三太郎のトレードが公式に発表されてから、恋人の弥生の所に立て続けに電話がかかる。まず真っ先に電話を掛けて来たのは葉月だった。
『…ごめん、ヒナ。今大丈夫?』
「うん、大丈夫。無理言ってしばらく有休取っちゃったんだ、実は。管理は『診察はともかく一旦組んだ病棟のシフトをどうするんだ』って阿鼻叫喚状態だったけど押し切っちゃった」
『そっか…じゃあやっぱり引越しの手伝い…するんだ』
「そういう事。しばらくは今以上に一緒にいられなくなるしね。名残を惜しむ意味も込めてさ」
 さばさばと明るい弥生の口調に葉月は心配そうに問いかける。
『…ねぇ、本当にいいの?』
「何が?」
『トレード…あたしらがどうできるって訳じゃないけどさ…ヒナは絶対に今の仕事捨てて付いてく様な事は無いってあたしも…多分お姫や真理ちゃんも分かってるからさ、このまま…別れ別れになって…二人ともいいのかな…って。この話聞いて一番にあたし将さんに怒鳴り込んだのよ?『何で上の判断で無理だったとしても止めなかったんだ、将さんだったら止める様な進言する事できたでしょ』って…でも将さんも『寝耳に水で決まってから聞いたからどうしようもなかった』って他人事みたいに…もう悔しくって…』
 きっと電話口で弥生のために悔し涙を堪えてくれているのだと分かるその口調に弥生は心が温まり、ほんの少し涙が零れそうになったが、その涙を目の奥に飲み込んで、宥める様に、そして別れと共にそれ以上の『喜び』があった事をきちんと葉月に伝える。
「はーちゃん、ありがとう…その気持ちだけで十分よ。それにね、三太郎君は将来がある選手とあと何年現役ができるか分からない自分とをトレードしてくれた事で、自分がどれだけ望まれてるか分かったからそれが嬉しいし、その誠に応えるために行くんだって、ちゃんと前向きにトレードとらえてるから…心配しないで。…そうしてちゃんと行った先でもう一花絶対咲かせてやるって言ってるわ。…『パパが活躍する姿をちゃんと生まれてくる子に見せなきゃな』って」
『…って事はヒナ…』
「…まだ多分『いない』けどね、手続きだけは。…有休終わったら『微笑先生』に変えるか、通称で『朝霞先生』のままにするか決めないと。まあどっちにしろ年金とか保険証の手続きは済ませないとね」
『…そっか。…『微笑先生』も優しそうでいいけど、今までの『朝霞先生』がいなくなっちゃったと思われると困るし…難しいとこだよね』
「そうね」
『単身赴任か。…お姫と言い、ヒナと言い、大変だよね。どれだけあたしは恵まれてるんだか』
「はーちゃんは場合によってはトレード関係なくなるでしょ?社長夫人の座の道だってあるんだから」
『…』
「じゃあこれから引越しの手伝い行かなきゃだから。詳しい話はまたおゆき含めてでも会って話そう?」
『うん、ごめんね。忙しい時に電話して』
「ううん。はーちゃんのまっすぐな優しさ嬉しいから、ちゃんと三太郎君に伝えとくよ。じゃあね」
 そうして電話を切ると、間をおかずまた携帯の着信メロディーが鳴る。出ると今度は若菜だった。
『…モモ、今大丈夫?』
「これから引越しの手伝い行かなきゃだからちょっとなら。おゆきこそいいの?今勤務時間じゃない」
『部長に許可とって電話かけたの。『どうしても緊急に掛けなければならない電話ですので』ってごり押しして。だから私も少しなら大丈夫』
「…おゆきらしいわ」
 一見おとなしいが、こうと決めたら引かない若菜の性格を知っている弥生は、きっと自分のために電話を掛けようとあらゆる手段を使って部長をやり込めたのだと分かり、その様子を思いふっと笑う。電話口の若菜は重く、真剣な口調で言葉を紡いでいく。
『…とにかく、直球で話すけど今回の事は私もびっくりしたわ。まさか微笑さんがトレードに出されるなんて夢にも思わなかったから。確かにプロ野球選手だから避けて通れない話なんだって分かるけど…だから微笑さんの心配はあえてしない。…心配なのはモモ、あんたよ』
「おゆき…」
『多分あんたの事だから、付いて行かないし、別れ別れになっても気丈に送り出すんだろうけど…女が付き従うのがいいって言いたい訳じゃないけど…いいのよ?今ある物を捨てるべき時はあるんだから捨てるべきだって見極められたら、今の自分の立場全部かなぐり捨てたって。モモは今不足してる小児科医ってだけじゃなくって、腕のいい医者なんだから、どこ行ったってやってけるでしょ?こんな事言ったら何だけど、微笑さんの現役生活は後きっと何年かじゃない。その何年か付いて行けばまたきっとこっちに戻って来られるじゃない。きっとモモの帰りを待ってるおじ様も睦美ちゃん達もいい様にしてくれるわ。だから付いて行ったっていいじゃない。…私もそうだけど、今回の話を聞いた光さんが心配しているのよ。『朝霞さんは気丈な人だから下手に弱い人より余計に危ない。気丈な人ほど折れた時、どうしようもなく崩れてしまう、このまま離れたとしたら朝霞さんがそうなってしまうんじゃないか』って。私もモモの性格知ってるから、その光さんの心配が当たりそうで…怖いのよ』
「…おゆき、義経君も…」
 若菜と義経の三太郎より自分の事を心配してくれるその言葉に、弥生は胸が一杯になる。それでも自分の決意は変わらないので、それを静かに口にする。
「…ううん、三太郎君がプロ野球選手っていう仕事に責任と誇りがあるのとおんなじ様に、あたしだって今の職場に責任と誇りがあるわ。経過を診ていきたい子供達だって沢山いる。それなのにあたしの気持ちだけを振りかざして今の立場を捨てて三太郎君に付いていく事は…あたしにはできない。それも…おゆきなら分かってるでしょ?」
『…モモ』
 悲しげな声を出した若菜に、弥生は励ます様にさばさばとした口調で言葉を返す。
「大丈夫。確かに住む所は離れるわ。でもね、あたし達はあたし達のそれぞれの役目をちゃんと果たせる様に…ちゃんとその形を整えたわ。もう不安定な関係じゃない。だから離れても大丈夫」
『モモ、それって…』
「そう言う事」
 弥生の言葉を察した若菜は、ほんの少し安心した様に言葉を紡いでいく。
『…良かった。なら少しは安心よ。その内景気付けに会いに行くけど、その時にその企画立てますか。でもその前に出産なんて事にならない様にね?何かと面倒だから』
「善処するわ。じゃあおゆき、仕事に戻らなきゃ。あんたはいつも全力投球だから大丈夫だって分かるけど、意地悪な目はあるんだから。また住民から『お役所仕事してる』って言われちゃうわよ?」
『そうね。じゃあ微笑さんによろしく言ってね。手放した事を後悔させる様な活躍してねって』
「ありがとう、伝えるわ」
 そう言うと二人は電話を切った――

 そして引越しの支度をして一日が過ぎ、夜二人で夕飯を食べ、眠る時間も惜しく取り留めなく話していると、不意にまた携帯が鳴る。その久しぶりに鳴ったメロディーに驚きながら携帯を取ると、本当に久方ぶりの声が電話越しに聞こえてきた。
『…弥生先生、お久しぶりです』
「真理ちゃん…ホント久しぶり。どうしたの?」
『いえ、今回のトレードの事で…ちらっと私も微笑選手と弥生先生が付き合ってるって聞いていたんで、どうしてるかなって…気になったもので。それに…守さんがショック受けてるんですよ』
「不知火君が…?」
『『スターズにとって三太郎はこんな簡単に手放せる存在だったのか。そうだと考えているとしたら、たとえ関わっていなかったんだとしても、今回の事に限っては止めなかった土井垣さんに失望した』って…周りには見せてないですけどね。それを、弥生先生から微笑選手に…伝えて欲しいなって』
「そう…ありがとう、不知火君のその気持ち、伝えるわ。絶対に」
『それで…どうするんですか?弥生先生は』
「どうもしないわ。このままあたしは今のところで医師を続けるだけよ。二人で話し合って決めたの。こう言っちゃ何だけど、三太郎君の現役生活は長くてもあと何年か。あたしの医師としての生活はそれよりもっと長いし、お父さんがどうかなったら予定より早く真鶴に戻る事だってありうる。それを考えたら三太郎君一人で広島へ行った方がいいだろうって」
『それでいいんですか!?あたしにしたみたいに一緒にいるために、使える限りの裏道使えばいいじゃないですか!…離れ離れになる事を、そんなに簡単に…決められるんですか…!?…』
 さばさばとした弥生の言葉に激高した様に返す真理子の弥生を思っての怒りに、弥生は彼女の真摯な思いを受け取り、また自らの恋を顧みて、その恋を成就させるために弥生達が尽くしてくれた力を返したいと切に願っている事も同時に理解し、感謝に心の中で頭を下げながらも、さばさばとした口調ながら優しく、言い聞かせる様に言葉を紡いでいく。
「確かにね。好きな相手に対する一番は一緒にいる事よ。でもね、そればっかりに必死になって自分に与えられた責任を放り出す事は絶対しちゃいけない事だって、真理ちゃんだったら…よく分かるわよね。真理ちゃんはラッキーが重なって責任を果たすのと同時に好きな人と一緒にいられる選択ができた。でもあたしはそうできないから…あえてお互いの責任を果たすために好きな人と離れる選択をしたの。でも心配いらないわ。確かに一緒に生活はできないけど…一緒にはなったから。…分かるわよね、この意味。真理ちゃんも…『その時』には招待するから…よろしくね」
『…はい』
 電話口の真理子が涙ぐむのが分かる。弥生は真理子の気持ちを受け取り、優しく言葉を重ねる。
「でも…ありがとう。真理ちゃんがそうやって怒ってくれる気持ちは…本当に嬉しいのよ。ただ、あたしは本当に不器用だから…今の責任を捨てられないのよ。この性格を恨むわね」
『でも、そんな弥生先生が…私も…葉月さんも…患者さんや他のスタッフの皆も…きっと微笑選手も…好きなんですよ』
「…ありがと。それより真理ちゃんもそろそろ自分の事考えなきゃ。関係が関係だし、お父さん、やきもきしてるんじゃない?」
『…はい、実は。『そろそろ籍を入れてもいいんじゃないか、あんな挨拶したのにあいつは何考えてる』って角出してます。本当の事言うと守さんは入れたがってるんですが、弥生先生じゃないですが私が転籍なのか戻るのかまだ分からないんでもう少しもう少しってつい引き延ばしちゃって。この宙ぶらりんをはっきりしてほしいんですけどね』
「一旦安定すると放置プレイはうちの悪い所だからね~。…いっその事戻す様にあたしから進言しようか?」
『それもいいかもしれませんね。首都圏に球団集中していますし、遠征に来ればいくらでも会える訳ですし…ってごめんなさい…守さん、それ嫌?でも弥生先生はそうするんですって…そう…弥生先生、守さんから。『無理するな、付いて行けるなら付いて行け』だそうです』
「そう。じゃあこう返して。『気持ちはありがたいけど無理してないわ。考えた末にお互いを思って離れるのよ』って」
『はい。…あ、今もしかして微笑選手と一緒ですか?』
「ええ、実はね」
『じゃあお邪魔しちゃいましたね。…離れる事が普通になるんだったら余計に二人っきりの時間…大切にして下さい』
「真理ちゃんもね。折角の不知火君との時間、邪魔しちゃったわ。大事にしなさい、その時間」
 そう言うと笑い合って二人は電話を切った。そうして携帯を見て微笑んでいる弥生に三太郎が優しい笑みを見せながら声を掛ける。
「…また友達からか?」
「ええ、しかも今度は『遠方の友』よ。有難いわね…みんな心配してくれて」
「そんな風にみんなに慕われてる弥生さんをトレードきっかけとはいえ区切りつけて奥さんにもらえたんだから…俺、幸せもんだよな」
「三太郎君…でもそれは三太郎君も一緒よ?さっきもはーちゃんとおゆきの事話してたけど…今の電話でも三太郎君の事心配してた…っていうか扱いに対して土井垣さんを怒ってたわ、不知火君が」
「不知火が…そっか」
「そんな風に皆に思われる位、しっかり今まで結果残してきたのよ?三太郎君は。だから話聞いてる限りじゃ大丈夫だと思うけど、くさっちゃだめよ?確かに現役生活残り少ないかもしれないけど…その最後まで…中途半端に燻って一酸化炭素出すくらいなら、ちゃんと後悔無いように燃え尽きて」
「ああ。俺、頑張るぜ。絶対にくさるもんか。期待に応えて、それ以上にもう一花咲かせてやる。だから弥生さんも弥生さんの場で本気出して戦って。離れたって…俺達はもう『戦友』で『運命共同体』なんだからさ」
「ええ…頑張るわ。三太郎君の頑張りを励みにして…あたしはあたしの場で。後は…『天使』が早めに来てくれると有難いんだけどね。産むのも育てるのも体力使うから」
「だな。そしたら俺こう言っちゃ何だけど、もっと頑張れるんだけどな。雄姿をちゃんとその『天使』の記憶に残さないといけないからな…来てくれないかな~」
「神様に『お願い』…してみますか」
「…だな」
 そう言うと二人は顔を見合わせて笑い、唇を合わせて寝室へ向かった。