あたしはあの夜が明けてから、不知火さんの事を忘れる様に仕事に没頭した。でも心のどこかで不知火さんが今どんな状態なのか知りたくて、看護師さん達の噂話に無意識にそっと耳を傾けている自分も感じていた。どうやら不知火さんは順調に回復しているみたいだ。それに担当医が腕のいい弥生先生なら、きっとすぐに良くなる。そんな安心感を持ちつつも、直接励ませない自分が哀しかった。矢野さんや山崎さんはそんなあたしに何かを感じている様だったけれど、何も聞かずに見守っていてくれた。その事が有難くて、でも自分の想いを思い切って断ち切る勇気もない自分が情けなくて、あたしは仕事に更に入れ込んでいった。そんな風に日々を過ごして行き、ある日不知火さんは明日退院するという話を聞いた。これであたし達の縁は切れる。永遠に――分かっていた事だけれど、それは胸が張り裂けそうな位辛い思いがした。でもそんな事おくびにも出してはいけない。あたしはいつも通り仕事をこなして過ごし、夜は一晩中泣き続けた――

 そして不知火さんの退院日、あたしは朝から何だかめまいがする感覚に襲われていた。熱を測っても微熱程度なので、あたしは頑張って仕事をこなす。そうして全員の仕事を無難にこなし、申し送りをしている途中で、ぐるんという世界が回る感じがした。必死に体勢を整えようとするけれど、身体が付いていかない。あたしはいつの間にか気が遠くなっていた――

 目を開けると、山崎さんと弥生先生が心配そうにあたしを見詰めていた。
「あの…私…」
 自分がどうなっていたのか分からずに問いかけながら起き上がろうとするあたしを、山崎さんが心配そうにさっと止めながら声を掛ける。
「大久保さん、寝てなさい。あなた無理して倒れて、一晩中眠っていたのよ」
「そう…なんですか…」
「診断としては過労。あなた一人暮らしでしょう?とりあえず2〜3日入院して体調整えなさい」
「はい…すいません山崎さん、仕事に穴を空けてしまって」
 あたしの言葉に、山崎さんは小さく溜息をつくと、宥める様に言葉を返す。
「いいのよ。それより今回みたいな無茶な働き方はやめなさい。何かを忘れたいんでしょうけど、だからって身体をいじめるのは良くないわ」
「はい…申し訳ありません」
「それからその『何か』…話してもらう事を待とうとも思ったけど、こうなったら話は別よ。…ねえ、私に話してもらえないかしら?」
 あたしは迷った。山崎さんに話せば、きっと何かいい知恵を授けてくれるだろう。でもあたしは真っ直ぐに彼を想いたかった。ただ、彼の幸せだけを願って――それがあたしの願い。だから、あたしはあえて黙っている事にした。あたしはそれを正直に話す。
「申し訳ありません。これは…言えません。山崎さんのお心遣いは嬉しいんですが…言えないんです」
 そう言いながらあたしの目には涙が零れていた。それを見た山崎さんはふっと小さく溜息をつくと、静かに言葉を重ねる。
「どうやら、相当決意は固い様ね…分かったわ。あえて今は聞かない。でも…いつか…話せると思った時には話しなさい…力になるわ」
「…はい」
 涙を零したままのあたしの涙を山崎さんは拭うと、『じゃあ、あたしは仕事に戻るわ』と言って病室を出て行った。そして弥生先生とあたしが残る。久し振りの弥生先生と二人の時間で、あたしは聞こうと思っていた事を尋ねる。それは、共通の友人である葉月さんの事。弥生先生とあたしは、お互いが学生時代の頃から、共通の知り合いのやはり看護学生だった葉月さんを通して交流があり、仲がいい。その葉月さんも具合を悪くして入院していると聞いていたので、あたしは何か知っているかも、と弥生先生に問い掛ける。
「弥生先生、ずっと聞きたかったんですけど…葉月さんは…大丈夫なんですか?」
 あたしの言葉に弥生先生は呆れた様に、でもあたしを安心させる様に笑うと、静かに言葉を返す。
「まったく、自分の体調が悪い時に他人の心配?…まあいいか。はーちゃんなら一時期は危なかったけど、今は峠を越してる…でもお腹の子どもが落ち着くまで、ちょっとまだ油断はできないけどね」
「そうですか…」
「でもね。そのはーちゃんも真理ちゃんを心配していたわ。真理ちゃんが『禁じられた想い』に迷ってるって知ってね」
「弥生さん、それは…?」
 驚くあたしに、弥生先生は静かに言葉を紡いでいく。
「不知火君との恋の事は、あたしもはーちゃんも不知火君本人から聞いて知ってる。はーちゃんは不知火君とも親しかったしね…それに、その恋が困難な理由も…教えてもらったわ」
「弥生先生…」
 あたしは言葉をしばし失う。しばらくの気まずい沈黙の後に、弥生先生は静かに呟いた。
「でも…あたしも、はーちゃんも…あなたの味方よ。それに絶対…山崎さんも味方になってくれる。…だから…想いが残っているのなら、諦めないでぶつけなさい。それが…いいわ。ちょっとだけ勧めたくない気持ちも…あるけどね」
「弥生先生、それってどういう…?」
「その辺は本人から聞きなさい。だから…これをあげる」
 そう言うと弥生先生は一枚のメモ用紙を渡す。そこには携帯番号とメルアドが書いてあり、そこに書いてあった名前は――
「弥生先生、これ…!」
 驚くあたしとは裏腹に、弥生先生は冷静な口調で応える。
「見ての通り、不知火君の携帯番号とメアド。ちなみに真理ちゃんのは教えてないわ。だから…これからどうするのかは、一切合切真理ちゃん次第。諦めるのも…行動するのも…あなた次第よ」
「…はい」
 弥生先生の思いを受け取ってあたしは頷く。弥生先生はそれを見て微笑むと、『健闘を祈ってるわ』と言い残して病室から出て行った。これを破り捨てて縁を完全に切るのも、電話を掛けて想いを伝えるのも、あたし次第。どうしようかとめまいがする頭で、あたしは長い間考えていた――

 チームに戻ってブルペンに入ると試合勘はたちまち取り戻す事ができ、俺はすぐにローテーションに組み込まれる。そうして試合をこなしていきながらも、俺は心のどこかに真理子ちゃんの影を持つ様になっていた。あの宮田さん達と長い間話した時間の別れ際、朝霞医師は俺の連絡先を聞いてメモし『これは真理ちゃんにあげる。でも真理ちゃんの連絡先は悪いけど教えない。事情が事情だし、悪いけどあなたとこれからどうしていくかの決定権は真理ちゃんだけにあげたいの』と言って持って帰っていった。その後彼女からの連絡はない。やはり俺との関わりを断ち切るつもりなのだろうか――そんな落胆を覚えながらもクライマックスシリーズ第一ステージを勝ち進み、第二ステージに進む事が決まった試合後、不意にあの日から試合後すぐに電源を入れる様になっていた携帯が鳴った。見ると登録もされていない見慣れない番号。でも、もしかして――はやる心のままに電話に出ると、忘れもしないあの声が聞こえてきた。
『あの…不知火さんの携帯でよろしいんですよね』
 俺は高鳴る鼓動を抑えつつ、応える。
「…はい。…もしかして…真理子ちゃん?」
 電話口の『真理子ちゃん』は一瞬驚いたように息を呑み、小さく溜息をついたような息遣いが聞こえた後、小さな声で応える。
『…はい。真理子です』
「掛けてきて…くれたんだ」
『はい…具合が悪くて寝込んでたのと、掛けようか迷っていたので、遅くなってしまったんです』
「そうか…具合は大丈夫か」
『はい…ちょっと疲れが溜まっただけですから。ゆっくり休ませてもらったら全快しました』
「そうか…良かった」
『ありがとうございます…それで、寝込んでいる時にずっと考えていたんです。このまま縁を切ってしまおうか、どうしようか…でも』
「でも?」
『もう一度だけでいいから…不知火さんの声が聞きたかったんです。だから…掛けてしまいました』
「…」
 俺は彼女の想いが伝わる言葉に、嬉しさのあまり涙が零れそうになる。しかしそうとは悟らせない様に、努めて冷静な口調で、自分の想いを言葉にしていく。
「もう一度だけなんて…言わないでくれ。電話だけじゃない…会って…もっと…話そう。会えなかった時の事を…それに、聞いてくれ…俺の…今の想いを」
『…』
 俺の言葉で電話口の真理子ちゃんが言葉に詰まったのが分かる。この反応はどちらなのだろうか、彼女も同じ思いでいてくれるのか、それともやはりこれを最後に縁を切るつもりなのか――俺はその心を探りたいと思いつつも、どこか言い聞かせる様に言葉を重ねる。
「第二ステージは東京なんだ。だから…会ってくれるな」
『…』
 しばらくの沈黙の後、小さく頷く様な声が聞こえた。
『…はい』
 俺は喜びのままに、しかし優しく包み込む様に言葉を更に重ねる。
「じゃあ、また詳しい事は電話するから…この番号は登録していいかな。後メアドも登録したいから、後で何か簡単なメールも送ってくれないかな」
『…はい』
「ありがとう。でも今日はもう遅いから…お休み。真理子ちゃんもまた具合が悪くなるといけない」
『はい…おやすみなさい、不知火さんも身体に充分気をつけてくださいね』
 俺は電話を切ると、嬉しさで歓声を上げたくなった。彼女は俺を切り捨てないでくれた。だとしたら俺が出来る事は唯一つ。彼女に見合うだけの男として向き合う事。そのためにも勝ち抜いて、勝利を手土産に彼女に会おう――そう思いながら俺は夜空を見上げた。

 …はい、またまた間が空きましたが、お久し振りの『心の旅人シリーズ』です。今回当初は不知火メインで話を進めようと練っていたのですが、むしろ真理子ちゃんの想いの方が大きくなっていたので路線変更、真理子ちゃんメインで、不知火は脇に(爆笑)。
 動けない葉月ちゃんの代わりに山崎さんや弥生ちゃんが動いてくれています。今後真理子ちゃんが山崎さんにこの恋の事を話すかはまだ決めてないんですが、山崎さんにばれはします。でもまずは不知火と会わせる事から二人の恋は始まるんですけど。
 やっと不知火編もスタートラインって感じですな。何話使ってスタートに持ってったんだか…(苦笑)。

[2012年 05月 27日改稿]