「馬鹿者!これ位分からんのか!」
「仕方ねぇだろぉ、分からねぇもんは分からねぇんだから!」
とあるマンションの夜のひととき。口論をしているのはこの部屋の主、八神庵と勝手に半居候の身となっている彼の(一応)宿命のライバル、草薙京である。試験が近くなったのに勝手に居ついている京に勉強を教えてやろうと言い出したのは庵からであったが、世界史の年号も英文法も、挙げ句の果てには現国すらあまりよく分かっていない京に対して少々怒りぎみ。京の方も勉強では庵にかなわないのがくやしいのでむくれている。
「…貴様、本当に高校を卒業する気があるのか?」
「…んだよぉ、格闘家に学問はいらねぇだろ」
「何を言ってる。貴様の弟子は成績抜群だろうが」
「うっ…」
「くやしかったら勉強してとっとと卒業するんだな」
「…」
冷たく言い放つ庵を京は何も言えず睨み付ける。しかし事実だから仕方がない。むくれながらも京は再び問題と格闘を始めた。
「…あーあ、こんな事なら家にいればよかったかなぁ…」
そう呟きふと開け放した窓を見つめると、風に乗って何か白いものが部屋の中に入ってきた。
「あれ?…庵、雪だ…」
「嘘をつくな。こんなに暖かいのに雪が降るか」
「だってよぉ!来てみろよ」
キッチンでコーヒーをいれている庵を京はむりやり部屋まで連れてくる。
「ほら!どう見たって雪じゃねぇか!」
「…馬鹿者、雪がこんなに長い時間残っているか。綿ぼこりだろう」
「そういやふわふわしてるし…何だ、綿か」
「…ん?…京、待て」
がっかりした京が捨てようとしたその白いものをふと見た庵はそれを止めた。
「まさかとは思うが…てんさらばさらじゃないか?」
「てんさらばさらぁ!?何だそりゃ?」
『なに訳の分かんねー事言ってんだ』という顔で庵を見る京に庵は『しょうがないな』といった感じで話す。
「昔、俺の祖母さんから聞いただろう。白粉をかけると増えて、誰にも見せずに増やしていくと、増える度にいい事が起こったり願いが叶ったりするというものだ」
その言葉に京は開いた口がふさがらないという表情をする。
「あぁ?お前、ファンタジーの読みすぎじゃねーの」
「しかし、祖母さんは実際に増やしたことがあると言っていたではないか。昔話はあなどらんほうがいい」
庵の言葉に京は記憶をたぐり寄せるように考え込む素振りをした。
「…そーいやそんな事もあったっけ…へぇ、これがそうか」
「まあ、俺も見たことはないから分からんがな」
「ふうん…」
京は不思議そうにその白いものを見つめる。庵はそんな彼の姿を見つめながらキッチンから持ってきたコーヒーを一口すすると口を開いた。
「…どうだ京、何か願いをかけてみるか」
「はぁ?」
あまりに意外な庵の発言に京は思わず向き直るが、庵はシニカルな笑みを浮かべているだけである。
「まぁ、ものは試しともいう。卒業でも願ってみたらどうだ」
「そうだな…」
京は少し考える素振りをしたが、すぐに明るい笑みを浮かべる。
「…いいや、こんなことで願いが叶っても嬉しくねぇもん。それに、願いは自分の力で叶えてこそ意味があるしな」
「ほう、貴様にしては殊勝な発言だな」
「『貴様にしては』は余計だよ。それにしてもさっきから俺のことばっかり言ってるけどよ、お前は何か願いごとがねぇのかよ」
京の問いに庵はあっさり答えた。
「俺か?…俺はいい」
「何で」
彼は京を見つめるとふと微笑む。それは先刻のシニカルなものではなく静かな優しさにあふれていた。
「俺はもう願いが叶っているしな」
「えーっ!?何だよそれって」
「何だっていいだろう」
「よくねぇよ、気になるじゃねぇか」
「そうか…それなら言うがな…」
「んっ…」
庵は京を引き寄せると彼を背後から抱き締め唇を重ね、微かな声で彼の耳元へ囁いた。
「お前が側にいることだ…」
それを聞いた京は庵を見上げるとにやりと笑う。
「へぇ、お前も結構素直じゃねぇか」
「ふん」
「じゃあ、これは必要ねぇな」
京は庵の腕からすり抜けると窓の外にその白いものを風に乗せて飛ばし、屈託のない笑顔で振り返った。
「でもあれ、本当にてんさらばさらだったのかな」
「さあな…さて」
「えっ?」
庵は京に近付くとひょいと抱き上げる。
「ちょ…何すんだよ!」
「随分と時間を浪費してしまった。勉強の続きをやるぞ」
そう言うと庵は京が先刻まで座っていたソファまで連れていき、座らせた。
「そんなぁ…せっかくいいムードだったのに…」
「何がいいムードだ。恨むのなら自分の頭を恨め」
「ちくしょー、てんさらばさらの馬鹿ーっ!」
――その日のとあるマンションの一室は、夜遅くまで怒声と叫び声が聞こえていたという――