「…しまった、今日は休診だったか…」
 熱と外気の寒さで顔を赤くした土井垣は、クリニックの前で溜息を付いた。彼にとって今は貴重なオフなのだが、近年珍しくある理由から風邪をひいてしまいあまりに熱が下がらないので、仕方なくかかりつけとしている近所のクリニックに来たのだ。しかしいつもと違い、外から見た室内は照明もついておらず自動ドアの前に立っても開く気配がない。熱でぼんやりした頭でよく考えてみると、今日はこのクリニックの休診日であった事に気が付いた。
「困ったな…とりあえず解熱剤くらいはもらおうと思ったんだが」
 土井垣としては風邪程度の事で医者に行くのはあまり気が進まないが、今回は経験上どうも熱が下がりそうにない事が気になる。そして気になる事がもう一つ。
「あいつにはこれ以上具合の悪い姿を見せたくないしな…」
 彼は今マンションで自分の帰りを待っている人間の事を思う。『その人間』は彼が自分のせいで風邪をひいてしまったと気にしていた。これ以上この状態が続くのは『その人間』の心配を募らせるだけだと思うとどうも居心地が悪い。どうしたものかと熱でまとまらない頭だが考えてみた時に、財布に入っているもう一枚の診察券の事を思い出した。こちらは地下鉄でいくらかかかるが、確か今日は休診ではなかったはずだ。土井垣は少し考え、踵を返して地下鉄の入口に向かった。

「あれ?土井垣さんじゃないですか。どしたんですか?お酒タイムにはまだ早いですよ」
「…出会い頭にそうきたか、宮田さん…」
 地下鉄に乗って『その病院』の前に来た時、隣のビルから出てきたブルーのユニフォームを着てカルテらしき冊子を持った女性がからかう様な屈託ない口調で土井垣に声を掛けてきた。彼女の名前は宮田葉月、彼女が入っているサークルのメンバーが土井垣と良く飲む仲間だった事から彼と知り合い、彼女自身もそういう時には彼とよく話す様になっていた間柄である。土井垣は『そういえば彼女はここの保健師だったか』と思い返し、苦笑しながら答える。
「いや、今日は飲みにじゃなくてここに患者として来たんだ。診察しているよな、今」
 土井垣の言葉に、女性はからかう様な顔つきをやめ、神妙な表情と口調で答える。
「あ、はい。内科と呼吸器が開いてますけど…」
「だとすると…多分風邪だと思うんだがどっちがいいかな」
「今の状態が長引いてなければ内科で大丈夫ですよ。でもそのうるうるした目だと、熱ありますよね。インフルちゃんじゃなきゃいいんですけど」
「『インフルちゃん』?」
「インフルエンザの事ですよ。最近流行ってますから…あ、引き止めてすいません。早く診てもらって下さいね」
 彼女はそう言うと土井垣を促して一緒に病院に入り、受付の女性に「この人内科ですからよろしくお願いします」と彼をさして声をかけた後、受付の女性が彼に対して応対をし始めたのを確認してから彼に軽く会釈をしてエレベーターの方向へ歩いて行った。土井垣は受付の質問に応対しつつ、去って行った彼女を見送って『本当に仕事に関してはしっかりしているんだな』と驚いた。飲んでいる時に他のメンバーからその仕事ぶりの話は聞いていたが、彼女は元々病院内勤務ではない事もあり、何度かここに来ているとはいえ、彼が実際に彼女の仕事の様子を見たのは実は初めてである。しかも彼女が飲んでいる時の危なっかしさからは考えられない姿でもあったので、彼は改めて感心しつつそのギャップのある姿をマンションで待つ人間に無意識に重ね合わせた。
『やっぱり彼女はあいつによく似ているな…っと、何であいつの事を考えるんだ!』
「あの~、大丈夫ですか?」
「え?…ああ、すいません。ちょっと考え事をしてしまって…」
「そうですか。…では土井垣将さん、内科で受付をしますので待合でお待ち下さい」
 無意識下の思考で赤い顔が更に赤くなる土井垣を見て受付の女性は怪訝そうに声を掛ける。土井垣が慌てて答えると彼女は納得した様に頷いて事務的口調で土井垣を促した。土井垣は待合席に座ると、ぼんやりと先程考えた人間の事をもう一度考える。
「あいつ、俺がここに来ている事を知らないからな…あまり待たせると心配するかな。連絡した方がいいのかどうか…」
 土井垣が迷っていると待合にあるカウンターから「土井垣将さーん」と声が掛かった。この病院では診察の前に簡単な問診があるのだ。土井垣はゆっくり立ち上がるとカウンターへ歩み寄った。
 
 問診の後10分程して診察室からアナウンスで呼び出しがかかり、土井垣は診察を受ける。医師からは熱が高いため水分補給と解熱のために点滴の処置、またインフルエンザの疑いもあるため検査を指示された。全部で1時間程かかると聞いた土井垣は考えた末に処置の前に電話をさせてくれと頼み、病院内の公衆電話からマンションに電話をかける。数コール後、先刻思いを馳せた今自分の帰りを待っている人間が電話口に出た。
『…あ、土井垣さん。随分時間かかってますね、大丈夫ですか?』
「ああ、すまんがいつものところが休診で別の病院に行ってるんだ。で、これから検査と点滴をするからもうしばらくかかりそうなんでな。…少し遅くなるから」
『点滴って…本当に大丈夫なんですか土井垣さん!』
 『点滴』という普段あまりお目にかからない処置に、電話口の人間はかなり慌てている。その様子に土井垣は『余計な事を言ってしまったかな…』と思い、宥める様に言葉を重ねる。
「熱を下げるのに一番手っ取り早いそうだからやるだけだ…心配いらん。とにかくそういう訳で遅くなるから…」
『そんな事言ったってそれだけ大変なんじゃないですか!その病院どこですか!?迎えに行きます!』
「いらん!…俺は大丈夫だから、お前はそこで待ってろ」
『…分かりました。…本当に大丈夫なんですね』
「ああ、大丈夫だから…それじゃあな、切るぞ」
 『迎えに行く』と言った電話口の人間の言葉に彼は『まずい!』と思い、一瞬声を荒げかけたが、こういう時には静かに声を掛けた方がこの人間は言う事を聞く事をとっさに思い出し、なるべく落ち着いた口調で宥める様に話し掛けて押さえる。電話口の人間が不本意そうだが納得したのを確認してから電話を切ると、彼は大きく溜息を付いた。万が一本当に迎えに来たら…という事を考え、土井垣は頭が更に痛くなった気がした。
「あいつはここを知らんだろうが…来るなよ…頼むから」
「今の、彼女ですか?」
「うわっ!…宮田さん、人の電話を盗み聞きしていたのか!」
 突然後ろから声を掛けられ土井垣が驚いて振り向くと、葉月がにっこり笑って立っていた。彼はどこまで彼女に聞かれたのだろうと慌てつつも、人の電話を聞いていた彼女の行動に少し腹が立ち、彼女に説教をする。
「宮田さん、人の電話を盗み聞きするのはどうかと思うぞ。君もやられたら嫌だろう」
 土井垣の説教にしょげ返る事もなく、葉月はにこにこと笑ったまま応える。
「別に盗み聞きしてませんよ。傍を通ったらちょっと聞こえただけです。でもその様子だと彼女さん、すごく心配してるみたいですね」
「今のは…別に彼女じゃない。とにかく人の電話は気軽に聞かない事だ。分かったな」
「は~い…っと、ほら看護師さん呼んでますよ。早く処置室に行かないと」
 分かった様な分からない様な気のない返事をすると、葉月は処置室の方を指す。土井垣が指した方向を見ると、看護師が「土井垣さ~ん?」と呼びながら待合を見回していた。彼はいつもの迫力はないが咎める様に葉月を睨みつけると、踵を返して看護師の方に歩み寄って行く。処置室に入る前にもう一度振り返ると、葉月はニコニコ笑っいながらひらひらと手を振っていた。職員がこんなに患者に馴れ馴れしくていいのかと思いつつも、元々この病院は規模が小さい事と職業病に強く、自分の様な短期の患者より長く通っている患者が多いため患者と職員の距離が近いと聞いた事があるのを思い出した。実際ああした会話をしていた自分達を咎める様な様子は患者にも職員にも全くなかった事に土井垣は苦笑する。
「こういう雰囲気がいい面もあるのかもしれんがな…」

 そして土井垣はまずインフルエンザの検査をした後、結果を待つ間に点滴を打った。点滴など大げさだと思いつつも、薬剤が入って行くうちに少し身体が楽になっていくのを感じ、いつの間にか眠ってしまう。目が覚めると点滴はほぼ終わっており、間をおかずに看護師が来て点滴を外し、もう一度診察室へ促され検査の結果が医師から伝えられた。結果はやはりインフルエンザで、医師は症状と処方する薬の内容を説明すると3日後にもう一度来る様に指示を出し、診察は終わった。会計を済ませて処方箋をもらい、薬局へ行こうと病院から出ると葉月が隣のビルから小さなビニール袋を持って出てきた。
「…終わったみたいですね。土井垣さん」
「宮田さん、偶然にしては頻繁に会うな」
 無愛想な表情で口を開く土井垣に、葉月はにっこり笑ったままさらりと応える。
「いいえ~。受付の人に、『土井垣さんの会計が回って来たら内線入れて』って頼んどいたんです。彼女、私の友達ですし」
「あのなぁ…個人情報を簡単に垂れ流していいのか君の病院は」
「病院内部の会話ですから個人情報漏洩になりませ~ん…で、風邪で済みました?」
 口調は軽いが、彼女が心底自分を心配をしているのは良く分かる。その様子に土井垣は正直に状態を話す気になり、ぼそりと答えた。
「いや…インフルエンザだったらしい」
「そですか…早く治るといいですね。沼田さんと上野さんも土井垣さんが来てるって聞いて心配してましたよ。それで…これあげます」
 葉月は持っていた小さなビニール袋を差し出す。土井垣が受け取って中を見ると、つやつやとした大きめのオレンジが3つ入っていた。
「これは…どうしたんだ?」
「今日の仕事でお土産に一杯もらったんです。お見舞いと言うかおすそ分けと言うか…それ食べてビタミンCでも補給して下さい」
 方法はともかくとして彼女の自分に対する心配と気遣いに、土井垣は素直に感謝した。
「悪いな。でも何で3つなんだ?さすがの俺でも食いきる前に飽きそうだ」
 土井垣の素朴な問いに、葉月は(土井垣にとって)彼女の今までの気遣いを全てぶち壊す様な爆弾を落とした。
 「一つじゃ物足りないでしょう?それに…不知火さんがいるんですから不知火さんに一つ。もう一つは二人で仲良く分けて食べればいいと思ったんで」
「なっ!…何で宮田さんがそれを…」
 熱で赤い顔を更に赤くして狼狽する土井垣の様子に、葉月はわざとらしく驚いた様子を見せる。
「え?ビンゴだったんですか?さっきの電話の様子でもしかして…と思ってカマかけてみただけなんですが…」
「それにしてはさっきは『彼女ですか』と聞いていた様だがな」
「あそこで下手に不知火さんの名前出したら、土井垣さん怒ると思ったんで」
「…」
 土井垣は軽いめまいを覚えた。あれだけの電話で彼女には全てお見通しだったとは…しかし、恋人はともかく山田などチームのメンバーとは思わずに『不知火』と名指しした彼女が不思議に思えて、彼は素直にそれを口にする。
「しかし、何で不知火だって分かったんだ?」
「だって人に対する対応であれだけ土井垣さんが優しくなるのって、私が知ってる範囲で不知火さん位しか思いつきませんから。…まあ、彼女がいるとかなら別ですけど、情報に強いサークルの方達と飲んでても、そういう話はとんと聞きませんからねぇ」
 よく通るメゾソプラノの声でコロコロと笑いながら答える葉月の言葉に、土井垣はまためまいを覚えた。彼女の言葉には陰湿さや嫌らしさがないせいか怒る気にはなれないが、この言葉の内容だと彼女の頭の中には『不知火=自分(土井垣)の恋人』という図式でもできているのだろうという予測がつく。いや、実際もある意味それに近い仲とも言えなくもないが、他人にそう思われるとなると恥ずかしさのあまり自決したくなってくる。
「宮田さんは…俺と不知火が恋人同士だとでも…?」
 沈痛な低い声で呟く土井垣に、葉月はくすりと笑い、今までとは違うやんわりとした表情を見せて応える。
「ああ、言い方が悪かったですね。恋愛感情があるなしは関係ないです。不知火さんは土井垣さんにとって、とっても大切な人でしょう?恋人とは違うけど土井垣さんにそういう人がいる、あるいはできたとしたらそれと同じくらいの位置を占める人で、だからすごく不知火さんには優しくなってる…そういう意味ですよ」
「~っ!…」
 土井垣は脱力した。普段は自分が説教している立場の人間なのに、今回は彼女に全く敵わない。病気のせいで気が弱くなっているせいもあるかもしれないが、彼女は本当は自分達の事を全て知っているのではないかとも感じてしまう。脱力して溜息を付く土井垣を見て、葉月は心配そうに声を掛けた。
「すいません、病気の土井垣さんに長話させて。早く帰って休まないと。…じゃあ、お大事にして下さい」
「ああ…オレンジありがとうな」
「はい。また元気になったら一緒に飲みましょうね。不知火さんにもよろしく言って下さい。それから…」
「それから?」
 土井垣が問い返すと、葉月は今までで最高の微笑を見せながら最大の爆弾を落とす。
「しっかり看病してもらって下さいね、不知火さんに」
「!」
 彼女の言葉に土井垣はすっかり顔を赤くして絶句した。彼女の言葉は素直な気持ちから出たもので何の他意もない事は表情や口調からもよく分かる。しかし彼にはその微笑みも自分を弄ぶ悪魔の微笑みに見えてならなかった。呆然とする彼を取り残して、彼女は会釈するとビルに入っていった。彼は呆然としたまま空を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「さっさと薬をもらって帰るか…」
 『早く帰って寝てしまおう…』そう思いながら、土井垣は薬局へ向かって歩き出した。