初夏の夜、土井垣は都内某所の行きつけの居酒屋に来ていた。オフで飲みたくなってここに来たという事もあるが、実は彼にはここに来た理由がもう一つあった。カウンターで冷酒をちびりちびりと飲みながら彼は目の前にいるこの店の主人にそれとなく話しかける。
「マスター」
「何だい?土井垣君」
「今日は何だか静かですね」
「そうかい?まあ今日はお客さん少ない方かもしれないけど…ああそうか」
「何ですか?」
 問い返す土井垣に主人は何か含んだ様な笑みを見せながらからかう様な口調で言葉を続ける。
「今日はただ飲みに来たんじゃなくて『みんな』に会いに来たのか。ごめんごめん気付かなくて」
「う…」
 主人の言葉に赤面して黙り込む土井垣に、主人は悪戯っぽい笑顔を見せて応えた。
「大丈夫だよ。今日は練習日のはずだからそろそろ来る頃だと…ほら来た」
「マスター、来たよ~」
「こんばんは~」
「おっ邪魔~」
 主人が笑って入口の方を見ると入口に一際賑やかな集団が入って来た。土井垣もその集団を見詰め、ここへ来たもう一つの理由が達成された事を確認すると、動悸が早くなり、赤面しそうになる表情を必死で抑えながらその集団のリーダーと思しき杖をついた大柄な男性に挨拶をする。
「こんばんは向居さん…ご無沙汰しています」
 挨拶をする土井垣を見た『向居さん』と呼ばれた男性は、顔をぱっと輝かせ楽しそうに声を掛ける。
「ああ、土井垣君じゃないか!来てたの?」
「はい、今日はオフで久しぶりに飲みたくなったんで…」
「そうなんだ。シーズン中で忙しいのにここを忘れないでくれるって嬉しいねぇ、マスター」
「そうだね、向居さん」
「じゃあどう?今日も一緒に飲もうか。今日は確か土井垣君が初見の人もいるし」
 向居の言葉に土井垣は嬉しさを隠しながらも遠慮がちに応える。
「はい、じゃあご一緒していいですか?」
「うん、ほらおいで」
 向居は二人が話している間に集団の他のメンバーが作ったテーブル席に土井垣を呼び寄せる。土井垣は自分の飲んでいた冷酒を持って適当な席に着くと、ここに来た『もう一つの理由』であるこの集団の中で一人年若い女性に視線を向ける。今では名前しか覚えていないはずの初恋の少女の面影が何故か重なるその女性。彼女とは今日が会って二度目のはずなのに、また鼓動が高まるのが抑えられない上、視線が無意識に行ってしまう。その内女性も彼の視線に気がついたのか、彼に前は見せなかった人懐っこい笑顔で会釈した。そうしてそれぞれの飲み物とつまみを注文し、全員に頼んだ飲み物が届いた所でメンバーは乾杯をする。
「それじゃ今日もお疲れ様、かんぱーい!」
 乾杯をすると集団は飲みながら雑談を始める。土井垣も雑談に加わっていたが、当初の目的であった『彼女と話す』という目的が達せられず、何となく落ち着かずに彼女の方に視線が行ってしまう。それに気付いた彼と雑談していたメンバーの一人が、ポンと手を叩くと向居に声を掛けた。
「団長、そういえば土井垣君と宮田ちゃん会うの初めてじゃなかったっけ。紹介しないと」
 メンバーの言葉に向居は思い出したようにおどけながら自分の頭をぽかりと叩き、明るい口調で口を開く。
「ごめんごめんそうだったね…土井垣君、彼女は宮田ちゃんって言ってね、うちのホープなんだ。貴重なアルトパートだしね」
「はあ、そうなんですか…」
 まさかここで一度会った事がありますと言える雰囲気ではなく、土井垣はあいまいに言葉を濁す。向居は続けて『宮田ちゃん』と呼んだ件の女性に土井垣を紹介する。
「宮田ちゃん、彼は土井垣君って言ってプロ野球の選手なんだ。結構活躍してて有名人なんだよ」
「そうですね、うちの父もファンなんですよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ顔は知ってるの?」
「はい。…土井垣さん、こんばんは。先日は失礼しました」
「あ、ああ…別に自分は気にしていないので。そういえば沼田さんがいませんが、今日は?」
「今日は研修で大阪に飛んでます。沼さんも忙しい方なんで…」
 柔らかで人懐っこい笑顔を見せながら応対をする彼女に、土井垣も赤面しそうになるのを抑えつつ応じる。二人の様子に気付いた向居は不思議そうに彼女に声を掛けた。
「『先日は』って…宮田ちゃん、土井垣君に会った事あるの?」
 向居の問いに彼女は屈託ない口調で答える。
「はい、一月位前に沼さんとここでご飯食べた時にいらして、簡単にご挨拶だけしたんですよ」
「そうだったんだ。じゃあそんな詳しく自己紹介しなくてもいいかな」
「あ、でもこの間は本当に簡単に挨拶しただけで、ちゃんと名前も聞いてないんで…」
「そういえばそうですね。ちゃんと自己紹介した方がいいですか?」
 向居の言葉に慌てて言葉を紡ぐ土井垣の本意に気付いていないのか、彼女は軽い口調で彼に問いかける。彼女の問いに土井垣は狼狽しそうな口調を堪えながら答える。
「ああ、なるべくならお願いしたいが…」
 土井垣の言葉に彼女は向居の方を向き口を開く。
「じゃあ皆さんにはしつこいかもですけど、もう一度お互い自己紹介するって事で…」
「そうだね、二人とも初めてに近いみたいだし。よろしく」
「は~い」
「分かりました」
 彼女はにっこり笑って、土井垣はポーカーフェイスで頷くと、まず土井垣が口火を切った。
「ええと、自分は土井垣将です。皆さんに言われた様にプロ野球の日本ハムでキャッチャーをしています。土井垣の方は分かる様なので名前の方は…武将の将の字を書きます。この方達とはここでよく一緒になっていて、自分がうっかりこの方達のボトルを割ってしまった縁でこうして時々一緒に飲む様になりました…という所でいいですか」
「うん、いいよ。土井垣君ありがとう」
「はあ、そんな一件でこうなったんですね。…おっと、じゃあ私の方も…」
 彼女は土井垣の方を向き明るい口調で自己紹介をする。
「えっと、はじめまして…じゃなくって…まあいいか…宮田葉月です。職場は沼田さんや上野さんと同じみなと病院で、巡回健診チームの保健師をしています。とはいえ、まだ保健師なり立てなので修行中の身ですけど。ここには職場で二人に声のうるささを買われて勧誘されたのがきっかけで入って、パートは一応アルトです…ってところで」
「『はづき』?…君の名前は『はづき』と言うのか?」
 かすかな記憶にある初恋の少女と同じ名前の読み方。まさかという思いを胸に秘めながら土井垣は思わず問いかける。彼女は土井垣の態度に不思議そうな表情を見せながら問い返す。
「え?…はい、そうですけど…何か?」
「あ、いや…別に…」
 もしかして本当に彼女はあの時の少女なのかもしれない。だから自分はここまで彼女に心が惹かれているのだろうか…そんな思いを抱きながらも、自分の態度を不審がらせない様に話を続けようと、土井垣は更に彼女に言葉を掛ける。
「ええと、『はづき』は暦で言う八月の『葉月』と書くのかな」
「はい、そうですよ」
「と言う事は、誕生日が八月なのか」
 彼の言葉に葉月が悪戯っぽい表情を見せて笑うと、他のメンバーが楽しそうに答える。
「そう思うでしょ。でもそこに落とし穴があるんだよね~はい折角だから宮田ちゃんネタ披露」
 メンバーの言葉に葉月は明るく良く通るメゾソプラノの声でコロコロと笑って応える。
「実は七夕なんです、誕生日は。暦を知ってる人は名前に騙されるでしょう?だから覚えやすい誕生日なのにすぐに忘れられるんですよね~」
「そうなのか…また親御さんもどうしてそういう不思議な名前にしたんだろうな」
「いえ、予定日八月だったのがうっかり早く生まれちゃって、うちは姉も七月生まれで文月から取った『文乃』だからそのまんま変えずに付けたらしいですよ。一応他に早く生まれたけど予定通り生まれた様に丈夫に育つ様にっていうのがあるみたいですけどね」
「そうだったのか…中々豪気なご両親だな」
「でしょう?」
 本来なら重くなってしまいそうな話題かもしれないが、彼女の口調の明るさと話し方の軽さでくすりと笑える様な話題に変化している。これが彼女の人柄を良く現している様に土井垣には思え、ふと顔が和らいだ。彼女は更に軽い口調で続ける。
「それにまあ皆大抵私の事は名字で呼びますし、職場の一部の人とかは勝手に付けた『姫』ってあだ名で呼びますからあんまり名前に意味ないですね。親しい友達でも『みやちゃん』とか、酷いと『お宮』ですし。昔は名前で呼ぶ友達もいましたけど、今は名前で呼ぶのは家族位ですねぇ。…この名前、そんなに私のイメージに合わないのかしら」
 考え込む様に首をかしげる葉月に土井垣が宥める様に声を掛ける。
「いや、そんな事はないと思うが…」
 土井垣の言葉に続ける様にメンバーがそれぞれ葉月に声を掛けていく。
「うん、それはない。名前は宮田ちゃんに良く似合ってる」
「だけど『はづきちゃん』って発音的に言いにくいから、つい名字になるのは確かなんだよね~」
「はあ、そんなものですか?」
 納得いかない様にまた首をかしげる葉月を土井垣は見詰めていたが、やがて無意識にからかう様な言葉が彼の口から零れ落ちていた。
「…そんなに名前で呼ばれたいなら、自分は君の事を『葉月さん』と呼ぼうかな」
 その言葉に葉月は驚いた表情を見せ、真っ赤になると慌てて両手と首を振って口を開いた。
「…あ、やっぱりいいです。何だか家族以外に名前で呼ばれると居心地悪いみたいなんで」
 彼女の表情と態度にそこにいたメンバーは爆笑すると、それぞれ人の呼び方についての雑談に移っていった。嬉々としてその雑談に加わっている彼女を見詰めながら、土井垣は自分が無意識に口にした言葉に赤面する。初恋の少女と同じ読みだからという事もある。しかし今はある種それはどうでもよくなっていて、彼女だからこそ土井垣は彼女の事を名前で呼べたらと思っていた。そして叶うなら彼女にも自分の事を名前で呼んでもらえる日が来れば…そんな自分の思いに気付き戸惑いを感じながら、土井垣も雑談に加わっていった。