俺が『あいつ』の逗留しているホテルへ着くと、驚いた事に『あいつ』はロビーで俺を待ち構えていたかの様に、入ってくるなり俺に近づいてきた。そいつ――土井垣――は困った様な表情で俺に話しかけてくる。
「まさか…本当に来るとはな」
土井垣の言葉に俺は静かに応える。
「ああ…俺も新しい道を見つけたからな。お前と同じ様にちゃんと…『過去』は思い出にしちまいてぇんだよ」
「そうか。…とりあえず俺の部屋へ来い」
「本当に俺を部屋に入れていいのか?口ではこう言ってても、お前を襲うかもしれねぇぞ?」
わざとそう言った俺に、土井垣は穏やかな笑みを見せて応える。
「大丈夫だ。お前の眼を見れば…今言った事が嘘じゃないと分かる」
「土井垣…」
「それに…俺もお前に不思議と穏やかに向き合えている。だから…大丈夫なんだ」
「…そうか」
「じゃあ…来い」
そう言うと土井垣は俺を自分の部屋へ連れて行き、コーヒーを出すと窓際のソファに対面して座る。座った所で、俺は土井垣に言葉を掛ける。
「宮田と…籍入れたんだってな」
俺の言葉に土井垣は照れ臭そうに応える。
「ああ。日本一になって、アジアシリーズを制覇して、やっと葉月に向き合えた。回り道をして…あいつを傷つけて…別れを突き付けられて…俺はそれでもあいつを諦める事ができなかった。…そして…あいつもそんな俺を心のどこかで待ち続けてくれて…想いがやっと重なって、籍が入れられたんだ。…でも」
「でも?」
問い返す俺に、土井垣は照れくさそうな表情から沈痛な表情に変わり、言葉を続ける。
「お前を…どうしようもないところまで傷つけて捨ててしまった、という事も…事実だ。勝手に都合のいい時だけすがって…悦楽を得て、必要がなくなったら放り捨てて見向きもしない。…そんな俺が許せないなら、今殴られても…文句は言わない。ただ…俺は二度とお前には抱かれない。それは許してくれ…」
「…」
沈痛な表情で言葉を紡いだ土井垣を俺は見つめていたが、やがてテーブル越しに顔を近づけ、唇をそっと合わせる。驚いて顔を離した土井垣に、俺はこいつが俺に別れの言葉を言った時に見せた様な穏やかな微笑みを見せて言葉を紡ぐ。
「俺も、お前に倣ったんだ。…確かに俺は別れた最初、闇の中に取り残したお前を恨んだ。でも、そのおかげでその闇から抜け出すための光を見つけることができた。だから…俺も、感謝と、愛人関係としてはさよならのキスだ。これからは親友として、そして何より宿命のライバルとして…やっていこう」
「小次郎…」
驚く土井垣に俺は更に柔らかな笑みを返す。土井垣は一旦小さなため息をついたが、すぐにふわりと笑って言葉を返す。
「本当に…そうしていってくれるか?」
「ああ。肉体関係はもう俺達にはいらない。これからの俺達が欲しいもんは闘争心と…友情だ」
「そうか?」
「…そうだ」
「…そうだな」
そうしてしばらく穏やかな沈黙が訪れる。しばらくの沈黙の後、俺は土井垣に問いかける。
「なぁ…籍入れたって以外、俺は入院以来宮田の情報得てねぇんだが、あいつ大丈夫なのか?」
「ああ。御館さんから毎日来ているメールからすると、大分回復して、子ども達も順調みたいだ。無理はできないが疲れない範囲で本を読んだり、音楽を聴いたり、気を利かせた御館さんや御館さんの会社の社員や彼女が入っている合唱団の皆が病棟に慰問に来て患者達を楽しませてくれたり、そもそも病院自体があいつの働いている所の系列団体だからと本人もできる範囲で『子育ての予行練習をさせて下さい』との名目で、小児病棟の子ども達に本を読み聞かせたり一緒に歌って遊んだりしているから、病院から困り半分だが感謝もされているらしい」
「…宮田らしいな」
「そうだな」
俺達は笑うと土井垣は冷めたコーヒーを一口飲み、ふと問いかけてくる。
「それで、お前が言っている『光』とは…スクープされた女性の事か?」
土井垣のさりげない口調だが真っ直ぐな問いに、俺は静かに頷く。
「…ああ。でも、あそこに書いてある内容は半分以上でたらめだ。俺達はまだ、想いを確かめあっただけで…あそこに書かれた様な不道徳な関係でも…以前の俺達みたいなただれた関係でもない。でもな」
「でも?」
「俺は…この恋である意味破滅してもかまわねぇとも思ってる。それ位、彼女の存在は俺にとって大切なんだ。お前みたいに毅然とした強さを持っていて…しなやかで…でもふっと脆くなるところがあるから、必死に全てと戦っている彼女を、俺は守って…いいや、戦う場所は別だとしても、一緒に心の中の戦いって意味で…戦ってやりたいんだ」
「小次郎…」
「お前との関係に堕ち込んでいた時、お前以外でこんな風に思える存在ができるとは内心思ってなかった。でも彼女と初めて会った時、その想いは不思議と消えて…この出会いは俺の人生すべてを変える位、大切な出会いだって…どこかで感じ取っていた。そうしてもう一度出会ったあのスクープされた場で、俺が本当の意味で共に生きていくのは彼女だって…俺は、心から感じたんだ…」
「…そうか」
「…ああ」
俺も冷めたコーヒーを口にする。土井垣はしばらくじっと俺の眼を見つめていたが、やがて穏やかに、しかし少し寂しげに微笑み、言葉を紡ぐ。
「お前の眼は…本当に真っ直ぐだな。俺を蹂躙していた時も、今も…俺は…そんなお前や守が羨ましい。迷って、強いものにすがって…でもぬくもりも欲しがる俺にはない眼だ」
「そうか?」
「…え?」
俺は過去に嫉妬として、今は目標としてこいつにずっと持っていた感情を言葉に出した。
「お前が…宮田を見つめている時の眼は…真っ直ぐな強さと温かさに満ちてる。俺との関係に堕ち込んでいても、それが変わる事は絶対なかった。それが俺の宮田に対する嫉妬心を煽っていたが…今なら分かる。慈しみたい相手には、何があっても温かで真っ直ぐな目になるんだって…お前と…御館に教えられた。だから…お前はもう大丈夫だ。こうやって過去と決別できて、宮田を選んだお前なら」
「小次郎…」
「そうだ。御館に俺より先に会ったら伝えてくれ。『彼女を追い詰めてすまなかった。でもこの後の俺は彼女を絶対守る』…ってな」
「小次郎、それは…?」
「御館に言えば…分かる」
「…?」
怪訝そうな表情を見せる土井垣に、俺はまたふわりと穏やかな笑みを見せる。こんな風にこいつと穏やかに話せる自分が不思議で、でも嬉しかった。もう俺は大丈夫だ。これで俺は彰子と向き合う事が出来る――俺は冷めたコーヒーを飲み干すとソファから立ち上がり、右手を差し出して口を開く。
「これからも…よろしく。土井垣」
土井垣も立ち上がると爽やかな笑みで俺の手を握り返す。
「ああ、よろしくな。それから…頑張れよ」
「お前もな…『パパ』」
「!」
赤面して絶句した土井垣に俺はもう一度笑いかけると、『じゃあな』と手をあげて部屋を出て行き、ラウンジで一杯だけ、ブランデーの水割りを飲んだ。彼女と出会わせて結び付けてくれたこの酒を過去と決別した場所で味わいながら、俺は彼女への想いを貫く決意を固めた。
…はい、という訳で小次郎兄さんと土井垣さん、完全に愛人関係としては決別しました。
今のところ土井垣さんはラストまでフェードアウトする予定ですが、もしかすると小次郎兄さんのアドバイザーとして御舘さんと共に登場するかもしれません。彼に関してはこのシリーズでは葉月ちゃんとの確固たる関係以外は本当に未知数なんですよ。結構使い勝手はいいキャラではあるんですが。そんな彼をタロットの大アルカナで調べてみたら戦車の影世界である月(安らぎという意味がある)が何となく二人の関係性という意味で合っていたので今回のタイトルに。土井垣さんとはただれた関係だったとしても小次郎兄さんのある種安らぎだったんですよ。そんな安らぎから抜け出して彰子さんとの恋に入っていく訳です。
そのキーワードアイテムとなっているのがブランデーの水割りになってますな…最初はそんなつもりなかったんですが。酒と涙と男と女(笑)、そんな二人の行方はどうなるか…暇な方は楽しみにして下さい。
[2012年 05月 27日改稿]