「兄様、おかえりなさいませ」
アルバイトから帰ってきた庵に彼の妹は微笑みながら言った。突然の訪問者に彼は驚く。
「…紫野、お前どうしたんだ」
彼がそう言うのも無理はない。彼女は合鍵を持ってはいるものの、体が弱いため滅多に外出は許して貰えないからである。
「お夕食を作りに…久し振りに一緒に頂こうと思って」
「よく父さん達が外に出してくれたな」
「その父様が『行って来い』と申しましたの。最近兄様がちっとも家に帰っていらっしゃらないので拗ねておりますわ」
そう言うと彼女はくすりと笑った。彼にもその時の様子が手に取る様に分かる。
「まったく…父さんと母さんにいい加減息子の歳を考えるように言ってくれ」
「はい。でも時々は兄様も顔を出して下さいね」
「分かった。近いうちに一度帰る様にする。それにしてもこの匂いは…カレーだな」
彼はキッチンに入ると野菜を切っている紫野に言った。
「当たりです。時間があればもう少し豪華にできたのですけれど…でも兄様の好きなお肉はたくさん入れました」
「それで十分だ。で、何か俺が手伝うことがあるか」
「いいえ、別に…。それより兄様宛に荷物が沢山来ておりましたわ。リビングのテーブルの上に置いておきましたけれど」
紫野が言った通り、テーブルの上には何やら小さな包みが山積みになっている。庵は包みを全部開けてみたが、中身は見事なほど一致していた。
「…チョコレート…」
「今日は2月14日ですもの。お知り合いの方達からですか?」
「いや…名前に心当たりがないな…多分バンドのファンか何かだろう。それにしてもどこで住所を調べてくるのだか…」
「よろしいじゃありませんか。兄様も結構隅に置けませんのね」
「菓子屋の陰謀の片棒を担ぐなどくだらんことだ。そうだ紫野、帰りに少し持っていけ」
「よろしいのですか?その様な事をして…」
「どのみち俺一人では食い切れん。腐らせるよりはましだろう」
「ではそういたしましょうか。さあ、出来ましたわ」
カレーとサラダというシンプルな献立ではあるが盛り付けのセンスは抜群である。これが病弱で外に出られない妹の気晴らしの成果である事を思うと庵は複雑な気分であった。しかしそういった事は極力態度に出さない様にしている。食べようとしたその時に玄関のドアの開く音と、聞き慣れた声がした。
「ただいまーっ!庵、腹へっ…あれ、紫野ちゃん来てたの」
あたかも自分の家のごとく入って来たのは合鍵を持つもう一人の人間であった。もっとも彼の場合は庵に貰ったわけではなく紫野に頼んで作って貰ったのだが…
「何が『ただいま』だ。貴様、俺の部屋を何だと思ってる」
「いーじゃねぇか、俺とお前の仲だろ」
「何の関わりもない筈だが」
「ひでぇなぁ、一応従兄弟じゃねぇか。それより飯食わせてくれよ。今日オフクロが当直なんだ」
「残念だが、貴様に食わせる飯などない」
「そんなぁ、庵ちゃん冷たぁい☆」
「ええい、やめんか気色悪い!」
紫野は二人のやりとりを楽しそうに見つめていた。何のかんの言っていてもこの二人がこういったケンカを楽しんでいる事が分かっているので、あえて止めようとも思わないのだ。もっとも、本気でケンカをすれば世にも恐ろしい結果が待っているのだが…。
「兄様、意地悪をなさらないで京兄様にもごちそういたしましょう。まだたくさんございますし」
暫くしてから彼女は口を開いた。
「まぁ、紫野がそう言うなら…仕方ない。京、感謝しろよ」
「さっすが紫野ちゃん、話が分かる♪庵、少しは見習えよ」
「貴様こそ料理くらい覚えろ。自活できんぞ」
「余計なお世話だ。…でもこれ庵が作ったのか?それにしちゃいつもと違って盛り付けがかわいいなぁ…」
「悪かったな。今日は紫野が作ったんだ」
「ふぅん…どれどれ」
京は庵のスプーンを持っている手をそのまま掴み、カレーを口に入れた。
「なっ…京、貴様〜っ!」
「おっ☆うまいぜこれ!庵も食ってみろよ、驚くぜぇ」
「貴様が今食ったのは俺の分だ。言われんでも…ふむ、紫野うまいぞ」
「本当ですか?」
京の分のカレーを用意していた紫野は聞き返した。普段あまりこういった事を褒めない兄に褒められたせいか、嬉しそうである。
「ああ、お前また腕が上がったな」
「だろ?すげぇよ紫野ちゃん、この分ならすぐにお嫁に行けるぜ」
「まあ…」
『もう一人の兄』にもからかわれて、紫野は赤くなる。彼女も座って一口食べるとにっこりと微笑んだ。
「…なあ紫野ちゃん、今日は何日か知ってるよね」
用意されたカレーを食べながら京は口を開いた。
「14日ですが…」
「はい当たり。紫野ちゃん、俺に何かくれる物ない…てっ!」
そこまで言ったところで京は庵に殴られる。絶妙のタイミングであった。
「…ってぇなぁ!何すんだよ」
「貴様〜、彼女がいるだろうが!」
「お前だってファンから貰ってるだろ?俺だってユキ以外の娘から貰ったっていいじゃねぇか」
「だからと言って他人様の妹にチョコレートをせびるな!さもしい奴め」
「だって紫野ちゃんこういうの律義だからさぁ…去年の俺の誕生日だって着物縫ってプレゼントしてくれたし…」
「何!?紫野いつの間にこいつに…!!」
思わず声を荒げた庵に紫野はおずおずと答える。
「あの、あれはいつも兄がお世話になっているから両親がお礼にと…兄様に差し上げた着物、あれとお揃いで…父様が兄様には黙っているようにと申していたものですから…」
「…父さん達か…まったく余計な事を」
「ふぅん…ま、いっか。だから紫野ちゃん、俺にチョコ…」
「貴様ぁ、まだ言うかぁ!」
二人の様子に紫野は少々考えると口を開いた。
「私、もう兄様達にチョコレートを差し上げましたよ」
「…へ?…紫野ちゃんいつチョコくれたっけ」
「俺も貰った覚えがないぞ」
悩む二人に彼女は微笑みながら言った。
「ですからそのカレー、チョコレートが入っておりますの」
ぶ ー っ ! !
二人は思わずカレーを吹き出した。まさかこれに入れていたとは…。しかし実際おいしいので彼女に文句を言う事もできない。
「どうかいたしましたか?」
「いや…何でもない」
「ちょっとむせただけだ。心配するな。…しかし本当にうまいなこれは」
二人とも先刻とは違い、顔が引きつっている。
「…そうですか、それならよろしいのですが…」
紫野は不思議そうに二人を見詰めた。この時京に悪魔のような考えが浮かび上がる。
「…なぁ紫野ちゃん、これあとどの位残ってる?」
「まだかなり残っておりますけれど…どうしてまた?」
「うん、これうまいから俺のダチにも食わせたいと思って…いいかな?」
つまり、道連れを作ろうというわけである。
「私はかまいませんが、兄様が何とおっしゃるか…」
そう言って彼女は兄の方を見る。京は庵に目配せした。どうやら庵も同じ事を考えていたらしく、『分かった』という様に彼を見た。
「分かった、今日は特別連れて来てかまわんぞ。貴様らが八神に敵わんという事を思い知らせるいい機会だ」
「まったく、八神は大袈裟なんだよ。じゃ、電話借りるぜ」
…ここで誰が呼び出されたか、そしてその後の展開がどうなったかは皆さんのご想像にお任せしたいと思う。しかし皆さんが想像したものと実際に展開したものがおそらく大差ないであろうことを筆者である私は確信しているのである…。