彰子と別れてから数日後、坊ちゃんスタジアムで秋季キャンプが始まる。今年も後一歩の所で日本シリーズに出られなかった原因を反省材料とし、来年こそはリーグ優勝、そして日本一の座を奪える様に選手達を導いていかなければならない。そのための練習メニューを考えつつも、時折明子が別れ際に見せた哀しげな顔が頭に浮かぶ。一度会っただけでも分かる彼女のしっかりした気性。そのしっかりした彼女が見せた本来の弱い一面。そんな彼女を守るために、できる事なら側にいてやりたかった。しかし俺はまだ土井垣への想いに決着をつけていない。そんな中途半端な想いの俺が側にいても、彼女を傷付けるだけだと分かってもいた。だからあそこであえて離れた事に後悔はしていない。でも――あの時のキスで、おぼろげな感覚ではあるが、彼女を包み、様々なものから守りながら一緒に戦ってやりたい、という気持ちが脳裏を掠めるのも確か。俺の想いはどこにあるのだろう――練習メニューを考えた後眠りにつく度に、俺はその事を繰り返し考えていた――
そうして秋季キャンプ初日。坊ちゃんスタジアムに行くと、報道陣が詰め掛けていた。ただキャンプの取材をしに来た訳ではない位瞬時に分かった。なら何のために――?それでも素っ気ないふりをして俺がロッカールームへ入ろうとすると、記者の一人が俺に声を掛けてきた。
「犬飼監督!東京に恋人がいるというのは本当ですか?」
「は?」
唐突な問いに俺は思わず問い返す。また違う記者が俺に言葉を掛ける。
「しかもお相手は有名企業の美人社長だそうじゃないですか!」
「それは…一体…?」
「逆玉狙いですか?それとも記事の通りただの火遊びとか…」
「…失礼!」
俺は彰子との事だとやっと理解し、怒りの余り声を荒げて記者を突き飛ばすと、チームメイトの様子を見にロッカールームへ直行した。ロッカールームへ行くと、俺の心配とは逆に、むしろチームメイト達が俺に対して心配そうに口々に声を掛けてくる。
「監督、大丈夫でしたか?」
「ああ、何とか。…でもあの記者達は何なんだ?」
「多分このせいですよ。偶然立ち読みしたら監督の事が書かれてて、内容がアレでびっくりしたのもあって買ってきたんですけど」
そう言って左貫が俺にあるゴシップ記事で有名な雑誌を差し出す。俺はそれを見て驚いた。
「どういう事だ…何!?」
そこには抱き合っている俺と目隠しはされているが彰子の写真と共に、『鳴門の牙、夜のご乱行』というご大層な見出しで俺と彼女の事が面白おかしく書かれていた。何でもその記事に書かれている事を要約すると、『犬飼監督の東京の夜のお相手は某有名企業の美人社長A子さん。二人はバーで抱き合いながら飲んだ後、路上でキスをして二人で夜の街へ消えていった。二人は以前から関係を持っていて、このバーを東京での逢引の場所に決めているともっぱらの評判である』という事だ。まあ4割方は合ってはいるが、俺と彼女がふしだらな愛人関係の様な書かれ方と夜の街へ二人で消えたという部分、そして最後の一文はあの彼女を想うマスターがこんな事を言うはずが無いので、どう考えても捏造だ。名誉毀損で訴えてやろうかと一瞬考えたが、騒ぐのは逆効果だと瞬時に判断し、静かに問いかける。
「…で、俺がこの週刊誌の通りの事をしたと思ってるって訳か?」
「ああ、いえ…そうは思ってませんけど…抱き合ってる所を写真に撮られちゃったのはまずかったですよね」
「…まあな」
そうして気まずい沈黙が流れる中、その沈黙を破るかの様に、マドンナがロッカールームへ入って来た。
「おはようございます。本日は、外は大変な人ですこと…監督、皆様も重い表情はなさらない方がよろしいですわ。マスコミに付け入られるだけですもの」
「マドンナ…お前は気楽でいいな」
「いえ、気楽なのではなく、監督にもちゃんと艶っぽい所があった事を安心しているだけですわ。ところでそのお相手は有名な企業の社長だとか。どなたですの?有名な企業ならわたくしも知っている方でしょうか」
「…」
マドンナが絡むと厄介な事になると思い、俺は沈黙する。他のチームメイトもそれは同感の様で、左貫は雑誌をさっと隠した。しかし目ざとく気付いたマドンナは隠した雑誌を左貫から取り上げ、写真を見て声を上げる。
「…まあ、顔は隠されていらっしゃるけれど、彰子お姉様だわ。監督、いつの間にお知り合いに?」
「マドンナ…彼女の事を知っているのか?」
土門の問いに、マドンナはあっさり答える。
「はい。彰子お姉様の会社はうちの財閥とも取引がありますから。仕事の手腕は父も認めておりますし人柄もよろしくて、わたくし本当のお姉様の様に慕っておりますの。彰子お姉様なら監督とお似合いですわ。よろしかった事」
お気楽に言葉を紡ぐマドンナに、武蔵が心配そうに言葉を続ける。
「でも、こんなスクープのされ方したら兄ちゃんだけじゃない、そのあきこさんって人もマスコミの餌食だぜ?どうしたらいいんだよ」
「彰子お姉様なら大丈夫ですわ。専務の弟さんもしっかりしていますし、何より有能で誠実な秘書と片腕が付いておりますから」
「とはいえ…彼女に迷惑を掛けるのは本意じゃないんだが…」
「ですから監督が堂々となさっていればよろしいのです。マスコミも付け入る隙がなければ、諦めますわ」
マドンナのある種もっともな言葉に、俺は頷いた。
「分かった…お前らもいつも通りに振舞え。そもそもお前らは何も知らないんだ。応えるまでもなく隠す事は何もない。そのまま知らぬ存ぜぬで通せ、いいな」
「はい」
そうして俺達は練習を始める。始めのうちこそ記者達は何かおいしい話を聞き出せるのではないかと、うっかり口を滑らせるのを期待して、来年の抱負に絡めて彼女の事を織り交ぜてインタビューなどをしていたが、皆何も知らないのだから言える事がそもそも何もない。そして俺自身何も話さなかった。何も聞き出せないと分かった後は、諦めた様におざなりな抱負などを聞いて去って行った。そうして練習が終わり着替えて帰ろうとすると、珍しい事に不知火が『飲みに行きましょう』と誘ってきた。何かあるとは思ったが、たまにはこいつと飲みに行くのも悪くないと思ったし、退院してからの調子も聞きたかったので俺はこいつの誘いに乗る事にした。お互いのマンションの中間点の居酒屋に入ると、お互いまずビールを頼んで飲み干し、更に酒に移った所で俺は不知火に声を掛ける。
「どうだ、肺炎は。治ったのか」
「はい、治療が良かったのかもう快調です。いい病院を紹介して下さって、ありがとうございました」
「それで…何で俺と飲もうと思ったんだ?」
不知火は俺の問いに一瞬驚いた表情を見せた後、手元の酒に一口口をつけて逆に問い返した。
「監督…正直な所を聞きます。あのスクープは…本当なんですか?」
「…」
俺は何と答えようか一瞬迷ったが、不知火の真剣な瞳に圧されたのもあり、正直に話す事にした。
「…半分は本当で、半分は嘘…だな」
「どういう事ですか?」
「正直に話すが、俺が彼女と会ったのはあれが二度目で…お互い、自分の想いがどこにあるのかまだはっきりは分からねぇんだよ。でも、お互い惹かれ合ってるのだけは…確かだがな」
「…そうですか」
不知火は酒を飲み干すと、ふっと更に真剣な瞳になって問い掛ける。
「じゃあ…もっと突っ込んで聞きます。…彼女と…土井垣さんと…どっちに想いがあるんですか?」
「不知火、それは…?」
「俺は…知っていますよ。土井垣さんと監督の関係の事は」
「不知火…どうして…」
驚愕して問い掛ける俺に、不知火はふっと寂しそうな笑みを見せて呟いた。
「俺は…この想いにはもう決着が着きましたが…土井垣さんの事をずっと想っていましたから…土井垣さんの事は何でも知っています。それに俺も、監督との関係を逆手にとって、関係を持った身ですからね」
「不知火、お前…」
知らなかった『事実』に俺は驚きが隠せなかった。そして何故今更になって、隠したままでも良かった話を当事者の俺に告白したのかが不思議で、それをそのまま口に出す。
「そうか…でも墓場まで隠し持っていきゃいい話なのに、どうしてそこまでばらすんだ?もし俺が土井垣と未だに関係を持ってたとしたら、今の話でお前を絞め殺してる所だぜ」
俺の言葉に不知火はふっと笑って応える。
「たとえ、土井垣さんに想いを残していたとしても…関係はもう持ってないって分かっているからの告白ですよ。土井垣さんは、完全に宮田さんを選びました。俺はそれを知っています。それに…土井垣さんと関係を持ちながら別の女の人と遊べる程、本当の監督は器用じゃない事も…俺は知っていますから」
「すげぇ自信だな」
「想いを寄せている人と…そのライバルに関しては、人は詳しくなるものですよ。監督も、それを知っているんじゃないですか?」
「ああ…そうだな」
俺は宮田に傷を付けようとした時の彼女の俺に対する態度と、御館の彼女と俺に対する態度を思い出し、ふっと笑って頷く。いい加減鈍いのは俺だけって事か――そうして自嘲気味な笑みを見せる俺に、不知火はまたふっと真剣な眼差しを見せて言葉を紡ぐ。
「あの女性に惹かれているって言うなら、俺は何も言いません。でも、惹かれているなら土井垣さんとの想いにきちんと向き合って…決着をつけて下さい。中途半端な態度は、土井垣さんにも、彼女にも…失礼です」
「ああ、そうだな。…でも、俺もどうしたらいいのか…分からねぇんだよ…」
一筋の涙と共に零れた心の言葉。土井垣への想いに決着をつけたい。そうして彼女と向き合いたい。不知火との会話でやっと俺は俺の本当の気持ちに辿り着いた。でも、どうしたら土井垣との想いに決着がつけられるのだろう――不知火はしばらく無言で俺を見詰めていたが、やがてふっと一つ溜息をつくと、ぽつりと言葉を零した。
「俺は宮田さんと会った事で決着がつけられましたが…監督の場合は…宮田さんより、土井垣さんと会った方がいいと思います。それで…さよならを言うなら、ちゃんと言うんです。そうすれば、きっと…新しい道が開けます」
「そうだろうか…」
「…ええ」
不知火は静かに頷いた。俺は手元の酒を飲み干すと、ふっと不知火に笑いかけて言葉を紡ぐ。
「ありがとうよ、きつい事も言わせちまって」
「いいえ。…調子がいいと笑われそうですけど…土井垣さんとの事は、俺の中ではもういい思い出ですから。それより…今の想いの方がずっときついんですよ。だから…一時期同じ人を好きになった監督には同じ思いをして欲しくないんです」
「不知火、それは…?」
不知火の言葉が不思議に思えて、俺は問い掛ける。その問いに不知火は寂しそうに笑うだけだった。それだけで俺は不知火が土井垣への想いを乗り越えた上で、何か辛い恋をしているんだと分かった。これも俺が彰子への想いを自覚できたおかげかもしれない。俺は不知火の盃に酒を注ぐと、口を開いた。
「とりあえず…今日はお互い全部忘れて…飲もうぜ」
「…そうですね」
その後は無言で俺達は酒を酌み交わし、いい具合に酔った所で店を出る。別れ際、不知火は『じゃあ…ちゃんと、土井垣さんと決着をつけて下さいね』と言い残した。俺は不知火の心遣いに感謝すると共に、ふっと何故か彼女の声が聞きたくなった。その想いのままに俺は彼女に電話を掛ける。数コール後、『小次郎さん?』という少し低めの艶っぽい、彼女の声が聞こえてきた。俺は「ああ、俺だ」と応えた後不意に謝罪の言葉が漏れていた。
「彰子…すまん。迷惑…掛かってるだろう?」
『いいえ、大丈夫。私には弟も、秘書の佐倉さんも、柊司さんも友人の弁護士もいて、皆がしっかり守ってくれているから。それより、小次郎さんこそあんな風に書かれて迷惑を掛けて…ごめんなさい』
「いや…俺も、知らぬ存ぜぬで通してるから大丈夫だ」
『…そう』
不意に寂しそうな声になった彰子の様子を感じ取り、俺は彼女に問いかけていた。
「どうした?…やっぱり何か迷惑が…」
『そうじゃないの…小次郎さんは…私と噂になるのが迷惑なんだと思ったら…こんな事を考えるのは会社にとって良くないって分かってるけど…寂しくて…』
その奥から女の声で『彰子?』という声が聞こえる。俺は彰子の言葉が嬉しくて、そのままの言葉を零す。
「いや…迷惑じゃない。ただ、あんな形で出されたくないと思っただけだ。…この想いは…俺にとって、人生を変えた位…大切なものだから」
『小次郎さん…』
『やだ彰子、どうしたの!あの男が何か酷い事でも?』
『いいえ…違うわ、千穂…それから…ありがとう、小次郎さん』
電話口の彰子が涙ぐみ、陰にいる女が更に慌てたのが分かる。俺はこれ以上話していると彼女に迷惑が掛かると思い、別れがたいが別れの言葉を出す。
「じゃあ…とりあえずはこれで。マスコミ攻撃はお互い切り抜けよう。そうしてオフに…会おう、絶対に」
『ええ…そうね、小次郎さん。それじゃあ…その時に』
俺は電話を切ると一息ついて夜空を見上げる。俺は今の電話で想いが全て整理できて、全てに決着がつけられる気がした。俺は顔を前に向けると、改めて電話をかけ直す。数コール後に『はい』という高めのテノールの声が聞こえてきた。俺の「俺だ。今からそこへ行く」と言う言葉に『ちょっと待て!ここに来るって…!』と慌てた電話口の相手に「安心しろ。手を出しに行く訳じゃねぇよ。ただ…別れの言葉を言おうと思ってな」と告げ、沈黙した相手に、沈黙を肯定と捉え、ダメ押しで「じゃあな。すぐ行くから」と言い残し電話を切り、タクシーに乗った――
…はい、誰も待っていない(苦笑)、『心の旅人シリーズ』でございます。小次郎兄さん、最初にして最大のピンチでございます。スキャンダルに落とし込まれ、二人とも身動きが取れなくなってしまいました。でもその事ではっきりと自分の想いを自覚し、土井垣さんとの決別への道を開いたつもりです。
今回それを手助けした不知火。彼は先に全てを乗り越えた存在として、小次郎兄さんを導いてくれました。この展開は作者も予想外でしたが、不知火が自然と動いてくれました。そしてちらりと真理子ちゃんとの恋の事も匂わせて、不知火編とリンクしています。そんな彼はタロットを調べたら『太陽』がまるではまったかの様に意味ぴったり。という訳で今回のタイトルになります。でも小次郎兄さんの方がまだ様々な障害は少ない方なのですよ。むしろ彰子さんの方がこれから様々なピンチに陥ります。でもその代わりその彰子さんを守る誠実な人達も勢ぞろいします。それを書くのが次回の小次郎兄さん編です。今回濁してますが表や『想いの迷路シリーズ』を読んでいれば分かる『あの方』も登場。動きは少ないですが彰子さんを助ける役目の一端を背負ってもらうつもりです。
そして新たな裏設定、『マドンナと彰子さんは姉妹の様に親しい関係』。彰子さん程の規模の会社ならマドンナの家との交流もありそうですし、何よりマドンナ自身がしゃしゃり出てきました(苦笑)。あまり本編とは関係ない設定ですがこれからちらりちらりと出すかもしれません(予定は未定)。
[2012年 05月 27日改稿]