3月14日、四国アイアンドッグスはホームの坊っちゃんスタジアムでオープン戦をこなし、プレーイング監督である小次郎がこの日は先発投手として出場し完封勝利をおさめ、ここまでまずまずの成績を収めているため、ミーティングでは気を引き締めろと言いつつも内心は幸先がいいと機嫌よく監督室で着替えていた。と、不意に試合後電源を入れた携帯のメール音が鳴る。この音は、とはやる心を抑えつつ携帯に入って来たメールの内容を見て、彼は驚きと嬉しさで、すぐにメールの送り主に電話を掛ける。数コール後、少し低めの艶っぽいメゾソプラノの声で『小次郎さん?』という声が聞こえてくる。彼ははやる心のままに電話口に声を掛ける。
「おい…本当にこっちに来たのか?」
『ええ、本当よ。今球場の入口にいるんだけど…これから会えるかしら』
「会いに行くに決まってんだろ?すぐ行くから…あ、すまねぇが嵐付きだが、いいか?」
『いいわよ、土佐犬とはいえ本当におとなしくって頭がいい子なんでしょ?それに…小次郎さんと付き合うんだから、嵐君にも慣れないと』
「ありがとよ。…じゃあ…そうだな、そのまま入口にいてもらえるか?他の奴らにばれると何かと厄介だし」
『ええ、待ってるわ。じゃあね』
そう言って電話を切ると小次郎はさっと着替えて荷物を手早くまとめ、ロッカールームにいるチームメイト達に『俺は悪いが先に出る。それぞれ片付け頼むな』と言い残して嵐を連れてスタジアムを出て入口を見回す。すると、中型のボストンバッグを持った春めいたサーモンピンクのワンピースに白のジャケット、白いパンプスという女性らしさを出したセミロングの真っ直ぐな黒髪の正統派美人が微笑んで近づいてきた。その普段見ているキャリアを前面に出したスーツ姿とは違う姿にどことなくどきりとしながらも、それを隠しつつ自分もその女性に近づき、声を掛ける。
「よお…久しぶりだな、彰子」
『彰子』と呼ばれたその女性は、にっこりともう一度微笑むと、言葉を返す。
「久し振りね、小次郎さん。元気そうで良かった…あ、この子が嵐なのね…うん、小次郎さんに似て端正な顔つきしてるわ。撫でて大丈夫?」
「ああ、怖がらねぇで撫でれば大丈夫だ」
「そう…じゃあお言葉に甘えて」
そう言うと彰子はにっこり笑いながら嵐の眼を見てその頭を優しく撫でる。嵐はその気持ちよさに目を細めながら『クゥ~ン』と鳴いた。それを見てまた彼女はにっこり笑うと、小次郎に向き直り、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「ごめんなさいね、急に来ちゃって」
彰子の言葉に、小次郎は照れくさそうに言葉を返す。
「いいさ。こんな嬉しいサプライズなら、いつだって受け取るぜ。…でも彰子、仕事は大丈夫なのか?」
「ええ。詳しい話は後でするけど…皆が寄ってたかって『たまには羽を伸ばしておいで』って送り出してくれたの。だから大丈夫」
「そうか。じゃあ…これからどうするか。彰子はホテル予約してあるんだろ?これからどっかで食事するにしろ、先にそっちにチェックインした方がいいな。その荷物からするとまだだろ?」
その言葉に、彰子は何故か顔を赤らめて俯く。小次郎はそれが不思議で問いかける。
「どうした?」
小次郎の問いに、彰子は恥ずかしそうにぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「実はね…行ってこいって言われたの昨日の今日で、皆は試合と往復の飛行機のチケットは用意してくれたのに、ホテルの予約はしてくれないで…あたしも探したんだけど皆満室で見つからなくて、行く場所がないのよ。…いざとなったら華子さんの所に泊めてもらおうと思ってるけど…もし、迷惑じゃなかったら…小次郎さんの所に…その、泊めてもらえる?」
「…」
彰子の珍しく大胆な言葉に小次郎は思わず赤面したが、その言葉が嬉しい気持ちもあって、その心のままに、しかし照れ隠しの無愛想な態度で応える。
「…しかたねぇな。俺がマドンナの家にお前を送って行ったら、あいつの事だから他の奴らに何言うか分かんねぇから…いいぜ。泊めてやるよ」
「…ありがとう」
「…じゃあ、荷物持ったままじゃ大変だし、嵐もいるから俺んちに直行するか。ここから歩いてすぐだからよ」
「…ええ」
そう言うと小次郎は彰子を案内しつつ自分のマンションへ連れて行く。部屋へ入れてリビングにあるソファに座らせ、嵐にエサと水をやり、コーヒーをいれ彼女の正面に座ってコーヒーを出す。飲んで一息ついた所で、彰子が嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「…でも、今日来られてラッキーだったわ。小次郎さんのピッチングが見られて、しかも完封の勝ち試合で」
「…ありがとよ。ところでよ」
「何?」
「何でまた急に仕事をほっぽり出して試合観に来たんだ?仕事を何より大切にするお前らしくねぇな」
小次郎の問いに、彰子は困った様に微笑んで答える。
「さっきの話の続きになるけど…おじい様と光流が『たまには仕事の事を忘れて羽を伸ばして来い』って言い出して、どうやら二人から依頼されてたらしい柊司さんが今日の試合のチケットと飛行機のチケット出して『ほら、今一番行きたそうな場所用意してやったから、無駄にならない様に後は俺達に任せて行け』って外堀埋めてきて…ほとんど強引に追い出されてきちゃったの」
「…そうか」
「光流もね、『そろそろ僕も姉さんの名代が務められる様になりたいから、力を試すためにも任せてみてくれないかな』って言って…その頼もしそうな様子で任せてみようって思ったの。…それにね」
「それに?」
「光流ったら、『その代わり、佐倉さんは貸してよね。僕、彼女の力は認めてるし…僕の力も彼女に見てもらって…認めてもらいたいんだ』って。…まさかそういう事になってたとは思わなくって。弟の恋路を邪魔したくないのもあって、任せる事にしたの」
「そうか」
二人は悪戯っぽく微笑むと、彰子がしみじみと言葉を紡ぐ。
「時が経つのは早いわね…あたしが社長継いだ頃はまだ中学生だったのに、すっかり専務が板について。あたしも歳取る訳だわ」
「彰子…」
その寂しそうな表情に小次郎は言葉が出てこなくなる。彰子は続ける。
「社長になって、もう13年…色々な事があったわ。お父様が急に亡くなって、おじい様の指名で大学在学中にいきなり社長を継がなくちゃいけなくなって…いくら女性が進出してきているとはいってもまだまだ男社会。若い女だからって見くびられない様に、いつも隙を見せずに過ごしてたわ。社内で確固たる味方はおじい様と、秘書として入ってもらった親友の千穂…つまり佐倉さんと、あたしの力を認めてくれた多村常務だけ。それどころかその頃専務だった孝彰叔父様や片岡常務みたいに会社を思いのままに操ろうとしている人までいた。そんな中で隠密の内部調査の人間と、研究職員を雇う関係で柊司さんと出会って…その経営センスの見事さが気に入って、表は経営コンサルタント兼名目上の常務取締役って肩書をつけて、内々は弟の教育係でうちに入ってもらって…その仕事ぶりと人間性を見ていくうちに、その姿に恋をした。でも柊司さんは報われないけれど、それでも絶対捨てられない愛を持っていたから見事玉砕。…それでもビジネスパートナーとしてうまくやって、バリバリ仕事はこなしてたから仕事だけは順調で、あたしは『うら若き女帝』なんてご大層な異名をもらって表向きは輝いてたけど、想いが届かない事でプライベートではやけになってた。そんな時に小次郎さんと出会って付き合っていくうちに…ああ、この人が本当のあたしの相手なんだって実感できて、段々と心が安らかになっていった。…だから、小次郎さんが社長としては輝いていても本当は傷ついていた『杉浦彰子』としてのあたしを立ち直らせてくれたの…ありがとう、小次郎さん」
「…彰子」
そう言ってにっこり笑う彰子の言葉に小次郎は愛しさと痛々しさが湧いてきて、彼女の隣に座り直すと、彼女の肩を抱いて囁く。
「出会ったあの時の修羅場でも思ったが…きつかったんだな。それに、辛い恋までしてたのか…」
「…」
彰子は黙ったまま小次郎に身体を寄せる。そうしてしばらくの沈黙の後に、彰子は静かに言葉を零す。
「…言ったでしょ?『小次郎さんがあたしの本当の相手なんだって分かった』って…今だから分かるんだけど、あたしの柊司さんに対する想いは、多分近所の優しいお兄さんに憧れる女の子みたいな感情だったんだなって…だって、柊司さんは身内やおじ様以外で初めてあたしを社長としてでも、杉浦一族の令嬢としてでもなく、ただの『杉浦彰子』として扱ってくれた男性だったの。…それまであたしの周りにいた男っていうのは、皆あたしの事を『やり手の女社長』や『杉浦本家令嬢』っていう肩書に目がくらんで近づいてきた男ばっかりだった。でも柊司さんは違ったの…社に入って初めて二人きりになった時の第一声…何だと思う?『あんた、護身術できるか?』よ?それであたしが『ボディーガードがついているから、そんなもの覚えていませんわ』って返したら『とっさの時に自分で自分の身を守れなけりゃ、こんなでかい所じゃやっていけねぇ。そんな甘い気持ちじゃこの食うか食われるかの経済社会は渡ってけねぇぞ。敵が多い社長で…頭や機転は切れてたとしても、力は男に負ける女や子どもなら尚更だ』っていきなりお説教。で、経営論は無視して最初にあたしと光流に護身術を教えたの。で、人を見る目を育ててくれて、経営論とかもあたしの話を聞いて、的確なアドバイスをくれるし、経営哲学に関しての議論も真剣にしてくれる。そんな柊司さんだったから、憧れに似た感情で恋していたんだなって…今なら思うわ」
「…彰子」
「そうして、そういう恋をしたから…小次郎さんへの想いにも気付けたんだって…今なら思うの。だって…小次郎さんも、あたしの事は社長だって知らなかったのに…あたしがあの修羅場で殴られそうになったのを止めてくれて、その後意気投合して飲んで…言ったじゃない。『あんた、いい奴だな。いい女でもあるけどよ…それ以上に『いい奴』だぜ』って。で、あたしが社長だって分かっても『…ま、何でもいいさ。彰子が彰子だから気に入ったんだし』って全く気にしない風情で…付き合い始めてさすがにあれだけ大企業だって分かった時には驚いたみたいだけど…それでも『どんな肩書でも彰子は彰子だもんな。俺が俺だって事と同じ様に。ただ周りが俺の『鳴門の牙』時代の素行知って付き合うのは許さねぇとか言われたら困るけどな』って笑って言ってくれて…柊司さんへの恋を知ってたおかげで、その言葉達が全部嘘じゃないってちゃんと分かって…すごく嬉しかったんだから」
「…そうか」
「…そうよ」
「…ありがとよ」
そうして二人はそっと唇を合わせる。唇を離した後も二人はしばらく抱き合っていたが、やがて何か気づいた様に、小次郎が不意に赤面しながら呟く。
「…そうか、そう言う事か。…ったく、御館の奴、やりすぎだぜ」
「どうしたの?小次郎さん」
小次郎の様子に彰子が身体を離して問いかけると、彼は苦笑しながら彼女に問い返す。
「今日…何日だ?」
「え?14日…あ…」
彰子も気づいたらしく、顔を赤らめて口元を覆う。小次郎は苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「ホワイトデーだから、お前に何かしてやれって事かよ。…まあ、気を利かせてくれたのは有難いけどよ」
「…もう、おじい様も光流も悪ノリが好きなんだから」
「そうだな。…でもその気持ちに甘えて…この近所のケーキ屋でケーキでも買って、夕飯は俺の手料理で悪いが作るから…ささやかにパーティといくか」
「…そうね。そうしましょ」
「じゃあ、せっかくだから彰子が一番気に入ったケーキにしたいな。一緒に買いに行こうぜ」
「いいの?あたしが一緒に行っても。近所の人とかマスコミに見られて騒がれたら、小次郎さん困るんじゃない?」
彰子の心配そうな言葉に小次郎は軽い、しかし真摯な気持ちは伝わる口調で返す。
「お互い様だろ?それは…もうばれてもいいさ。そうしたら俺は大声で叫んでやるから。『俺は彰子に心底惚れたんだ、悪いか』ってな」
「…もう」
「むしろお前の方がやばくねぇか?俺と付き合ってる事がばれたら」
小次郎の問いに、彰子も微笑んで答える。
「あたしも同じ様にするわ。『私は小次郎さんが好きでお付き合いをしているんです。何か言われる筋合いはありません』って」
「…彰子らしいな」
「でしょ?」
二人は笑い合うと、もう一度唇を合わせる。そうして二人は最高のケーキを買うために外へ出て行った。
翌日、彰子と朝食をとった後、『今日までいられるから、夕飯作って待ってるわね』という彰子の言葉に喜びを感じながら坊っちゃんスタジアムに行き、監督室で着替えて先発の不知火を呼ぼうとロッカールームに行くと、チームメイト達が彼を見てひそひそと話し出す。小次郎が怪訝そうにそれを見ていると、代表して知三郎が声を掛けてくる。
「兄貴」
「何だ?サブ」
「昨日スタジアムから女の人と一緒に帰ったでしょ。マドンナが見てて知り合いに似てるって言ってるんだけど、誰?」
「!」
まさかいきなりチームメイトにばれるとは思っていなかったので小次郎は絶句する。それを見た知三郎が呆れた様に更に言葉を重ねる。
「やっぱり…彼女って事か」
「…すまん、隠すつもりはなかったんだが、彰子…彼女の名前だが…に迷惑を掛けたくなかったんでな」
その名前を聞いて、マドンナが驚いた様に言葉を掛ける。
「まあ、やっぱり彰子お姉様だったんですの?いつの間にお付き合いを始めていらしたのですか?」
「…そういう話はノーコメントだ」
「へいへい、じゃあ監督、賭けまひょか。今日の試合勝ったら、馴れ初めとか聞かせてもらいま~」
「…負けたら?」
「負けたら監督怒るでしょう?『お前ら、たるんでるぞ!』って。勝つしかないじゃないですか」
「俺達、負けませんよ。だから後でゆ~っくり話を聞かせてもらいますから」
「…」
『気を引き締めろ』という自分の言葉を逆手に取られ、楽しそうに言葉を紡ぐチームメイトに小次郎は言葉をなくした。その様子を実直な不知火と土門は不憫そうに見つめていた――
――そして結局この日もアイアンドッグスは勝利を収め、無理やり小次郎のマンションについてきた一同に彰子と小次郎は戸惑いながら、マスコミ以上に厄介な面々のインタビューを受ける羽目になったというのは余談である――
「おい…本当にこっちに来たのか?」
『ええ、本当よ。今球場の入口にいるんだけど…これから会えるかしら』
「会いに行くに決まってんだろ?すぐ行くから…あ、すまねぇが嵐付きだが、いいか?」
『いいわよ、土佐犬とはいえ本当におとなしくって頭がいい子なんでしょ?それに…小次郎さんと付き合うんだから、嵐君にも慣れないと』
「ありがとよ。…じゃあ…そうだな、そのまま入口にいてもらえるか?他の奴らにばれると何かと厄介だし」
『ええ、待ってるわ。じゃあね』
そう言って電話を切ると小次郎はさっと着替えて荷物を手早くまとめ、ロッカールームにいるチームメイト達に『俺は悪いが先に出る。それぞれ片付け頼むな』と言い残して嵐を連れてスタジアムを出て入口を見回す。すると、中型のボストンバッグを持った春めいたサーモンピンクのワンピースに白のジャケット、白いパンプスという女性らしさを出したセミロングの真っ直ぐな黒髪の正統派美人が微笑んで近づいてきた。その普段見ているキャリアを前面に出したスーツ姿とは違う姿にどことなくどきりとしながらも、それを隠しつつ自分もその女性に近づき、声を掛ける。
「よお…久しぶりだな、彰子」
『彰子』と呼ばれたその女性は、にっこりともう一度微笑むと、言葉を返す。
「久し振りね、小次郎さん。元気そうで良かった…あ、この子が嵐なのね…うん、小次郎さんに似て端正な顔つきしてるわ。撫でて大丈夫?」
「ああ、怖がらねぇで撫でれば大丈夫だ」
「そう…じゃあお言葉に甘えて」
そう言うと彰子はにっこり笑いながら嵐の眼を見てその頭を優しく撫でる。嵐はその気持ちよさに目を細めながら『クゥ~ン』と鳴いた。それを見てまた彼女はにっこり笑うと、小次郎に向き直り、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「ごめんなさいね、急に来ちゃって」
彰子の言葉に、小次郎は照れくさそうに言葉を返す。
「いいさ。こんな嬉しいサプライズなら、いつだって受け取るぜ。…でも彰子、仕事は大丈夫なのか?」
「ええ。詳しい話は後でするけど…皆が寄ってたかって『たまには羽を伸ばしておいで』って送り出してくれたの。だから大丈夫」
「そうか。じゃあ…これからどうするか。彰子はホテル予約してあるんだろ?これからどっかで食事するにしろ、先にそっちにチェックインした方がいいな。その荷物からするとまだだろ?」
その言葉に、彰子は何故か顔を赤らめて俯く。小次郎はそれが不思議で問いかける。
「どうした?」
小次郎の問いに、彰子は恥ずかしそうにぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「実はね…行ってこいって言われたの昨日の今日で、皆は試合と往復の飛行機のチケットは用意してくれたのに、ホテルの予約はしてくれないで…あたしも探したんだけど皆満室で見つからなくて、行く場所がないのよ。…いざとなったら華子さんの所に泊めてもらおうと思ってるけど…もし、迷惑じゃなかったら…小次郎さんの所に…その、泊めてもらえる?」
「…」
彰子の珍しく大胆な言葉に小次郎は思わず赤面したが、その言葉が嬉しい気持ちもあって、その心のままに、しかし照れ隠しの無愛想な態度で応える。
「…しかたねぇな。俺がマドンナの家にお前を送って行ったら、あいつの事だから他の奴らに何言うか分かんねぇから…いいぜ。泊めてやるよ」
「…ありがとう」
「…じゃあ、荷物持ったままじゃ大変だし、嵐もいるから俺んちに直行するか。ここから歩いてすぐだからよ」
「…ええ」
そう言うと小次郎は彰子を案内しつつ自分のマンションへ連れて行く。部屋へ入れてリビングにあるソファに座らせ、嵐にエサと水をやり、コーヒーをいれ彼女の正面に座ってコーヒーを出す。飲んで一息ついた所で、彰子が嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「…でも、今日来られてラッキーだったわ。小次郎さんのピッチングが見られて、しかも完封の勝ち試合で」
「…ありがとよ。ところでよ」
「何?」
「何でまた急に仕事をほっぽり出して試合観に来たんだ?仕事を何より大切にするお前らしくねぇな」
小次郎の問いに、彰子は困った様に微笑んで答える。
「さっきの話の続きになるけど…おじい様と光流が『たまには仕事の事を忘れて羽を伸ばして来い』って言い出して、どうやら二人から依頼されてたらしい柊司さんが今日の試合のチケットと飛行機のチケット出して『ほら、今一番行きたそうな場所用意してやったから、無駄にならない様に後は俺達に任せて行け』って外堀埋めてきて…ほとんど強引に追い出されてきちゃったの」
「…そうか」
「光流もね、『そろそろ僕も姉さんの名代が務められる様になりたいから、力を試すためにも任せてみてくれないかな』って言って…その頼もしそうな様子で任せてみようって思ったの。…それにね」
「それに?」
「光流ったら、『その代わり、佐倉さんは貸してよね。僕、彼女の力は認めてるし…僕の力も彼女に見てもらって…認めてもらいたいんだ』って。…まさかそういう事になってたとは思わなくって。弟の恋路を邪魔したくないのもあって、任せる事にしたの」
「そうか」
二人は悪戯っぽく微笑むと、彰子がしみじみと言葉を紡ぐ。
「時が経つのは早いわね…あたしが社長継いだ頃はまだ中学生だったのに、すっかり専務が板について。あたしも歳取る訳だわ」
「彰子…」
その寂しそうな表情に小次郎は言葉が出てこなくなる。彰子は続ける。
「社長になって、もう13年…色々な事があったわ。お父様が急に亡くなって、おじい様の指名で大学在学中にいきなり社長を継がなくちゃいけなくなって…いくら女性が進出してきているとはいってもまだまだ男社会。若い女だからって見くびられない様に、いつも隙を見せずに過ごしてたわ。社内で確固たる味方はおじい様と、秘書として入ってもらった親友の千穂…つまり佐倉さんと、あたしの力を認めてくれた多村常務だけ。それどころかその頃専務だった孝彰叔父様や片岡常務みたいに会社を思いのままに操ろうとしている人までいた。そんな中で隠密の内部調査の人間と、研究職員を雇う関係で柊司さんと出会って…その経営センスの見事さが気に入って、表は経営コンサルタント兼名目上の常務取締役って肩書をつけて、内々は弟の教育係でうちに入ってもらって…その仕事ぶりと人間性を見ていくうちに、その姿に恋をした。でも柊司さんは報われないけれど、それでも絶対捨てられない愛を持っていたから見事玉砕。…それでもビジネスパートナーとしてうまくやって、バリバリ仕事はこなしてたから仕事だけは順調で、あたしは『うら若き女帝』なんてご大層な異名をもらって表向きは輝いてたけど、想いが届かない事でプライベートではやけになってた。そんな時に小次郎さんと出会って付き合っていくうちに…ああ、この人が本当のあたしの相手なんだって実感できて、段々と心が安らかになっていった。…だから、小次郎さんが社長としては輝いていても本当は傷ついていた『杉浦彰子』としてのあたしを立ち直らせてくれたの…ありがとう、小次郎さん」
「…彰子」
そう言ってにっこり笑う彰子の言葉に小次郎は愛しさと痛々しさが湧いてきて、彼女の隣に座り直すと、彼女の肩を抱いて囁く。
「出会ったあの時の修羅場でも思ったが…きつかったんだな。それに、辛い恋までしてたのか…」
「…」
彰子は黙ったまま小次郎に身体を寄せる。そうしてしばらくの沈黙の後に、彰子は静かに言葉を零す。
「…言ったでしょ?『小次郎さんがあたしの本当の相手なんだって分かった』って…今だから分かるんだけど、あたしの柊司さんに対する想いは、多分近所の優しいお兄さんに憧れる女の子みたいな感情だったんだなって…だって、柊司さんは身内やおじ様以外で初めてあたしを社長としてでも、杉浦一族の令嬢としてでもなく、ただの『杉浦彰子』として扱ってくれた男性だったの。…それまであたしの周りにいた男っていうのは、皆あたしの事を『やり手の女社長』や『杉浦本家令嬢』っていう肩書に目がくらんで近づいてきた男ばっかりだった。でも柊司さんは違ったの…社に入って初めて二人きりになった時の第一声…何だと思う?『あんた、護身術できるか?』よ?それであたしが『ボディーガードがついているから、そんなもの覚えていませんわ』って返したら『とっさの時に自分で自分の身を守れなけりゃ、こんなでかい所じゃやっていけねぇ。そんな甘い気持ちじゃこの食うか食われるかの経済社会は渡ってけねぇぞ。敵が多い社長で…頭や機転は切れてたとしても、力は男に負ける女や子どもなら尚更だ』っていきなりお説教。で、経営論は無視して最初にあたしと光流に護身術を教えたの。で、人を見る目を育ててくれて、経営論とかもあたしの話を聞いて、的確なアドバイスをくれるし、経営哲学に関しての議論も真剣にしてくれる。そんな柊司さんだったから、憧れに似た感情で恋していたんだなって…今なら思うわ」
「…彰子」
「そうして、そういう恋をしたから…小次郎さんへの想いにも気付けたんだって…今なら思うの。だって…小次郎さんも、あたしの事は社長だって知らなかったのに…あたしがあの修羅場で殴られそうになったのを止めてくれて、その後意気投合して飲んで…言ったじゃない。『あんた、いい奴だな。いい女でもあるけどよ…それ以上に『いい奴』だぜ』って。で、あたしが社長だって分かっても『…ま、何でもいいさ。彰子が彰子だから気に入ったんだし』って全く気にしない風情で…付き合い始めてさすがにあれだけ大企業だって分かった時には驚いたみたいだけど…それでも『どんな肩書でも彰子は彰子だもんな。俺が俺だって事と同じ様に。ただ周りが俺の『鳴門の牙』時代の素行知って付き合うのは許さねぇとか言われたら困るけどな』って笑って言ってくれて…柊司さんへの恋を知ってたおかげで、その言葉達が全部嘘じゃないってちゃんと分かって…すごく嬉しかったんだから」
「…そうか」
「…そうよ」
「…ありがとよ」
そうして二人はそっと唇を合わせる。唇を離した後も二人はしばらく抱き合っていたが、やがて何か気づいた様に、小次郎が不意に赤面しながら呟く。
「…そうか、そう言う事か。…ったく、御館の奴、やりすぎだぜ」
「どうしたの?小次郎さん」
小次郎の様子に彰子が身体を離して問いかけると、彼は苦笑しながら彼女に問い返す。
「今日…何日だ?」
「え?14日…あ…」
彰子も気づいたらしく、顔を赤らめて口元を覆う。小次郎は苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「ホワイトデーだから、お前に何かしてやれって事かよ。…まあ、気を利かせてくれたのは有難いけどよ」
「…もう、おじい様も光流も悪ノリが好きなんだから」
「そうだな。…でもその気持ちに甘えて…この近所のケーキ屋でケーキでも買って、夕飯は俺の手料理で悪いが作るから…ささやかにパーティといくか」
「…そうね。そうしましょ」
「じゃあ、せっかくだから彰子が一番気に入ったケーキにしたいな。一緒に買いに行こうぜ」
「いいの?あたしが一緒に行っても。近所の人とかマスコミに見られて騒がれたら、小次郎さん困るんじゃない?」
彰子の心配そうな言葉に小次郎は軽い、しかし真摯な気持ちは伝わる口調で返す。
「お互い様だろ?それは…もうばれてもいいさ。そうしたら俺は大声で叫んでやるから。『俺は彰子に心底惚れたんだ、悪いか』ってな」
「…もう」
「むしろお前の方がやばくねぇか?俺と付き合ってる事がばれたら」
小次郎の問いに、彰子も微笑んで答える。
「あたしも同じ様にするわ。『私は小次郎さんが好きでお付き合いをしているんです。何か言われる筋合いはありません』って」
「…彰子らしいな」
「でしょ?」
二人は笑い合うと、もう一度唇を合わせる。そうして二人は最高のケーキを買うために外へ出て行った。
翌日、彰子と朝食をとった後、『今日までいられるから、夕飯作って待ってるわね』という彰子の言葉に喜びを感じながら坊っちゃんスタジアムに行き、監督室で着替えて先発の不知火を呼ぼうとロッカールームに行くと、チームメイト達が彼を見てひそひそと話し出す。小次郎が怪訝そうにそれを見ていると、代表して知三郎が声を掛けてくる。
「兄貴」
「何だ?サブ」
「昨日スタジアムから女の人と一緒に帰ったでしょ。マドンナが見てて知り合いに似てるって言ってるんだけど、誰?」
「!」
まさかいきなりチームメイトにばれるとは思っていなかったので小次郎は絶句する。それを見た知三郎が呆れた様に更に言葉を重ねる。
「やっぱり…彼女って事か」
「…すまん、隠すつもりはなかったんだが、彰子…彼女の名前だが…に迷惑を掛けたくなかったんでな」
その名前を聞いて、マドンナが驚いた様に言葉を掛ける。
「まあ、やっぱり彰子お姉様だったんですの?いつの間にお付き合いを始めていらしたのですか?」
「…そういう話はノーコメントだ」
「へいへい、じゃあ監督、賭けまひょか。今日の試合勝ったら、馴れ初めとか聞かせてもらいま~」
「…負けたら?」
「負けたら監督怒るでしょう?『お前ら、たるんでるぞ!』って。勝つしかないじゃないですか」
「俺達、負けませんよ。だから後でゆ~っくり話を聞かせてもらいますから」
「…」
『気を引き締めろ』という自分の言葉を逆手に取られ、楽しそうに言葉を紡ぐチームメイトに小次郎は言葉をなくした。その様子を実直な不知火と土門は不憫そうに見つめていた――
――そして結局この日もアイアンドッグスは勝利を収め、無理やり小次郎のマンションについてきた一同に彰子と小次郎は戸惑いながら、マスコミ以上に厄介な面々のインタビューを受ける羽目になったというのは余談である――