あたしが会長室に行くと、おじい様は静かに『入れ』と言った。部屋に入ると、おじい様は応接場所のソファを指して『座れ』と促し、自分も座る。あたしが正面に座ると、おじい様の腹心の真田がすぐにおじい様とあたしにお茶をいれてくれる。それを一口口にすると、おもむろにおじい様は話し始めた。
「彰子…今回の件、災難だったな」
「いいえ。…私こそ軽率な行動を取ってしまった事、後悔しています」
「しかし…それ程に想いが募っていたのだろう?」
「おじい様…!」
おじい様の意外な言葉にあたしは驚く。それを見て、おじい様は申し訳なさそうな表情で静かに続ける。
「すまんな。…光太郎が死んで、お前の能力の高さを買った事だけでなく、光流がまだ若く未熟だとはいえ、結果この男社会の重き責務をお前に全て背負わせる形になってしまっている。…さぞ辛かろう」
「いいえ、おじい様。私はこの生き方に誇りを持っています。辛い事などありません」
「いや。表ではそう思っていても、内心辛い事は分かっておる。…そして腹心にはなっても…想いを返してくれない相手への叶わぬ想いも背負ったお前が、私生活で自暴自棄になっておった事は柊司から聞いていた。そして柊司も自らの責任を感じつつも自分の想いは覆せぬ、と苦しんでおったよ…」
「おじい様…」
「そんな時に…あ奴が現れた。かつて『鳴門の牙』と呼ばれた程に気の荒い男で、現在も素行がかなり良くないと柊司から聞いて、儂は一旦お前とあ奴を引き裂く様柊司に命じた。しかし、柊司はその命令にこう返した。『あいつは気性が確かに激しく素行も悪い所がありますが、一番大切にしなければならない想いは真っ直ぐに持つ人間で、気性の激しさや素行の悪さなどはその結果というだけです。ですから、あいつの…犬飼の想いを、何より彰子の人を見る本当の目を信じて…見守ってやって下さい』…とな」
「…」
柊司さんは恋愛でなくても、そこまであたしの事を想ってくれていたのか。そんな事は露知らず、あたしは何て恥ずかしい事をしていたのだろう――言葉を失うあたしに、おじい様は更に問い掛ける。
「どうする…彰子。お前はたとえ今後社長の座を光流に明け渡したとしても、儂の跡を継ぎ以後も会長としてこの会社を背負わねばならぬ。プロ野球選手であり、監督であるあ奴との想いを貫くのは並大抵の覚悟ではできんぞ。それでもこの想いを貫き通すか」
おじい様の真剣な眼差しに、あたしが持つ言葉は一つだけだった。あたしは『それ』を思いのままの眼差しで告げる。
「…はい」
「…そうか」
おじい様はお茶を飲み干すと、静かに言葉を紡いだ。
「ならば…本当の意味で強くなれ。そして、周りの敵や味方を見極める目を更に磨け。光流や柊司や佐倉や宮田女史は…そして犬飼小次郎もお前を助け、支えてくれるであろうが…そればかりに頼らず、自らの足でも立ち続けられる力としなやかさを身につけろ。分かったな」
「はい」
おじい様の思いが伝わる言葉にあたしは頷くと、お茶を飲み干して会長室を出た――
そして終業後、佐倉さんが『今日は社長の家に泊まりに行ってもいいですか?』と聞いてきた。あたしを心配してくれている故の言葉だと分かったから、あたしは笑って『ええ』と答える。そして会社を出た所で待ち合わせると、佐倉さんはあたしを抱き締めて言葉を紡ぐ。
「彰子…大変だね。でも大丈夫。光流君も、御館さんも、文乃さんもいるんだもの、きっと何とかなるわ。それに…役に立たないかもしれないけど、あたしも頑張るから」
「うん…ありがとう、佐倉さん」
「もう、会社出たんだからそのよそ行きの呼び方はやめて。いつも通り『千穂』って呼んでよ」
「うん…ありがとう、千穂」
佐倉さん――千穂は実はあたしの大学の同期。あたしが大学に通いながら社長業を勤めていた時からここで庶務のバイトをしてくれていて、その優秀さとあたしの息を分かってくれるその心を信頼して、卒業した時にあたしの秘書として正式に採用したのだ。その信頼どおり、会社では優秀な秘書として、そしてプライベートではかけがえのない親友としてあたし達は付き合っている。そんな千穂の思いやりに感謝しながらあたしは言葉を紡ぐ。
「じゃあどうする?『ノラ』に久し振りに行かない?おじ様もきっと千穂に会いたいと思うわ」
「でも…大丈夫?彰子。あそこばれちゃったんでしょ?ごたごたが始まったばっかりだしマスコミが張ってたらやばくない?マスターに連絡して決めよう?」
「そうね…連絡してみるわ」
あたしはおじ様に電話をかける数コール後『はい、『ノラ』です』というおじ様の声が聞こえてきた。
「おじ様?」
おじ様はあたしだと分かると、声を潜めて言葉を紡ぐ。
『…ああ、彰子ちゃんか。今はこっちに来ない方がいい…マスコミが相当来ている。客の振りをしているが、永年この商売やっていると分かるものでね…こっちのガードの根回しが終わって落ち着くまでしばらく…そうだな、最低二週間位は来ない方がいい』
「そう…ごめんなさい、おじ様にまで迷惑をかけてしまって」
『いいんだよ。商売柄こういう事には慣れているし、光太郎の代わりに彰子ちゃんの心配ができるのは嬉しいんだから』
「ありがとう…おじ様」
『いいんだよ。じゃあまたしばらく後に…ね』
そう言うとあたし達は電話を切った。会話の様子に千穂が心配そうに声を掛けてくる。
「やっぱり?」
「ええ、やっぱりだったわ。ごめんなさいね千穂、おじ様に会いたかったでしょう?」
「いいのよ、行きたければ自力で行くから。彰子の様子をマスターに伝えがてらね」
そう言って千穂は悪戯っぽくウィンクした。それを見てあたしは笑うと、提案する様に口を開く。
「じゃあ、少し寒いから、女二人で鍋ホームパーティーといきますか」
「そうね。だとしたらいつもみたいに秘書課とか総務の他の女の子とか文乃さん達とか、御館さんも一緒に連れてくれば良かったかしら」
「う〜ん、たまには千穂とゆっくり二人がいいわ」
「ありがと…じゃあ材料買って帰りますか」
そう言うとあたし達はお酒や鍋の材料を買って帰ると、お互いリラックスするためにパジャマに着替えて鍋を作り、お酒を飲みながら食べる。食事をしながら千穂は興味本位ではなく、あたしの小次郎さんに対する想いを知り、小次郎さんがあたしにふさわしいかを見極める様にあたしに小次郎さんの事を聞いてきた。あたしは言える事だけ言葉少なに、でも全て率直に話す。千穂は静かに聞いていて、そして『本当に、御館さんへの想いを乗り越えて…好きになれたんだね』とぽつりと言った。千穂はあたしの柊司さんへの想いも知っているし、千穂自身も彼が好きで…お互い振られた者同士だから、尚更複雑だろう。だからこそ千穂が出したその言葉に、ふとあたしは涙を零して『ええ…そうね』と呟いていた。それを見た千穂は慌てて『ごめん、彰子』と謝って楽しい話題へと変える。そうしてしばらく話していると不意にあたしの携帯が鳴った。このメロディーは――あたしが慌てて電話に出て『小次郎さん?』と呼ぶと、電話口から低くかすれた、愛おしい人の声が聞こえてきた。
『ああ、俺だ。……彰子…すまん。迷惑…掛かってるだろう?』
小次郎さんの想いが分かる心からの謝罪に、あたしは励ます様に言葉を返す。
「いいえ、大丈夫。私には弟も、秘書の佐倉さんも、柊司さんもその友人の弁護士もいて、皆がしっかり守ってくれているから。それより、小次郎さんこそあたしのせいであんな風に書かれて迷惑を掛けて…ごめんなさい」
『いや…俺も知らぬ存ぜぬで通してるから大丈夫だ』
小次郎さんから発せられた言葉で、あたしの存在が本当は迷惑なんじゃないかと思うと何だか寂しくなり、胸が痛む。あたしはふとそれを漏らしてしまう。
「…そう」
あたしの言葉に、小次郎さんは不思議そうに問いかけてきた。
『どうした?…やっぱり何か迷惑が…』
小次郎さんの言葉に、あたしは強くなっていく胸の痛みを堪えながら、静かに言葉を紡ぐ。
「そうじゃないの…小次郎さんは…私と噂になるのが迷惑なんだと思ったら…こんな事を考えるのは会社にとって良くないって分かってるけど…寂しくて…」
「彰子?」
千穂はあたしの様子がおかしいのに気付いて問い掛けるけれど、あたしは電話口にしか注意が行かない。小次郎さんの声を聞く事に全ての神経を集中して――そうしていると、小次郎さんはあたしにこう言葉を掛けてくれた。
『いや…迷惑じゃない。ただ…あんな形で出されたくないと思っただけだ。…この想いは俺にとって、人生を変えた位…大切なものだから』
その言葉と口調で小次郎さんの想いが充分伝わって、あたしは思わず涙ぐんでいた。小次郎さんも、報われない想いを本当に乗り越えてあたしを想ってくれた。それが嬉しくて――
「小次郎さん…」
「やだ彰子、どうしたの!あの男が何か酷い事でも!?」
千穂はあたしの様子に小次郎さんが何かあたしに酷い事を言ったと勘違いして、今にも電話口に怒鳴り込みそうな勢いで問い掛ける。あたしはそれを宥める様に言葉を重ねた。
「いいえ…違うわ、千穂…それから…ありがとう。小次郎さん」
本当にありがとう小次郎さん。今の言葉があれば、あたしは一人で立っていける――
『じゃあ…とりあえずはこれで。マスコミ攻撃はお互い切り抜けよう。そうして…オフに…会おう、絶対に』
別れの言葉が少し寂しく感じたけれど、小次郎さんがオフになったら会えると思えば、それも乗り越えられる気がした。あたしはそれを言葉に乗せる。
「ええ…そうね、小次郎さん。それじゃあ…その時に」
短い電話だったけれど、想いを交わすには充分だった。あたしは充実した気分で電話を切ると、千穂に向かって微笑んで言葉を紡いだ。
「さあ…マスコミや片岡常務になんて負けてられないわ。この危機を乗り越えて…更に飛び立ちましょ?」
「そう…そうね」
それからあたし達は楽しく飲んで話して時を過ごした。
…はい、という訳で後編です。彰子さんの周辺の事やアフターファイブがちょこっと明かされました。
彰子さんのお父さんが亡くなっている事は以前書きましたが、跡継ぎとして本当に育てられている事がここで判明。とはいえ光流君をないがしろにしている訳ではありません。実権はほぼ同格ですが、経験値が低い事を光流君が分かっているので自分はサブに回る事をちゃんと分かっている人なのですよ、光流君は。そして名前のつながりが何となく。彰子さんの一族は『彰』『光』をつけた名前を付けるのが慣例になっています。おじいさんは名前が出ていませんが裏設定で『彰彦』と決まってたり。でも最初彰子さんの名前を付けた時の元ネタはばらすと御館さんの名前が柊司だったのでその相方という事で『修二と彰』からネタもらったんですが(爆死)。
そしてアフターファイブの裏設定。『佐倉さんは大学の同期で親友』これは名前はギリギリまで決まらなかったのですが、バックグラウンドは最初から決めていた事でした。名字の佐倉は私達の劇団でやった芝居『いかず後家』の主人公、るい(ちなみにラストにお局様になります・笑)の名字から、名前は細川智恵子のある意味有名なマンガ『あこがれ』の主人公、春日千穂嬢からそれぞれもらいました。そうして彰子さんが何故一人暮らしなのに3LDKの部屋を借りて(いや…買ってるな、多分・笑)いるのか何となく分かったかと。彰子さんは職場の女子社員とも気さくに接してよく皆を泊まらせてるんですよ。ごくまれに文乃さんや美月ちゃんや、泊まりはしませんが御館さんも皆に付き合ったりしています。そうして社内情報を集める事と、社員との親睦を深める事も忘れない彰子さんとの小次郎兄さんの恋の行方はどっちへ行くのか…今度会った時に決まるでしょう。
次は小次郎兄さんサイドの話です。
[2012年 05月 27日改稿]