ?だから呼びに来たんだ」
「あら、もうそんな時間?」
あたしは慌てて時計を見る。確かにもうお昼の時間が迫っていた。彼はにっと笑うと悪戯っぽく、しかしあたしに覚悟を付けさせる様に問いかける。
「またにっこり笑いながら水面下で激しいドンパチをやらなきゃならねぇぞ。…覚悟はいいか?」
彼の言葉にあたしはにっこり笑って応える。
「ええ。その代わり、いつも通り援護頼むわ」
「ああ、任せとけ」
あたしは佐倉さんに二人分のコーヒーをいれてもらって二人で飲むと、弟と合流し三人で会食の場に出て行く。ビジネスの世界は戦場だ。でもこうして背中を預けられる戦友がいてくれるのが心強い。でも…朝のあの別れから不意に心に湧き上がって来た安らぎを求める心に今の会話で気付いてあたしは戸惑ってもいた。愛しているのは柊司さん。そして柊司さんと二人でビジネスという戦場を駆け抜けるのが楽しかったはず。なのにどうしてこんな気持ちを持ち始めたのだろう――
…はい、という事で小次郎兄さんと別れてからの彰子さんの一日の一コマでした。タイトルの『女帝と法王』は御館さんを表すタロットの大アルカナ『法王(意味は実力・影響)』を使わせてもらいました。
ここであいも変わらず御館さん登場。今回は二人を見守る役目を背負ってます。ホント忙しい人だな(笑)。そして彰子さんは小次郎兄さんと出会って今までに感じた事のない感情を持ち、戸惑っています。お互いがそうして戸惑ってどんな関係を築いていくのか…作者にも見えてないんですよ。でも一回はスキャンダルに落とし込むことは考えてます。その時に御館さんだけでなく意外な人物が動くかもしれません。予定は未定ですが。とりあえずこれからの展開を暇な方は楽しみにして下さい。
[2012年 05月 27日改稿]