夕刻のある事務所の一室。中にいる数人の職員と思われる人間達がオレンジを食べながら取りとめもなく話していた。
「おいしいですね~このオレンジ」
「そう?私はもう少し熟したくらいの方がいいけど…」
「俺はこの位の方がいいな。でも市場直送の果物が月一で食えるなんてここの特権だよな」
「そうね~たくさんもらうけど病院中に配るって程でもないから。いいじゃない、仕事に行ってるのはうちだけなんだし」
「そうだな」
「あ、そうそう、そういえば…」
 話している女性の一人が何か思い出した様に口を開くと、男性の一人が耳を塞ぐ仕草をする。
「何?大橋さん。入力の話なら今日はもう聞かないよ」
「もう、違うわよ久松さん。さっき病院の方に行ったらね、有名人が待合にいたのよ~!」
 『久松さん』と呼んだ男性の言葉に不満げな声を一旦は出したものの、『大橋さん』と呼ばれた女性は気を取り直して少しはしゃぐ様に声をあげる。
「ふぅん、ここに来るなんて珍しいよな。他にでかい病院がこの辺にはたくさんあるのに」
「で、誰が来てたんですか?」
 一緒にオレンジを食べていた男性と女性が口々に言うのを聞いた後、大橋はもったいぶった口調で答える。
「東京スーパースターズの土井垣監督!」
「へぇ、それは本当に珍しいですねぇ」
「いや、土井垣なら日ハム時代に何度かうちにかかった事があるらしいが…本当かよ」
「ホントもホント!受付とか外来の若い看護師さん、表はともかく中では大騒ぎだったみたい。外から見ててもけっこう舞い上がってるのよく分かったもの」
 そう話す大橋の口調もかなり舞い上がっている感じである。大橋の様子に他の三人は苦笑しながらも珍しい患者の話を楽しげに聞いていた。と、久松が不意に何か思い出した様に口を開く。
「そういえば宮田さんはどうした?こういう話にはすぐ乗ってくるはずなのに…と思ったらいないじゃんか」
「さっきカルテをしまいに行って戻って来てたと思ったんだけど…どこ行ったんだ?」
 久松ともう一人の男性の言葉に話をしていたもう一人の女性が答える。
「ああ、宮田さんならさっき内線受けた後、『オレンジ少しもらいますね』って言って袋に入れて出て行きましたよ。持ち帰るなら自分のバッグにしまうと思うんですけど…どこに持ってったんでしょうね」
「へぇ…」
 そんな話をしていると、話題の主――宮田葉月が事務所のドアを開けて入って来た。
「戻りました~…ってずるいですよ~、もう食べてるなんて。…ま、いっか。私も食~べよ~」
 そう言って給湯室の方に向かう葉月に久松が声をかける。
「宮田さ~ん、さっきオレンジもらったんだろ?それどうしたのさ」
 久松の問いに葉月はオレンジを持って来ながらあっさり答えた。
「あ、あれですか?土井垣さんにあげました。偶然見かけて少し話したらかなり辛そうだったしお見舞いにと思って。いいじゃないですか、たくさんあるんですし」
 葉月の言葉にそこにいた人間全員が口々に驚きの声をあげる。
「『土井垣さん』って…」
「…どう考えてもさっき話してた土井垣監督だよな?」
「宮田さん、有名人だからって特別扱いはいけない…え?さん付けで呼んでるって…」
「もしかしてみやちゃん土井垣監督と知り合いなの?」
 口々に詰め寄る人間達に圧されながらも、葉月はのんびりした口調で彼らの問いに答える。
「はい~私がっていうより入ってるサークルがって言う方が正しいですけど」
「じゃあ宮田さん、日ハムとか今ならスターズの他の選手とも知り合いとか!?」
 興奮する職員達にも動じず、葉月はそのままのんびりした口調で続ける。
「いいえ~土井垣さんだけです。あの方よく一人でこの辺に飲みに来てるんですよ。で、練習の後飲んでるサークルの方達が親しくなって、その縁で私も知り合いになってって感じで…だから私よりも団暦長い沼田さんとか上野さんの方が付き合い長いし、もっと親しいですよ」
 本当はもう一人知り合いと言えそうな選手もいるのだが、話したら厄介な事になりそうだと判断し葉月は黙っていた。彼女の言葉に問い詰めた人間達は意外な事実に気の抜けた様な溜息をついた。
「まさかねぇ…」
「宮田さんが土井垣監督と知り合い…灯台下暗しって言葉はこんな時に使うのかね」
「でもみやちゃん、という事はうまくいけば有名人の奥さんの座って言うのも狙えるって事じゃない!」
 興奮して話し掛ける大橋の言葉に葉月はコロコロ笑って手をパタパタ振りながら答える。
「無理ですよ~暁美さん。知り合いって言ったって、練習の後時々一緒になった時飲む程度の知り合いですから。それに…」
「それに?」
 興味深そうに聞く大橋の表情に葉月はふっと口をつぐむと、話題を変える様ににっこり笑って改めて言葉を出す。
「何でもないです。…そうだ、プロ野球選手の健診ってよく分からないですけど、できるんならいっその事球団の健診取ってくるっていうのも面白そうですよね。人数いそうだし、項目によっては出張できるんじゃないですか?球場で健診って面白そう!」
 明るく言う葉月の言葉にそこにいた人間が興味深そうに反応する。
「おっ、そりゃいいな」
「よし、任せた加藤さん!営業して取ってきて。とりあえずスターズから!」
「ええ?俺かよ!」
 楽しそうに話し始める職員一同をゆっくりと眺めると、葉月はふっと笑う。
『暁美さんもすごい事言うなぁ…でもそれは絶対あり得ないのよね』
 葉月はオレンジの皮をむくと一房口に入れる。ほのかな酸味が口の中に広がった。
『だって、土井垣さんが好きなのは…』
 そこまで考えると葉月はふと胸が痛み、口の中のオレンジの酸味が増した気がした。別段土井垣に対して特別な感情を抱いている訳じゃない。むしろ『ある人』の事になると狼狽する彼を見てテレビに映っている姿や自分に説教する時の彼とのギャップが面白くなり、それをネタに彼で遊んでいる位なのだ。土井垣が好きなのは『その人』だし、自分はその事をネタにして遊ぶだけ。そう、別に土井垣が誰を好きだろうと自分には関係ない、そう思いたかった。でも胸の痛みは止まらない。葉月はその理由に気付いて苦笑した。
『…今更自覚しても遅いのよね。まったくしょうがないったら…』
 本当は気付いていたのかもしれない。でも彼女は気付いていたとしてもそれを否定するしかなかった事も分かっていた。土井垣の心は誰かの事で一杯で、自分の入る隙間はない事は出会った時から分かっていた事。彼の心を占めるその『誰か』はその当人と知り合った時にすぐ分かった。『誰か』の事でいつもはあまり感情を出さない土井垣が感情を露にするのが楽しくて仕方がなくて、でもどこかで自分の事では見せないその表情に寂しさを感じていたのも事実。その理由を今更ながら自覚した自分がおかしくてたまらない。でも自覚した所で勝負はもう決まっているのだ。勝ち目のない勝負をする程の勇気や根性は自分にはないし、そう思えると言う事はそこまでの気持ち。だから別にどうという事もない――
「…え?どうしたのみやちゃん大丈夫!?また具合が悪くなったとか!?」
 大橋が驚いた様にオレンジを持ったまま机に突っ伏している葉月に声を掛ける。葉月は大橋の声に慌てて机から起き上がり笑顔を見せると、おどけた口調で答える。
「大丈夫です~、ちょっとくたびれただけですから」
「宮田さん、最近またたくさん仕事引き受けてるだろ。回らないならそれなりに何とでもなるんだから無茶するなよ。また休職なんて事になったらみんなが困るんだからな」
「は~い」
 心配そうに言う久松に明るく返事を返し、葉月は今同じ物を持って心を占める人間が待つ家に急いでいるであろう男に思いを馳せると、今度は陰りのない表情でにっこりと笑って残りのオレンジを口に運ぶ。
『さーて、今度会った時にはどうやってからかおうかしら』

――そう、こんないい女に想われて何にも気付かない鈍い男になんて用はないわ。でも気付かなかった分幸    せにならなきゃ、許さないんだから――