9月初旬の金曜日の夜、若菜は義経が遠征ではなかったのでいつもそうしている様に終業後彼のマンションへと足を運ぶ。合鍵を使って部屋へ入り、寝室に着替えなどを入れたバッグを置いてキッチンのテーブルを改めて見るといつもの様に彼が作ってくれた夕食と彼女宛の短い手紙があり、彼女はその夕食と手紙の幸せを感じながら、手紙に書かれた事をヒントに献立の仕上げをするため、鍋に作ってある汁物や棚の調味料や冷蔵庫の中身を確認する。と、冷蔵庫に普段は入っていない『ある物』がある事に気づき、その『意味』を察した彼女は微笑むと『それ』はあえて使わずそのまましまっておき、献立を完成させて食事をとり、彼のためのお茶と一緒に自分のお茶もいれ、飲みながら彼の試合をテレビ観戦して時を過ごす。試合は彼もそれなりの結果を残して勝利したので彼女は安心と嬉しさで微笑みながらテレビを消し、彼の帰りを待っていると、やがていつもの様にオートロック側のインターホンが鳴り、応対に出た彼女の耳に受話器越しの『ただいま、こことチェーンロックを開けてもらえないか』という彼の声が届く。彼女は『はい』と返していつもの様にオートロックのカギとチェーンロックを開けて彼を出迎えるためにそのまま玄関で待っているとやがて静かに鍵を開ける音とドアノブが回る音がしてドアが開けられ、彼が『ただいま』という言葉と共に笑顔で部屋に入ってくる。彼女もそれに返す様に微笑んで『お帰りなさい、今日も勝って良かった』と彼に言葉を掛けると、彼は更に嬉しそうな笑顔を見せて彼女を抱きしめ『…ありがとう』と囁きを返した。そうしてしばらく抱き合った後、彼女から身体を離して、鍵とチェーンロックを掛けた彼と共に部屋に入ると彼女は彼に問いかける。
「じゃあ、今夜は先に夜食にする?それともお風呂に入る?」
 彼女の問いに彼は持っていたバッグから小さな包みを取り出して彼女に手渡しながら言葉を返す。
「そうだな、今夜は風呂から先にしていいかな。それから…土産という訳でもないんだがこれを。ちょっと珍しいお茶なんだ。それで…今夜はこれを夜食の後にいれてもらえないか」
 彼の言葉に彼女は彼の意図を察して微笑みながら包みを受け取ると言葉を返す。
「ええ、分かったわ。じゃあお風呂もいい具合だと思うからゆっくり入って身体を休めて。その間に夜食の用意をしておくから」
「ああ、ありがとう。じゃあ先に風呂に入らせてもらうから」
 そう言うと彼はバッグから洗い物を取り出して着替えと共に持ってバスルームに入る。それを見送った彼女はその包みを開けて中身を確かめ、冷蔵庫にあった物と合わせて彼の『意図』が自分の予想通りだったと分かって笑みを漏らすと、夜食の支度を始めた。

 そうして『土産』のお茶を入れる下準備を済ませ夜食の支度が出来上がるのとほぼ同じ頃、風呂を使い部屋着に着替えた義経がキッチンへやって来て、丁度若菜が配膳してくれた夜食を前にして座る。相変わらずぴったりのタイミングで夜食を用意してくれる彼女に笑顔を返しながら、彼は彼女に問いかける。
「それで…今日はこれをどう味付けしてくれたんだ?」
 彼の問いに彼女は優しい微笑みからくすりと悪戯っぽい笑顔に変わると答えを返す。
「今日は…光さん自身が『答え』を出してくれてたから私は特に考える事はなかったわ。…最初から光さん、すいとんを作ってくれてたじゃない。でも『答え』が分かってつまらなかったからたまにはちょっと悪戯してお汁の味を変えてみようかしらとも思ったけど…やっぱりそれで失敗したらどうかしらって思ったから、いつもの通りおすましにしたわ」
「そうか」
「ええ」
 二人は悪戯っぽく笑いあうと彼は一口すいとんを口にし、笑顔で更に彼女へ言葉を掛ける。
「…ふむ、相変わらずおいしい。…これだけおいしく作れるあなたの事だから少しくらい味付けを変えてもうまくまとめてくれるだろうし、別に『悪戯』をしてもらっても構わなかったかな」
「そう?…じゃあ今度自分で試してみて、大丈夫だったらその時『悪戯』させてもらうわね」
「ああ、楽しみにしている」
「ふふ。…ああ、そうだわ光さん」
「何だ?」
 自分と一緒に楽しそうに笑っていた彼女が不意に話題を変える様に改めて彼に言葉を掛ける。それに返した彼に彼女は少し恥ずかし気に更に言葉を返す。
「あの…さっきの『お土産』なんだけど…中身を見たら私、これはゆっくり楽しみたくて…悪いんだけど、その…今夜は私も今の内にお風呂頂いちゃっていいかしら」
 彼女の言葉に彼は自分の『意図』を彼女がちゃんと理解してくれている事が分かったので、彼は優しい笑顔を見せながら言葉を返す。
「ああ。俺もその方がいいと思うから…食器は自分で片づけるし、俺の事は気にせずゆっくり入るといい。その方が『土産』もお互いゆっくり楽しめるしな」
「ありがとう、お願いします」
 そう言うと彼女も着替えを持ってバスルームに入っていく。それを見送った彼はふっと笑いながら幸せそうにゆっくりと汁物を口にしていった。

 そうして汁物を飲み干し、食器も洗い終えた頃、やはり部屋着に着替えて髪を軽くまとめた彼女がキッチンに戻ってきて彼に言葉を掛ける。
「片付けてくれてありがとう、光さん。それで…もう今から『お土産』をいれる?それとも…もう少しお腹がこなれてからにする?」
 彼女の自分を気遣った問いに、彼はふっと微笑んで優しく返す。
「そうだな…寝る時間が遅くなってしまいそうだが、もう少し腹がこなれてから欲しいかな。だから…とりあえずはゆっくり話でもして腹をこなす事にしよう」
「そう」
 彼女も微笑みを返すとそのままキッチンのテーブルで向かい合って会えなかった時間を埋める様に互いに取り留めない会話を楽しんでいく。やがてふと互いに会話が途切れ、ひと時間ができた彼女は彼に言葉を掛け、彼もそれに返す。
「そろそろ…『お土産』いれましょうか」
「ああ、そうだな。大分腹もこなれたし…じゃあお願いしていいかな」
「ええ、ちょっと待っていてね」
 そう言うと彼女はテーブルからコンロに向かい、改めてやかんで湯を沸かしながら、同時に先程下準備に用意した茶器にポットの湯を入れて温め、沸いたやかんの湯を一置きする間に茶器の湯を捨てて『土産』と沸かした湯を二人分いれて彼の所に戻って来る。そうして茶器が置かれたテーブルにはその茶器である湯のみと彼が『土産』のために買ってきたガラス製のティーポット、そのティーポットの中で黄金色の菊花茶が薫り高くゆっくりその花を開く姿を見せていた。二人は幸せそうに菊花茶を見つめながら言葉を交わしていく。
「…この菊の花もお茶の色も綺麗ね」
「そうだな。それに話で聞いていただけだったが、こうしていれてみると本当に香りもいい」
「そうね。…明日の試合の事もあるから菊酒は止めたんでしょう?でも…これはこれで私達はともかく、おようみたいにお酒が弱い人も楽しめるし…いいわね」
「何だ、あなたもそこまで分かっていたのか」
「ええ。ここに来るまでは忘れてたんだけど、今日の汁物のために一応冷蔵庫を見たら『もってのほか』が入ってたから、それで思い出したの。…今日は重陽の節句だったわね」
「そういう事だ。本当なら今夜の夕飯も節句の膳にしようと思ったんだが…そうした食事は用意させてしまうあなたには悪いが、二人で食べたいと思って…デーゲームで早く帰って来られる明日に回して、でも当日の今日もせめて気分位は味わいたいと思ってこれを買ってきたんだが…正解だったな」
「そうね。…そういえばこのお茶、目にいいらしいのよ。明日のあなたの選球眼はバッチリね」
「そうだな。それに安眠や健康にもいいそうだから、あなたの日頃の疲れも取れるだろうし」
「そうね。…ああ、そろそろ頃合いだわ、飲みましょう」
 そう言うと彼女は菊花茶と花を互いの湯のみに入れ、その色と香りを楽しみながら口にして更に楽し気に話していく。
「じゃあ、明日は一日遅れのお節句の食事にするとなると…あの『もってのほか』は青菜とおひたしにしたら綺麗だろうからそうして…ご飯は栗ご飯だったわよね。それとも栗おこわにする?」
「そうだな…その辺りはあなたに任せる。他の品との兼ね合いもあるだろうし」
「そう、後…主菜はどうしようかしら。精進物もいいけど今の季節だとお魚もいい物が多いわよね。だとするとつみれ汁とか…いい物があったら鮭やサンマを焼くのもいいかしら」
「…いや、サンマだけは勘弁してもらえないか」
「あら?光さんサンマ嫌いだったかしら?」
「そうじゃなくて。…うちにサンマがあると岩鬼が嗅ぎつけたら押しかけてこないとも限らんから」
「ああ、そういう事。でもさすがに岩鬼さんだって夏子さんとお嬢さんがいるんだからそこまではしない……とも言い難い…かしら」
「…ああ」
「…ま、まぁそれはそれとして…じゃあ主菜はお楽しみで」
「ああ、お願いするよ」
「それから…今日残った菊花茶はお膳と一緒に明日もいれるから…明日も、同じ様に買って来年も…いいえ、これからずっと…こうしてこの日には一緒に…飲みましょうね」
「そうだな…『高砂』の年齢になってもずっと…そうしよう」
「…はい」
 二人はチームメイトを肴にしつつ、重陽の節句に込められた『長寿』の願いを互いの約束として、そこから数多に生まれるだろうこれからの幸せを思い、微笑みあった。