シーズンも序盤を過ぎ、たけなわとなって来たある金曜日の夜。義経は勝利し自らもある程度の結果を残した試合を終え、首都圏の試合だったのでいつもの様に土井垣に車でマンションまで送ってもらいながら家路を急いでいた。この所遠征が続いていた事もあり今日は久しぶりに東京で週末が過ごせるのでそれに合わせて遠距離でもない遠距離恋愛をしている彼の恋人…いや、実質の恋女房が、彼女の週末休みに合わせて彼の部屋へ来ているからだ。きっと今頃自分の帰りがまだだろうかと待ちくたびれているだろうし、結果も絶対部屋のテレビで観てくれているから帰ったら最高の微笑みが待ってくれていると分かっているので、その笑顔が見たくて気がはやるのを抑えられない。土井垣と色々話しつつもどこか上の空でその会話をしている自分とその自分に苦笑している土井垣の様子を感じてばつが悪くなりつつも、義経の心はすでに自分の部屋へと向かっていた。そして車は義経のマンションへ辿り着き、彼は気がそぞろながらも、いつも送ってくれる土井垣に礼儀正しくお礼の言葉を述べる。
「監督、いつも送って下さってありがとうございます」
「いや、大方この辺りの遠征先からだと通り道で手間でもないからな。それよりお前も暇を見つけて免許を取ったらどうだ」
「そうですね。その内若菜さんの傍に行きたいので通える様に免許は必要ですね。とはいえ東京の道路はこうして同乗していても分かりづらくて。運転できたとしても怖いかもしれません」
「だろうな。俺もこっちで乗り始めの頃は相当怖かったから。…まあ道には追々慣れるとして、お前位の運動能力と物覚えの良さなら、すぐ免許だけは取れるんじゃないか?…っとすまん、野暮はしたくないんだが、ちょっと手洗いを貸してもらえないか。用足しがしたくなってしまった」
「ああ、はい。かまいませんよ」
そして土井垣はハザードをつけ車を一旦停車し、義経の部屋のトイレを借りる事になった。義経は玄関のインターホンを鳴らし、いつも通り中からオートロックのドアを開けてもらうと土井垣を招き入れエレベーターに乗せ、そのまま自分の部屋へ向かう。部屋はいつも通りチェーンロックが開いていた…が、ドアを開けると『いつも通り』ではなかった。いつもなら優しい微笑みで迎えてくれる若菜が玄関で膝を抱えて座り込んでいたのだ。眼の前に飛び込んできた『非常事態』に二人は今までの呑気な雰囲気も吹っ飛び、義経は蒼白な顔色に一気に変わると、座り込んでいる彼女を抱きかかえると、必死に声を掛ける。
「若菜さん!どうした!」
義経の呼びかけに、うつろな目をした彼女は、ぼんやりとしながらも消え入りそうな声で彼の声に応える様に言葉を返す。
「ごめんなさい…ひかるさん…すこし…ボーっとして…なんだか、きゅうに…ちからがぬけて…」
その答えに改めて彼女の顔色を見ると、上気した様になっているがその反面元々白い肌とはいえそれとは違う明らかに病的な蒼白さで、抱き抱えている身体が随分と熱い事に気が付いた。額に手を当てると焼ける様だ。高熱が出ている事が分かって義経はパニックに陥り、携帯で救急車に電話を掛けようとして番号が混乱してしまう。
「ええと…117…違う、110…これは警察だ、救急車は…!」
パニックを起こした義経を見て状況が分かったのか土井垣は冷静に義経に声を掛ける。
「待て、義経。救急車じゃない」
「監督!でも!」
「いいから、お前のここでのかかりつけの病院はどこだ」
「俺は…こっちで病院にかかった事がありません!それより早く救急車を…!」
そう、義経は道場では医師が往診に来てくれていただけでなく、山伏修行で鍛えているせいか東京では怪我もそうだが病気一つかかった事がなく医者の世話になるなど皆無、部屋には薬一切どころか体温計も存在しないのだ。自分中心の生活にこんな形の穴があったとは…後悔と混乱で更に慌てふためく義経を冷静に抑えつつ、土井垣は少し考えると自分の携帯を取り出してあちこちに連絡を取り始めた。
「いいから落ち着け。熱だけで救急車を呼んだら顰蹙を買うぞ。ちょっと待て。……ああ、葉月。…いや、実は今義経のマンションなんだが、神保さんが倒れた。熱が出てかなり弱っているんだが、義経はこっちでかかりつけの病院がないそうでな。今夜の夜間当番病院がどこか分かるか?…そうだ。お前と同じ区のB区か、近いT区だろうが…そうか。それは丁度いいな。住所と番号は…分かった。じゃあすまんがちょっと義経がパニックを起こしていて使い物にならんから、近所という事もあるし許可を得たらお前もそっちに向かってくれるか。…ありがとう、じゃあ後で。……よし、来たな。次は…すいません、H病院ですか。高熱が出て意識が朦朧としている上、少し衰弱している病人がいるんですが、これからそちらへ向かっても構わないでしょうか…そうですか。名前は神保若菜、女性で診察券のない初診です。生年月日は…ありがとうございます。ではこれから自家用車でそちらへ向かいます。…よし。後はもう一度あいつにメールをして…」
「監督…?」
冷静にてきぱきと対応している土井垣を呆然と見つめていると、携帯を切った土井垣が義経を促す様に声を掛ける。
「よし、段取りは済ませた。義経、神保さんの保険証を持って来い。俺が病院へ連れて行く」
「でも、救急車じゃなくて…」
「だから夜間当番病院に連絡を取った。救急車じゃなくても診てもらえる。急げば処置も早い。早く保険証を持って来い!」
「…はい」
義経は土井垣に怒鳴られて多少パニックが収まったものの、まだ不安が拭いきれない乱れた精神で言われるままに彼女が持ってきたバッグから保険証を取り出し、彼女を抱き上げ、土井垣の車の後部座席に一緒に乗る。土井垣は『少し急ぐぞ、運転が荒くなるからしっかりシートベルト締めろよ』と言ってカーナビに住所を入力しアクセルを踏み込み方向転換すると道を急ぐ。義経は熱のせいか脱力している彼女を抱き寄せたまま、今までにない不安を覚えながら土井垣の運転に身を任せていた。初めて出会った時と同じ、具合を悪くして自分に身を任せている彼女。しかしあの時にはなかった底知れない不安が何故か彼には襲い掛かっていた。このまま、もし彼女に何かあったら――最悪の事態が胸をよぎる自分に、そんな酷い事を考えるなんてと自責の念を覚えつつも、彼女の弱々しい呼吸の不安に押し潰されない様に、彼女を更に強く抱き締めた。