「いらっしゃい…おっ、土井垣君じゃないか。久しぶり」
「こんばんはマスター、お久しぶりです」
 都内某所のある小さな飲み屋、この店はその親しみやすさから土井垣が馴染みとしている店だった。とはいえプロ野球選手としての仕事も付き合いも多いため最近はなかなか来られずにいたのだが、久しぶりに暇ができたので何ヶ月かぶりに足を伸ばしたのだ。相変わらず気さくで明るい店主の様子に土井垣は思わず笑みが漏れる。
「店のテレビで見てるよ、相変わらずの活躍で結構だね。じゃあいつも通りビールから行くかい?それとも熱燗にするかい?」
 ちゃんと自分の好みを覚えていてくれる店主の気遣いが土井垣には嬉しい。こうした店の雰囲気が彼のお気に入りだった。
「ありがとうございます。じゃあ今日は少し冷えるから熱燗で…」
「了解。…そうだ、みんな来てるよ。今日は人数多いから奥にいるけど…どうする?」
 店主の悪戯っぽい言葉に土井垣は照れた様に苦笑すると、ぼそりと応える。
「…久しぶりだし挨拶に行ってきます」
「じゃあお酒はそっちに持って行ってもらうから、ゆっくり話すといいね」
「はい、ありがとうございます」
 土井垣は照れた表情のまま店主に礼を言うと、『みんな』がいるという奥に歩いて行く。奥の座敷は襖が閉じられていたが、それを通して楽しそうな笑い声や歌声が聞こえている。彼は『相変わらずだな』と思い笑うとふすまを開けた。
「あれ?まだ来てない物あったっけ…っと、土井垣君だ!久しぶり~!」
 ふすまが開いた事で振り返った、土井垣よりかなり年配である部屋の中の面々は、土井垣の姿を確認すると嬉しそうに声を上げる。彼らはこの周辺を拠点にしている合唱サークルの人間で、土井垣がここを馴染みにする前からのこの店の常連でもある。そのため土井垣とこの店で頻繁に顔を合わせる事もあっていつの間にか親しくなり、彼がここに来ると一緒に飲む仲になっていたのだ。土井垣は久しぶりの面々の明るさに圧されながらもきっちり挨拶をする。
「お久しぶりです。皆さんがいらしてるってマスターに教えてもらったんでちょっと挨拶に…」
「挨拶なんていいからいいから、今来たの?」
「一人なの?こっちで飲もうよ、また色々話を聞かせて欲しいし」
 土井垣が控え目に口を開くと、そこにいた面々は口々に彼を招き入れる。変わらず土井垣を迎え入れてくれる気さくな雰囲気が嬉しくて彼は座敷へ入った。
「はい、じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」
「うん、おつまみも食べかけだけど一杯あるから食べなよ。プロ野球選手なんだから、体力はきっちりつけないとね」
「はあ、いつもすいません」
「何言ってるの、いつも土井垣君も一緒にお金払ってるんだから、食べないと損でしょ」
「そうですね」
 彼らの言葉に土井垣は楽しげに頷いた。彼らにとって、いや、この店全体が土井垣のプロ野球選手という肩書きは職業上の事であり、それ以上でも以下でもないのだ。土井垣がこの店を馴染みとし、また彼らと親しくなったのは自分を特別視しない彼らのそうした態度が彼にとって心地よいものだったからである。実は彼らと親しくしているのはもう一つ理由があるのだが…。彼らの取り置きしている焼酎を注いでもらい、自分が頼んでいた熱燗を他の人間に振舞いつつしばらく土井垣は彼らと話していたが、ここへ入ってからずっと気になっていた『もう一つの理由』についてそれとなく口にする。
「そういえば上野さん…宮田さんは今日いないんですか?」
 土井垣の言葉に『上野さん』と呼ばれた女性は何かを感じたのか、からかう様に問いかける。
「何?土井垣君がここに挨拶に来たのって、もしかして宮田ちゃん目当てだった?」
「い、いえ、そういう訳じゃなくて、あのうるさい位賑やかな声が聞こえないからどうしたかと思っただけで…」
「宮田ちゃんなら…ほら、そこで休憩中」
 狼狽する土井垣を見て楽しそうに笑いながらも、上野は表情を少し困った様に変え、部屋の隅を差す。そこには長い髪をアップにした土井垣に近い年恰好の女性が横になっていた。今までこの面々と一緒に飲んでいてお互い酔っ払う事は何度かあったし、その時は飲んでいるのだから当たり前と思っていたが、潰れるまで飲む事は決してなかったからか、今回の彼女の様子に対しては何故かいつもとは違う感情が湧いてきた。パンツスーツであるし、腰から下は隅に片付けてあった机の下に収めて、小さく縮こまる様に転がっているのでそれ程見苦しくはないものの、女性が潰れているという状態は土井垣としてはあまりいい気持ちがしないし、何より彼女をこんな状態になるまで飲ませたこの面々は何をやっていたのかという気持ちが湧いて来る。土井垣はそれを楽しげに飲んでいる面々にぶつけた。
「何で潰れる様な飲み方させてるんですか。皆さんらしくないですよ」
「え?…ああ、宮田ちゃんね。大丈夫大丈夫、いつもの事だからそのままにしておけば」
 彼らは土井垣の言葉にもまったく動ぜず、明るい調子で応える。その言葉が癇に障り、彼は更に咎める様に続けた。
「他の人なら皆止めてるでしょう。それをこんなになるまで…」
 土井垣の言葉に、上野と彼の言葉を聞いていたもう一人の男性が宥める様に声をかける。
「ごめんね。サワー一杯だったし、ちゃんと食べてるみたいだったから大丈夫だと思ったんだけど…気がついた時には『すいません』って言ってそこに横になっちゃって…」
「僕も宮田ちゃんと仕事の後しょっちゅう飲んでるから彼女の許容量は知ってるつもりだったんだけど…久しぶりにここで飲んだから、宮田ちゃんはここが『例外』だって事忘れてたんだよね」
「『例外』…?どういう意味ですか沼田さん」
 『沼田さん』と呼ばれた男性の不可解な言葉に土井垣は思わず問い返す。沼田は困った様に頷くと言葉を続ける。
「うん。確かに彼女お酒強い方じゃないけど、普段ならそれなりには飲める方なんだよ。彼女自身も自分の酒量は心得てるからまずいと思ったら止めるしね。でもここのお酒はそれが当てはまらないんだ。何でかいつも普通に飲める程度の量でも潰れちゃうんだよね。彼女も『おいしいのにここのお酒とは相性悪いみたいだ』って言ってここではほとんどアルコール類は口にしないし」
「そういえば…」
 土井垣も思い当たる事があって、その言葉に同意する。周囲と全く違和感がない彼女の一際明るい様子に気を取られていたが、今から思うと彼女はいつも全くと言ってもいい位アルコールを口にしていなかった。時々マスターが珍しいお酒や焼酎を振舞う時には手を出していたが、それも本当に味見程度で『飲んだ』と言うには程遠い量。その事に気付いたものの、そうするとまた新たな疑問が沸いて来る。
「だとすると分かっているのにわざわざ何で…」
 土井垣の言葉に沼田と上野は溜息をついて答える。
「多分…潰れるって分かってても飲まないと耐えられなかったんだろうね」
「それに、ここの皆なら潰れても何しても大丈夫だって分かってるから飲んだって面もあるねぇ。今日土井垣君が来たのは計算外だったろうから。でなきゃ彼女このメンバーで飲むと荒れるの分かってるから、土井垣君が来るって分かってたら絶対飲まないだろうしね」
「飲まないと耐えられないって…それに荒れる…?」
 いつも土井垣が見ていた彼女には似つかわしくない意外な言葉に彼は驚く。その表情に上野と沼田は顔を見合わせて困った様な表情を見せていたが、やがてゆっくりと口を開く。
「土井垣君には黙ってて欲しかっただろうけど…まあ、ここまで見られちゃったなら教えても宮田ちゃんも怒らないだろうし、言っちゃうか」
「宮田ちゃん、普通の飲みなら普通に振舞う様に気をつけるけど、仲のいい人と飲む時には少したがが外れる事があるんだよね。泣いちゃったり、ああいう風に潰れたり…」
「まあ暴れたりはしないし、最後には自力でちゃんと帰るから皆もそれ程気にしてないんだけど…彼女の方が自分のした事覚えてて後々気にするから、皆先刻みたいな態度で接するようにしてるのよ」
「そうなんですか。…でもそれなら何で今日はまた…」
 彼女とはここで何度も飲んで話も色々としておりそれなりに親しくなっていると思っていたが、自分がいる時には一切アルコールを口にしていない彼女。二人の言葉で土井垣は彼女にとっての自分の位置を知らされた様で軽い胸の痛みを感じた。しかしそれ以上に彼女がそこまで分かっていながら今の状態になった理由が気になり、土井垣は二人に問いかける。彼の問いに二人は苦虫を噛み潰した様な表情に変わるとそれぞれ答えた。
「仕事のせいよ。彼女の職場も職種も仕事がかなりハードだし、しかも彼女仕事のやり方で上から色々言われてるみたいなのよね…かなり理不尽な事。お酒でも飲まないとやってられないんでしょ?沼ちゃん」
「うん。あそこで上の言う事まともに聞くの彼女だけだから、標的にされてるんだよね。気にしなくていいって言ってるんだけど、彼女真面目だから考え込んじゃうし…まあここにいる時位は仕事の事を忘れさせるようにしようと思ってね。飲んで忘れられるならそれもいいかなって事で」
 沼田の呑気な言葉が先刻の様にまた土井垣の癇に障った。彼らは彼らなりに彼女を心配しているのは痛いほど分かる。分かるのだが腹が立ってきて、土井垣はいつの間にか声を荒げていた。
「でも潰れる様な飲み方を許すのは良くないんじゃないですか?気にしていないならまだしも、いつも後で気にしているなら結局後で彼女の辛さが増えるだけじゃないですか。それにいつもの潰れ方だと思い込んでいて、万一彼女に何かあったらどうするんです!」
 土井垣の言葉に沼田と上野は少し驚いた様に顔を見合わせると、何故かおかしそうに吹き出した。その様子に土井垣は更に頭に血が上る。
「何がおかしいんですか!」
「いや、ごめんごめん。確かに土井垣ちゃんの言う通り、潰れるまで飲むっていうのは本当は駄目だよ。でもそれは宮田ちゃん自身ちゃんと分かってるから…それに」
「それに?」
「誰より今の姿、土井垣ちゃんに一番見せたくないと思ってるのは宮田ちゃんだしね。でしょ?」
「はい…」
 沼田が彼女の転がっている方向に声をかけると、潰れているはずの彼女がうつぶせのまま答える。土井垣が驚いて彼女の方を見ると、彼女はゆっくりと起き上がりばつの悪そうな表情で三人の座っている傍に近付き、上野と沼田に頭を下げた。
「いつもいつもご迷惑かけてすいません…ほんとここの皆さんには甘えてばっかりで…」
「いいのよ、気にしなくて。宮田ちゃんくらいの甘え方ならまだ大丈夫だから」
「それより仕事時間終わったら仕事は忘れる事。オンオフしっかりできる様にしなくちゃね」
「はい…」
 そうして謝った後今度は土井垣の前に座って姿勢を正し、手を付いて心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「土井垣さん、こうなるのが分かっててあえて飲んだのは私ですから…お二人を怒らないで下さい。しかも土井垣さんにまで醜態を晒してしまって…本当にすいません」
 いつもの底抜けに明るい彼女とは違うしおらしい態度に土井垣は思わず狼狽しながらも、きちんと言うべき事は言う。
「い、いや、もう過ぎた事だし気にするな。でもな、自棄酒や潰れる様な酒の飲み方は身体に良くないからやめた方がいい」
「はい。なるべく気をつけます…」
 土井垣の言葉にしゅんとする彼女を少し励ます様に、彼は明るい口調で続ける。
「酒は嫌な事を忘れるために飲むより、楽しく飲む方がいいだろう?」
 土井垣の言葉に彼女の表情がぱっと明るくなった。
「はい」
 彼女はいつも土井垣に見せている周囲まで明るくする様な表情で頷くと、横で楽しげに見ている沼田と上野に対して少しむくれたような口調で声を掛ける。
「そうだ。沼田さん、上野さんも」
「何?」
「どしたの宮田ちゃん」
「ご迷惑かけたのは申し訳ないですけど…私の酒癖の事はともかく、何で職場の事まで土井垣さんに全部ばらしてるんですか。そこまで話す必要ないでしょう?」
「…え?」
 先程の会話を全部聞いていたかの様な彼女の言葉に土井垣は訳が分からなくなる。彼女の言葉に二人は動じる事もなく、逆に彼女をからかう様に応酬する。
「だって、宮田ちゃんは見えてないだろうけどさっきの土井垣君、ちゃんと理由言わないと納得しそうにない顔してからね~。何となく気付いてはいたけど、ホント土井垣君宮田ちゃんの事になると融通利かないんだから」
「いいじゃん、今まで『土井垣さんには醜態晒したくない』って気を張ってたけどこれでもうばれちゃった訳だし、これからは土井垣ちゃんにも甘えちゃえば?あの様子だといくら甘えても多分大歓迎だと思うよ。…ね、土井垣ちゃん?」
『…』
 二人の言葉に、土井垣も彼女も赤面して絶句した。いつの間にか土井垣に注目していた座敷の人間がおかしそうに笑いながら、絶句している土井垣を口々にからかう。
「そっか、土井垣君は初めて見たから知らなかったんだよね~」
「宮田ちゃん確かに潰れる事あるけど、お酒が回って身体に力が入らなくなるだけで意識はしっかりしてるのよね。それにそうなるのも15分くらいで、その後はすぐ元に戻るし」
「意識なくすまで飲む事は絶対にないから僕達も安心してほっといてるんだ」
「まさか土井垣君があんなに怒るとは思わなかったよ~最初に言っといた方が良かったね」
「…~っ!」
 どうやら彼女本人にはともかく周囲には自分の気持ちがばれていて、今回彼女が潰れているのを好機にすっかりはめられたらしい事に気付いて土井垣は呆然とする。呆然としながらも彼女を見ると、彼女も彼の気持ちにはともかく周囲の思惑には気付いたらしく、先刻より更に赤くなって俯いていた。二人の間にしばらく気まずい沈黙が続いた後、彼女が顔を赤らめたまま小さな声で言葉を零した。
「えっと…お二人を怒らないで下さいって言いましたけど…私の事を心配して怒って下さったのは嬉しかったです。…心配をかけたのは申し訳ありませんでしたけど…ありがとうございます」
 彼女の言葉に他意はなく、自分の彼女に対する感情は彼女自身には全く届いていない事は分かっているのだが、それでも彼女の言葉が彼には温かく響く。この言葉と表情に土井垣は何かが切れた。
「…まあ、女性を潰すのは良くないと思ったからな」
「はあ」
「でもな、俺は君がどんなに甘えても酔って荒れても大丈夫だから…」
「…は?」
 彼の言葉の意図が分からずきょとんとした表情を見せている彼女を土井垣は引き寄せると、抱え込む様に抱き締めた。抱き締めているので表情は見えないが、訳が分からず硬直している彼女の状態は身体ごしに伝わってくる。土井垣はそのまま囁く様に、しかし座敷の人間にはしっかりと聞こえる声で今言えるだけの自分の想いを口にした。
「だから、もっと俺を頼れ…他の誰よりもな」
「…」
 硬直していた彼女の体から力が抜けた。外野から聞こえてくる歓声や口笛に土井垣は我に返り『しまった』とは思ったが、拒絶の素振りを見せない彼女の様子にすぐにそれもどうでも良くなった。周囲の冷やかしに照れながらも二人はしばらくそうしていたが、彼女は抱きすくめられるままであまりに何の反応も示さない。土井垣はどうしたのかと身体を離して彼女を見ると、今度は彼がそのまま硬直した。
「あれ、どしたの土井垣く~ん?」
 からかう様にギャラリーの一人が二人を覗き込むと、一瞬の間の後大爆笑する。その様子に何があったのかとそれぞれに二人を注視したギャラリーもその理由が分かり、座敷は大爆笑に包まれた。
「やだ、宮田ちゃんオチてるわよ~!」
 この場合の『オチた』というのは土井垣の告白に陥落したと言う意味ではない。それどころか彼女は寝息を立ててすっかり眠り込んでいたのだ。予想を遥かに越えた冗談の様な展開に、ギャラリーは口々に土井垣にとどめを刺す。
「あれだけ切羽つまってる雰囲気で寝ちゃうなんて、ホント宮田ちゃんて変わってるよねぇ~」
「でも、という事はさっきの土井垣君一世一代の告白は…チャラ?」
「うわ~土井垣君可哀相~」
 口々にとどめを刺され、眠り込む彼女を支えたまま呆然とする土井垣を見ながら、上野と沼田がぼそぼそと囁きあう。
「…そういえば宮田ちゃんのここ何日かのシフトって…」
「ええと、一昨日まで3連泊の出張、昨日は休みのとこをトラブルがあったから返上して、今日も6時出勤で出張だったっけ…しかも残務処理が終わらなくて、フレックスで2時終わりなのに僕と一緒に結局7時過ぎまで残業してたし」
「疲れてたんだねぇ…よっぽど。…でも」
 上野は苦笑しながらも楽しそうに続ける。
「他人といるのにあんな無防備に眠り込んじゃうなんて、いつもの宮田ちゃんなら絶対ないよね。あの様子だと多分…」
「うん、土井垣ちゃんの気持ちはちゃ~んと伝わってるよ。…でも面白いからもう少しほっとこうか?」
「そうだね、もうちょっと土井垣君で遊ばせてもらおう」
 決死の告白をすっかり外され(たと思い込み)呆然とする土井垣とそれをからかうギャラリー、そしてそうした様子を面白そうに見ている傍観者二人と三様の姿が絡まりあいつつ、小さな飲み屋の夜は今日も賑やかに更けて行くのだった。