「やあ、京君」
京が庵のマンションに帰ってくると部屋の前に見覚えのある姿があった。スーツ姿のその男性はこの部屋の主によく似ているが、部屋の主とは違い黒髪で人当たりの良い雰囲気を漂わせている。
「あれ?樹さんじゃないですか」
彼の名前は八神樹。この部屋の主――八神庵の従兄弟である。
「どうしたんですか?こんな時間に」
「ああ、外回りで近くを通ったんでね。京君こそどうしたんだい?まだ授業中だろう?」
「えっ?…あの、ええと…」
都合の悪い事を聞かれて答えにつまる京に樹は笑って続ける。
「どうせ授業がつまらないんでさぼってるんだろう?」
「はあ…」
「気持ちは分からなくもないけど程々にしておきなさい。そろそろちゃんと卒業しないと柴舟殿や草薙医師だって困ってしまうよ」
「はい…」
いつもは強気の草薙京もこの人にはかなわない。それどころか他人には恐れられているあの庵でさえ、この人にとっては小さな弟の様な扱いなのである。実際庵自身も樹のことは一目置いているらしく、彼は他人の言う事にはほとんど耳を貸さない庵が言う事を聞く、数少ない人間の一人である。
「ところで庵はどうしたのかな、実家に行く日でもないからてっきりここにいるんだとばかり思っていたんだが」
「ああ、庵ならライブが近いって言ってたから多分練習じゃないですか。…あ、立ち話も悪いですからどうぞ。コーヒーを飲むくらいの時間なら大丈夫ですよね」
「じゃあ、お言葉に甘えて、上がらせてもらおうかな」
「そうですか。それじゃ、どうぞ」
そう言うと京は合鍵でドアを開け、樹を中へ招いた。樹は京に促されて部屋へ入りリビングのソファに腰掛けた。京はコーヒーを手早くいれると樹にすすめて自分も樹の前のソファに腰掛ける。
「インスタントで悪いんですけど。俺、庵みたいに料理ができないから…」
「その気持ちだけで充分だよ。ありがとう」
そう言うと樹は笑ってコーヒーを一口飲んだ。京が樹をしげしげと見ながら口を開く。
「髪…痛んでますね」
「ああ、キング・オブ・ファイターズの度に染めてるからね。仕方がないよ。『庵』になるのも大変さ」
樹が笑いながら答える。
「キング・オブ・ファイターズ…か。もうそんな時期だなぁ…今年も出るんですか?」
「一応、招待状は届いてるんだけどね。そろそろ紅やもっと若い連中にまかせたいな。みんなそれぞれ実力を上げてきているし…それにこの大会、毎回とんでもないことが起こるだろう?麻由が嫌がるんだよ。『何かあったらどうするんだ』ってね。実際去年は大変だったし」
そう言うと樹は表情を曇らせ、ふと天井をあおぐ。京は今までにキング・オブ・ファイターズやその周辺で起こった数々のことを思い返した。草薙と八神、ルガール、そしてオロチ…。京自身去年は大怪我をしており、チームメイトとなった樹にもかなり迷惑をかけている。そして、樹自身も妹がオロチの犠牲となり亡くなっているのだ。
「まあ、私たちの一族に関係する事らしいから私も何とかしなければいけないとは思っているし、それはいいんだけどね。八咫の人達の考えにはついていけないけれど」
「そうですか…あっそうだ。麻由さんていえば、麻由さんや千代子ちゃんは元気ですか
樹に辛い思い出を思い出させないように京は話題を変える。
「ああ。二人とも元気だよ。そうだ、千代子が君達に会いたがっていたからそのうちにみんなで遊びに来てくれないか」
「そうですね。じゃ、そのうちに遊びに行きます」
「そうしてもらえると嬉しいよ」
樹は微笑んで話を続ける。
「で、話を戻してしまうけど理由はもう一つ。私は営業だから、取引先とのことがあるんだ。毎年何とか有休を取ったり海外出張を合わせたりしてるけど、仕事に差支えないとも限らないし」
樹の言葉に京はうなずいた。
「それはそうかも…。でも大変みたいですね、製薬会社のMRも。元々薬剤師の資格があるんだから研究の方に回っちゃえばいいじゃないですか」
京の言葉に樹は首を降る。
「私にはMRの方が合ってるよ。それに『現場でもまれて経営を知れ』っていうのがうちの社長、つまり母の持論でね」
「そっか…いつかは会社を継がなきゃいけないんですよね。でも、よく考えると本当なら今頃は薫叔父さんが社長で、会社は庵が継ぐ位置にあったんですよね」
京の言葉に樹は意外そうな顔をする。
「ああ、知ってたのか。でも、叔父さんは桐子叔母さん…君にとっても叔母さんにあたるね…と駆け落ち同然で結婚しちゃって別の仕事を始めちゃったからね」
「そうそう。一族の間ですごい騒ぎだったんでしょ」
「ああ、でもそう仕向けたのは本家自身だったんだよ」
「えっ!?そうだったんですか?」
自分の出した話の意外な事実に驚く京。樹は続けた。
「何しろ本家はともかく一族の他の者はまだ緊張関係があるしね。あの場合祖父達もああするしかなかったんだよ。だから、駆け落ちとは言っても裏で連絡は取っていたらしいね」
「はあ…」
「私はまだ小さかったからその時は良く分からなかったけど、後で母から聞いた時、なるほどと思ったよ。でなければ実質行方不明の叔父さんが当主になることもなかったし、何よりあんな簡単に庵たちが本家に戻って来ることもなかっただろ?」
「確かに…」
「で、まあ事業の方はうちの母親しか跡を継ぐ人間がいなかったし…母もキャリア志向が強い人で、経営センスもあったから…結局母が跡を継いで、そのまま私に跡を継ぐ話が回ってきただけだよ」
「そうだったんですか…まあ、あの庵が会社の社長になるよりは樹さんが社長になった方が会社のためにはいいとは思うけど…」
ぶつぶつ言っている京に樹が声を掛ける。
「何言っているんだい、京くん。ああ見えて庵は叔父さんの店をしっかり切り盛りしているよ」
「げーっ!想像できねぇ!」
京の反応に樹も笑いながら応える。
「やっぱりね。でも信じられないのなら一度庵がいるときに店に行くといいよ。本当にしっかりしているから」
「ふーん…でも実際のとこ、こんな事になっちゃって、樹さんにとってはいい迷惑なんじゃないですか」
「うーん…『自分のしたいことができない』っていう気持ちが始めはあったけどね。でも、今の仕事も面白いから不満はないよ」
「へえ、そうですか…でも樹さんと手合わせできないと思うとつまらないなぁ」
残念そうに言う京に樹は困った様な表情を見せる。
「そう言わないでくれよ。私だって君と手合わせするのが楽しみだったんだから。で、そう言う君達の方は他に誰が出るんだい?」
「ええと、翔如がもう一人の『俺』として出るってのは知ってますけど…」
「翔如君か…彼も随分力が付いてきたらしいね…それに、矢吹…真吾君だっけ?君の弟子だとかいう…彼も頑張ってるらしいじゃないか」
京は彼に真吾の事を話した事はない。意外な名前が彼の口から出た事に京は驚く。
「えっ?何であいつの事まで知ってるんですか?」
「いや、紫野ちゃんから聞いたんだよ。彼、よく紫野ちゃんに会いに来てるらしいよ。勉強を教えてもらってるって言ってたし…」
「あの野郎…最近付き合い悪いと思ったら、そんなとこへ行ってたのか…後でちょっとシメてやるか」
「まあまあ…でも京君、うかうかしてると彼らに負けるかもしれないぞ」
京をなだめながらも、からかう様に樹は口を開く。
「じょーだん!まだまだあいつらなんかに負けてたまるかって!」
「そう、その意気だよ」
ふくれたように声を上げた京に樹は微笑みながら声を掛けた。そして穏やかな沈黙が訪れた。
「…京君、庵と付き合っているのかい?」
暫く沈黙した後、樹がコーヒーをまた一口飲むと沈黙を破るように口を開く。意外な発言に京は飲んでいたコーヒーを思わず吹き出した。
「うっ…た、樹さん、何、バカなこと…」
むせながら聞き返すと、樹は穏やかな声のまま続けた。
「いや、君とここで会ったときに感じたんだ。君はここに自然に帰ってきたみたいで、ただカギを持ってるだけではないってね。それに何より、君はこの部屋になじんでる。そればっかりはいくら隠そうと思っても隠せないものだよ」
あくまで穏やかに話す樹に京はどう自分と庵との関係を話したらいいのかと考えながら口を開いた。
「その、確かに俺はこの部屋に入り浸ってて、ほとんど居候と同じですけど、樹さんが言う様に付き合ってるとかそういうんじゃ…」
しどろもどろになって答える京に樹は穏やかな口調でさらに核心をつく質問をした。
「じゃあ、質問を変えよう。京君は庵の事をどう思ってるんだい?」
「えっ…」
「正直に答えてほしいんだ」
樹は先刻とはうってかわって真剣な表情である。京は少し考えると口を開いた。
「俺にとって庵は…時々忘れるけど従兄弟で…何より一番のライバルで…いや、それだけじゃないな。よく分かんねぇけど…なんか、深いところでつながってるような…えーと…あいつの中にも俺がいて、…で、あいつはそう思ってるかどうか分かんねぇけど、俺の中にもあいつがいる感じがして…うーん…降参。勘弁してくださいよ、樹さん」
困った表情を見せて両手を上げる京の頭を樹は微笑みながら撫でた。
「今はそこまで分かってればいいよ。でも、覚えておくんだ。これからの草薙と八神を作っていくのは君達だって事をね」
「何言ってるんですか。樹さんだってまだ26でしょ。隠居する年じゃ…」
笑いながら言う京に樹は真剣な表情を向けた。その表情に京は気圧される。樹は真剣な表情のまま続けた。
「一族をまとめていくのは当主だ。つまり、君は草薙、庵は八神の当主として一族を導く義務がある。いや、そんな事は関係ない。君達は私にも、今までの当主も持っていない何かを持っているんだ。一族をまとめ、正しい道へ導く何かをね。君達は気付いていないかもしれないけど、私には分かる。叔父さんも、柴舟殿も、それが分かっていたから当主としてはまだ若い君達にその座を譲ったんだと思うよ」
「はあ?…俺達ってそんなにすげえのかなぁ…」
樹の言葉に京は困惑した表情を見せる。樹は微笑むともう一度京の頭を撫でる。
「私の言い方が悪かったかもしれないね。気負う必要はないよ。君達は君達らしくしていればいいんだ」
「はあ…よく分かんないけど、がんばります」
まだ困惑している京に樹は微笑みを返すと、ふと腕時計を見てソファから立ち上がる。 「さて…随分長居してしまった様だ。そろそろ行かないと。コーヒーありがとう。おかげで人心地がついたよ」
「え、いや…こんなことしかできなくてすいません」
「いや、充分だよ。じゃあ、また」
そう言って樹がリビングを出ようとした時に、庵がベースを背負ってリビングに入ってきた。
「何だ京、いたのか。…あ、樹さん。お久し振りです」
「やあ、庵。お邪魔してるよ」
「すいません。こいつ、何もしてないでしょう。今コーヒーでもいれますから…」
ベースを置いてキッチンに入ろうとする庵を樹は引き止める。
「いや、もうコーヒーも飲んで今帰ろうとしていた所なんだ。じゃあ二人とも、邪魔したね」
そう言って樹は庵に近付くと、すれ違いざま庵の耳元で囁いた。
「庵、京君と仲良くな」
「な…」
赤面して絶句する庵に樹は微笑みかけ、そのままリビングを通り抜けて部屋を出ていった。呆然と立ち尽くす庵に京が近付いた。
「なあ、樹さん、何て言ってたんだ?」
京は不思議そうな顔をして庵を覗き込む。庵は赤面した顔を見られたくないので顔をそむけて口を開いた。
「何でもない…それより京、何で樹さんがここにいたんだ」
「えっと…外回りで近くを通ったって言ってたけど…よく分かんねぇや」
「そうか…それで、京。貴様も何でこの時間にいるんだ」
庵の口調が変わる。京はぎくりとした。
「え…その…」
「さぼるなとあれだけ言ってるだろう!言って分からないなら鉄拳制裁だ!!」
「ひぇーっ!勘弁!!」
庵に追い回されながら京は樹の言っていた事を思い出していた。自分達に樹が言うほどの能力があるのだろうか。あるとしても自分達は一族の未来を変える事ができるのだろうか…。いや。今は考えるのをやめよう。今は分からないけれどいつかきっと答えが見付かるはずだ。だから今はこの生活を楽しもう――
「いいか!二度とさぼるんじゃないぞ!」
「わかりましたー!!もうしませーん!!」
―今日も騒がしいとあるマンションの一室に、爽やかな風が吹き抜けていく―