夕暮れ時のノルマンディーの浜辺。ル・ルー・ド・ラ・ローランシーは海を見詰めていた。革命が起こり自分達に亡命の話が出た時、彼女は『亡命をするならその前にノルマンディーの領地に行きたい』と強固に言い張り、無理にこの地へ来たのであった。彼女は海に向かって呟く。
「おねえちゃま…アンドレ…来たわよ…」
――今から思うとあの時の私、相当わがままに見えたでしょうね…――
彼女は当時の事を思い苦笑する。以前ここへ来た時、彼女は自分は海を見た事がない、どうしても見たいからノルマンディーにあるジャルジェ家の領地へ行ってみたい、そして行くなら叔母とその親友でもある従者と絶対一緒に行くと言い張ったのだ。
「お前はそうやっていつもわがままばかり言って!少しは周りの苦労も考えろ!」
「だってぇ、一度見てみたいんだもん!」
海を見に行きたいという彼女に叔母であるオスカルは凄い剣幕で怒った。確かに一緒に行きたいというのはわがままだから今から思うと仕方無いと思っている。でもあの時彼女は絶対二人と一緒に行きたかったのだ。
「まあまあオスカル、そんなに怒らなくてもいいではないですか」
「母上達がそうやって甘やかすからわがままを言い放題なのです!…とにかく駄目だぞル・ルー!」
「そんなぁ!」
泣きそうになる彼女を見兼ねて、側で成り行きを見ていた叔母の従者であり、親友であるアンドレが助け船を出す。
「…なあ、こうしたらどうだ?今度のお前の休暇にル・ルーをノルマンディーに連れて行ってやるってのは」
「きゃあ!ありがとうアンドレ、大好き!…ねぇ、おねえちゃまいいでしょ?」
彼女は一生懸命頼んだ。オスカルは少し考えると、やがて諦めた様に溜め息をつく。
「仕方無いな…今回は特別だぞル・ルー」
「きゃーっ!うれしい!おねえちゃま、ありがとう!」
「うわぁ!これが海なのね!」
初めて見る海にはしゃいで遊ぶル・ルーをオスカルは見守り、アンドレはル・ルーに付き合っていた。やがて遊び疲れてル・ルーはオスカルの元に戻って来る。
「あー楽しかった。おねえちゃまも一緒に遊べばよかったのに」
「いいや、私は見ているだけでいい。…しかし、海は見ているだけで心が落ち着くものだな…」
オスカルが言うと、アンドレは少し考える素振りを見せやがて口を開く。
「…そうだ、二人とも知ってるか。海についての話を…」
「海についての話…?」
「何?それ」
二人が尋ねると、アンドレは海を見詰めながらぽつりぽつりと話し始めた。
「海はな、見る人の悲しみや流したくても流せない涙を吸い取っているんだそうだ。だから海の水は塩辛いし、海を見ると心が落ち着くんだそうだ…それにな」
「それに?」
「…全ての生き物は海から生まれ、そして死ぬとその魂は海へ帰って行く。海の底にはそうして戻ってきた魂を天へ導く船があって、ある数まで魂が船に乗ると天へと上ってその魂を天上へ導くんだそうだ…ま、迷信だろうがな」
そう言うと彼は笑った。彼の話に二人は感心する。
「ほう…意外と博識なんだな、アンドレ」
「物知りねアンドレ…でもそれ、本で読んだの?」
「いいや…人から聞いた」
「ふうん…誰に?」
彼女が聞くと彼は寂しそうな表情で空を見詰め、呟いた。
「俺の両親だよ…」
「そう…」
二人は何も言えず彼を見詰める。二人の視線に気付いた彼は笑いかけると口を開いた。
「…おっと、しめっぽい話になったな。すまない…そうだ、もう少し遊ぶか。オスカルもどうだ?たまには童心に帰るのもいいぞ」
「いや…私は…」
「…ねぇ遊びましょうよおねえちゃま!そうだ、砂でお城を作りましょう!」
「そうだな…じゃあ、少しだけやるか」
それから三人は砂で城を作り、その後も何日かの休暇を海辺で楽しく過ごした。
――あの時、海はおねえちゃま達の涙や悲しみを吸い取ってくれたかしら…?――
あの時の彼女は本当はすべてを知っていた。だから海に行きたいと言ったのだ。報われぬ愛に、そして貴族としての生き方に対する疑問に悩む叔母を、その叔母の苦しみに、そして彼女に対するやはり報われぬ愛に苦しむ自分の初恋の人であり叔母の幼馴染みである人の心を何とかして助けたくて――
――それは私の思い上がりだったかもしれないわ。
…でも、あの時の私はどうしてもそうしたかったのよ。
でも私にも分かっていない事があったわ…だって、
自分が海に涙を吸い取ってもらう日がこんなに早く来るなんて思ってなかったのもの…――
二人の出口のない苦しみは、その時の自分には遥か未来の出来事だと思っていた。しかし叔母が貴族の身分を捨て革命に身を投じ、ようやく結ばれた彼女の幼馴染みと共に時を隔てずして亡くなったと聞かされた時から、彼女自身も出口のない苦しみに投げ出されたのだ。
――おねえちゃま達はそれで幸せだったかもしれないわ…でもずるいわよ、二人とも。
…残された人間の事も考えないで…――
彼女は今は亡き二人に思いを馳せる。二人がいつか結ばれるとは予感していた。そしていつか心の命ずるままに国民のための戦いに身を投じるであろうことも―。たとえそれが正しいとしても、二人にとって幸せであったとしても、彼女には許せなかった。何があっても、どんなに卑怯であっても、二人には生きてもらいたかった。
――…だって…二人にはこれからがあったはずでしょ?
なのに理想のために死ぬなんてばかばかしいじゃない…
人は、生きていなきゃ何の意味もないのよ…――
「二人とも…何で死んじゃったのよぉ…!」
彼女の目から涙があふれ出す。彼女は泣いた。泣いてどうなる訳でもないとは分かっているが、それでも泣かずにはいられなかった。ひとしきり泣いた後、彼女はふと顔を上げる。その時、水平線の彼方に何かが見えた。
「あれは…」
それは一隻の船。彼女がじっと目を凝らして見ているとその船は天上へ向かっていく。そしてその船の上には…。
「おねえちゃま…アンドレ…!」
二人はお互いを慈しみ合う様に寄り添い,微笑んでいた。空に向かって進む船を彼女は見送る。
――今でもやっぱり許せないけど、これで良かったのかも知れないわね。
…だって、二人はこれで永遠に一緒にいられるんだもの…――
船はやがて空に消えた。彼女はその後もしばらく空を見詰めていたが、やがて決心した様に空に向かって呟く。
「おねえちゃま、アンドレ…私は生きるわ、絶対に…そしておねえちゃま達の代わりに、この国の行く先を見詰めるわ。…だから天上で見守っていてね…」
彼女は涙を拭くと空に向かって微笑み掛け、ゆっくりと海を後にした。