そうして安静にして入院暮らしを更に1週間、俺は翌退院する事になった。幸運にもチームは遠征でまた東京に来ていたので監督に連絡し、退院してすぐ合流する事になる。朝霞医師は以前より冷たい雰囲気を心なしか少し和らげた、しかしやはり冷静な口調でしばらくの生活についての注意をした後『じゃあ、何か質問は』と問い返してきた。俺は彼女の告白を聞いてからずっと考え、そして行き着いた『答え』を口にする。
「…こんな事は許してもらえないかもしれませんが…お願いを一つしていいですか」
「内容にもよるけど…何?」
「退院したらすぐ宮田さんに…会わせて下さい。俺は、彼女に謝罪しなければいけません…いえ、謝罪したいんです。土井垣さんとの事を」
 朝霞医師は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに冷静な態度に戻り、俺の言葉に応える。
「そうは言っても…あなたと会わせて、はーちゃんをこれ以上あたしは傷付けたくない。そうじゃなくても…はーちゃんは絶対安静がまだ解けていないわ。疲れると母体に良くないって面会もあまりできないの。だから医師としても、個人としてもそのお願いを叶えるのは難しい」
「でも、俺は彼女に謝罪しなければいけないって…そう思いました。そこには真理子ちゃんと向き合える男になりたいというのもありますが…ずっと…俺は謝りたかったんだって気付いたんです。俺は彼女の事も恋愛と言う意味ではなく、人間的に好きなんだって気付いたんです。だからたとえ土井垣さんを想っていたとしても、彼女を傷つけるつもりはなかったんです。…それにあなただから告白しますが、彼女は土井垣さんと別れていた時…俺が土井垣さんと幸せになるようにって励ましてくれたんです。…きっと彼女は自分でそう言って傷ついていただろうに…そんな優しい彼女を傷つけ続けた事を…心から謝りたいんです」
「…」
 朝霞医師は俺の言葉にしばらく考え込んでいたが、やがて小さく溜息をつくと呟く様に口を開いた。
「…決意は固いようね」
「…はい」
 朝霞医師はもう一度溜息をつくと静かに応じた。
「…分かったわ、会わせてあげる。ただしあたしも同行するわ。それから約束して。絶対にはーちゃんを興奮させないでね」
「分かっています。彼女の子どもが無事に生まれる事を…俺も望んでいますから」
「…そう」
「はい」
「とはいえこれは特例よ。土井垣さんだってまだ会ってないんだから」
「土井垣さんも?」
「ええ。『はーちゃんとも子どもともちゃんと向き合える男になるまでは会うのを我慢する』…って言ってるらしいわ。早くそうなって欲しいけど、いつになる事やら…」
「そう…ですか」
「…さてと、話し過ぎたわね。とりあえず、明日はあたし丁度当直明けだからその後に行きましょう。でも当直明けはお昼だから、お昼まで病院で待っててくれる?」
「あ、はい。分かりました」
「そうそう、ここの食堂の料理はおいしくてバランスも取れてるって評判なのよ。患者さんじゃない一般の人まで食べに来る位。病院出て行く前に食べて行くといいわ。それでちゃんと力を溜めて…はーちゃんに会いに行きましょう」
「…はい」
 朝霞医師は『じゃあ、とりあえずは退院前にまた体調崩さない様に寝てなさい』と言って去って行った。『人間としては許さない』と言っていたのに俺の事も気遣ってくれる朝霞医師の心遣いに俺は素直に感謝すると、明日の事を考え、眠りに就いた。

 そして翌朝。朝食後俺は荷物をまとめると、外来にかかる。当直明けでも元気のいい朝霞医師は、『とりあえずは大丈夫とはいえ、しばらくは通院して欲しいんだけど。これからの試合日程は?』と尋ねる。俺がしばらくは首都圏を回ると言うと、『じゃあ、ここに来る様にして。で、松山に帰ってからも通院が必要なら紹介状を書くから、呼吸器科にかかる事。いい医者が分からないならこっちで教えてもいいから』と言って診察を終らせると、おもむろに改まった口調で口を開く。
「じゃあ…決行よ。お昼食べ終わった後病院の受付にいてくれる?」
「…はい、分かりました」
「お願いね。じゃあ診察終了、退院手続きお願いね」
「はい」
 俺は言われた通り退院手続きを取ると、朝霞医師に勧められた様に病院内の食堂で昼食をとる。俺が頼んだのは定食ものだったが、確かに素人目に見てもバランスの取れた献立で、一口口にしただけでそのおいしさが良く分かる。入院していた時も食事がおいしい事は気付いていたが、健康な身体で食べると更にそのおいしさが分かり、俺は何となく心が弾む。とはいえこれからの事もあるのでその事を考え気分を落ち着かせると、病院受付に行き朝霞医師を待った。しばらくすると、ロングタイトのスーツを着たショートボブの女性が俺に近付いてくる。朝霞医師だとしばらく見てやっと気付いた。白衣姿を見慣れてしまったので私服姿に気付かなかった自分の鈍さに呆れて苦笑していると、朝霞医師もその事に気付いたのか、ふっと苦笑すると俺に問い掛ける。
「似合わないかしら?」
「いえ…似合い過ぎていたんで気付きませんでした。モデルでも充分通りますよ」
「お上手ね。…まあ冗談はここまでにして…行きますか」
「はい」
 そう言うと朝霞医師は地下鉄を何度か乗り換えてB区のH駅まで俺を連れて行き、そこから5分ほど歩いた中規模の病院に俺を連れて行く。丁度面会時間で俺と朝霞医師は産婦人科病棟に足を運ぶ。何人かの看護師が俺に気付いて何やら話をしていたが、俺は気にならなかった。俺達は面会者名簿に名前を書くと、病室に朝霞医師が案内する。病室に行くと宮田さんは横になって天井を見上げていた。俺達が入って来るのに気付くと『誰?』と首を俺達の方に向け、驚いた表情を見せると、呟く様に問い掛けた。
「不知火さん…どうして…?」
 俺が答える代わりに、朝霞医師が彼女に答える。
「どうしても話したいって言うから…連れてきたわ。どうする?はーちゃん、話…聞く?」
 宮田さんは迷う様な素振りをしばらく見せていたが、やがてふっと寂しそうに微笑み『…ええ、聞くわ』と答える。その答えを聞いて、俺は朝霞医師に言葉を掛ける。
「しばらく…二人にしてもらえませんか。二人で話したいんです」
「…そう…はーちゃんは?それでいい?」
「…いいわ」
「じゃああたしはちょっと出てるわ。不知火君、念押すけど、はーちゃんを興奮させる事だけはしないでね」
「はい…分かっています」
 そう言って朝霞医師は病室を出て行くと同時にドアを閉める。話が漏れないようにとの配慮だろう。その気遣いに俺は感謝しながら、宮田さんにゆっくりと話しかけていく。
「具合は…大丈夫なのか」
「ええ…まだ油断はできないけど、峠は越してます。…ところで不知火さんはどうしてここに?」
 宮田さんの問い掛けに、俺は罪悪感が増してきて、思わず彼女に向かって土下座していた。
「すまん…宮田さん…俺が今までしてきた仕打ちは許してもらえないって分かってる。でも…自己満足だったとしても…せめて一言謝りたかったんだ。俺は…君の事も人間的に好きだから、本当は…心の奥底では傷つけるつもりはなかったんだ。…それだけは知っていてくれ」
「…」
 宮田さんが土下座する俺を驚いて見詰めている視線を感じる。そうしてしばらく気まずい沈黙が続いた後、宮田さんは静かに俺に声を掛けた。
「頭を上げて…立って下さい」
「宮田さん…?」
 俺が驚いて顔を上げると、宮田さんはいつもの聖母の微笑みを俺に向けてくれていた。宮田さんは更に続ける。
「さあ…立って下さい。…もういいんです」
「もういい…?」
「将さんは私の所へ戻ってきてくれました。だから…いいんです。それよりあなたに譲る様な事を言っておきながら、結局将さんを手放せなかった私こそ謝らなければいけません。ごめんなさい…将さんをあなたにあげられなくて…」
 そう言って寂しげに微笑む宮田さんを励ます様に俺は彼女の手を取り、言葉を返す。
「俺ももういいんだ。俺の土井垣さんに対する想いは…決着が着いた。いや…最初から分かっていたんだ。土井垣さんが宮田さんしか見えていなくて、俺の想いは届かないって事位。…でも、俺は届かないって分かっていても、一度堕ちなければいけなかったんだ。…本当の恋を知るために、土井垣さんとの行き場のない想いに」
「どういう事…?」
 訳が分からず問い返す宮田さんに、俺はふわりと微笑んで言葉を返した。
「俺は…見つけたんだ。土井垣さん以上に失いたくない存在を」
「不知火さん…」
 宮田さんは驚いた表情を俺に見せる。俺はふわりと笑ったまま言葉を重ねる。
「調子がいいって笑うか?…でも本当なんだ。俺はやっと見つけたんだ。俺が本当に満たされる存在を…ただ」
「ただ?」
「それは…土井垣さんとの恋と違った意味で…禁じられた想いなんだ。俺は…こんな恋しかできないらしい」
「…」
 そう言って柔らかい微笑みを自嘲気味な笑みに変えた俺を宮田さんはしばらく見詰めていたが、やがて俺の取っていた手を握り返し、問い掛ける。
「でも…その人への想いは、今度こそ本物で…絶対あきらめたくないって、言えるんでしょう?」
「…ああ」
「なら、許されない想いでも不知火さんには必要なものなのよ、きっと。だから…後悔しない様に、信じる道を突き進んで。私も…微力ながら応援するから」
「…ありがとう。あんなにあなたを傷つけた俺なのに…応援してくれて」
「いいの。私は確かに傷ついたけど、それ以上の…充分すぎる位の幸せを今もらっているわ。だから、もう今までの事はなかった事にしましょう?それで、前の様に仲のいい友人としてやっていきましょう?…ね?」
「宮田さん…」
 宮田さんはまた聖母の様な微笑みを見せる。彼女は元々芯の強いところがあったが、こうして話していくと、母になって更に強くなった気がした。母親とはここまで強くなれるものなのか――俺は改めて彼女の強さと優しさを感じて、その暖かさが胸に染み透って思わず涙が零れた。泣いている俺の頭を宮田さんは優しく撫でると、取っていた手を自分の腹部に当て、励ます様にまた声を掛ける。
「まだ私にも動いているのは分からないけど…きっと今の話を聞いた赤ちゃん達も応援してるわ。…ね?赤ちゃん…二人とも頑張れって言いたいわよね?…だから…泣かないで、不知火さん」
「赤ちゃん『達』…?『二人とも』…?」
 彼女の励ます言葉が嬉しく思いつつも不思議に思って問いかけると、宮田さんはふわりと微笑んで答える。
「ああ、あの時言わなかったかしら、双子なの」
「そうか…おめでとう。やっと素直に…この言葉が言える」
「ありがとう…不知火さんも頑張って…今度こそ想いを貫き通して。さっき言った通り私も微力だけど…応援するから」
「…ああ」
 俺は手を離すと涙を拭って立ち上がり、精一杯の笑顔を見せて決意の言葉を発する。
「ありがとう。…これで俺も覚悟ができた。この想いを貫き通す」
「そう…良かった。でも…少し悔しい…かな?将さんが捨てられる結果になって」
「その分宮田さんがいるからいいじゃないか」
「そうね」
 そう言うと俺達は笑った。こんな風に彼女とまた笑いあえる日が来るとは思っていなかった。どんなに自分を傷つけた存在でも許せる彼女は、本当に聖母マリアみたいだ。そんな彼女には絶対敵わないんだなと今更ながら少し胸が痛んだけれど、それは思い出に対するほんの少し残った感傷の様なもので、今俺が言った事は全て本心だった。俺は、今度こそこの想いを貫き通す。たとえそれが許されない事だったとしても――そうしてその後は彼女の願いで朝霞医師も呼んで更に俺の恋の話を続けた。宮田さんはその話に驚いた様子を見せる。
「じゃあ…真理ちゃんがその許されない相手なの?」
「ええ。そうよね不知火君」
「ああ。でも…宮田さんも知っているのか?真理子ちゃんの事を」
「知っているも何も、サークル関係で知り合って進路迷ってた真理ちゃんにこの職場勧めたの私ですから」
「そうだったのか…」
「真理ちゃんは同じ大学の人の間でも有名な位才能のあった作業療法士ですからね。真理ちゃん自身は資格を取らないで一般企業に勤めようかとも思ってたらしいですけど、その腕を失うのは惜しくて、学費援助もあるからってヒナと一緒に国家資格を取る様に説得して、取った所であの病院に入ってもらったんです。真理ちゃんも色々言っていましたけど、内心はリハの道を進みたい気持ちが強かったみたいですから。…きっと今の話を聞いていると…不知火さんの事を、相反する感情でも、無意識に想っていたのかもしれませんね」
「宮田さん…」
「だから、想いを貫く価値はあると思います。想いを貫き通して、真理ちゃんと…幸せになって下さい」
「はーちゃん…」
「宮田さん…」
 驚いている俺と朝霞医師に宮田さんはにっこりと微笑みかける。朝霞医師は額を押さえていたが、やがてふっと顔を上げるとにっこり俺に笑いかけながら言葉を重ねる。
「全く…はーちゃんには敵わないわね。不知火君、はーちゃんの気持ちを無駄にしないためにも困難全部乗り越えて、この恋を成就させる覚悟はできる?」
 朝霞医師の問いに、俺は決意を込めた目で二人を見詰め、答えた。
「ああ。絶対に成就させる。そして…真理子ちゃんを幸せにするって誓う」
「…そう」
「不知火さん」
 二人は俺の言葉に明るく微笑むと、口々に言葉を掛ける。
「そこまで決意ができてるなら信用してもいいわね。あたしも応援するわ」
「ドナー家族とレシピエントの恋…か。こんな事…医療従事者としては失格なのかもしれないですけど、不知火さんの気持ちは良く分かりましたから、応援しますよ」
「…ありがとう」
 それから俺達は宮田さんが疲れない程度に長い間話し、爽やかな気分で病院を出ると俺はチームに合流した。

 …はい、という訳で不知火と葉月ちゃんの和解話でした。葉月ちゃんは土井垣さんが不知火と関係を持つ前から友人として親しくしていたという裏設定…でもないなぁ…想いの迷路シリーズでちょっとふれてますから…なので、ああいう会話になった…と。どこまでも底抜けに優しい葉月ちゃんには不知火も敵わないし、彼女の優しさに無意識に癒されている面もずっとあったんです。だから傷付けるつもりは本当はなかったけれど、土井垣さんに惹かれるのは止められなかった…と。でもこうして謝罪して和解した事で新たな友情が芽生えたと思っています。そしてそうした二人を見て弥生ちゃんも不知火を許す…と。駄文くさいんですが、直せなかったのでこのまま掲載。
 ここから不知火の反撃が始まります(笑)。真理子ちゃんにこれからどうやって関わっていくのか…そして恋として二人は結ばれるのか…それが続きです。まだ続き書けてませんがお暇な方は待ってみて下さい(ぺこり)。

[2012年 05月 27日改稿]