そうして10分程で病院に辿り着き、若菜は容体を受付に見せるとそのままストレッチャーに乗せ換えられ処置室に移された。そうして混乱する頭ながら土井垣に助けられて受付の手続きを済ませると、義経にとってはとてつもなく長く感じる診察と処置時間。その時間を過ごしている途中で夜間入口から葉月が入って来た。
「来ました。将さん、義経さん、お姫は?」
「ああ、今処置中だ。葉月、義経はこの通りだ。代わりに当直医とのやり取りを請け負ってくれるか。今のこいつだと絶対頭に入らんだろうし、俺だと知識がなさ過ぎてこいつに指示が出せん」
「分かりました。…義経さん、そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても大丈夫です。熱だけだったら今の医学ならよっぽどの事がない限り変な事にはなりませんから」
「でも…その『よっぽどの事』があったら…!」
義経の不安と恐れに満ちた表情と呟きに、葉月は『これじゃしょうがない』という風情でため息をついて、処置室のカーテンを見詰め、結果を待つ様に沈黙した。しばらくして処置室から出てきた男性の医師が葉月に気が付いて、驚いた様子で声を掛ける。
「…おや、みなとの宮田さんじゃないか。どうしたんだい」
「お久しぶりです上村先生。今の患者、私の親友なんです。週末婚してるちょっとしっかりして欲しい患者の御夫君がパニック起こしたんで同行したんですよ」
「そうか、それで住所が小田原…こっちに来て倒れたんだね。そういう事なら今処置が終わったからこれからの相談をしたいし、ちょっとその旦那さん連れて一緒に診察室へ来てくれないか」
「はい。義経さん、行きましょう」
「…ああ」
沈痛な表情で義経は葉月と医師に付いていく。そうして診察室について医師は二人を座らせて自分もデスクに座り優しく、しかしきっぱりした口調で症状を説明していく。
「…とりあえず体温は39度4分。かなり高い。それで血圧や視蝕診やレントゲンや尿検査、採血もして、簡易な所は結果が出た。血液検査の結果は2~3日待ってくれ。今分かっている事はとりあえず肺と尿は異常なし。視触診の様子だと扁桃腺が少し腫れていて、貧血がある様だ。それから血圧が上84、下58で、この位華奢な体型の人とはいえこの身長にしてはかなり下がってる。この結果からすると体力的に少し弱っている可能性が高くて…貧血がどのくらいの程度かとか一時的なものか慢性的なものかでまた違ってくるが…とりあえずの診断は過労と一時的な貧血が原因で抵抗力が弱って熱が出たとみるのが自然だと思う。今後継続的な治療が必要かは血液検査の結果次第ともいえるが、まず命の心配はないからそこは安心して欲しい」
「本当ですか!?嘘をついていませんよね!」
心が乱れるままに声を荒げる義経にも医師は冷静に、彼の気持ちを汲み取りながらも落ち着かせる様な口調できっぱりと言葉を紡いでいく。
「私ははっきり言う事は言うよ。嘘はつかない。処置としては今奥さんに解熱剤とビタミン剤を生理食塩水に混ぜて点滴している。これでひとまず脱水も防げるし、少し熱は下がるだろう。ただかなり弱っているから最低二週間、場合によってはそれ以上の静養が必要だと思う。診断書を書くから休ませる様に職場に出して」
医師の冷静な態度に段々義経も頭が冷えて来て静かに医師の言葉を聞く態度に変化していく。
「そう…ですか…」
「それから、彼女に必要なものは休養と栄養なんだけれど。君…確かプロ野球選手だったよね。試合の事もあるし家で何かあったらって心配だろう。状態的には入院して静養という方法もとれるけれど、うちに預けるかい?」
「義経さん、入院させれば栄養整ったものが上げ膳据え膳ですし、医療のプロがちゃんとケアしてくれますから安心できると思いますよ。上村先生のお言葉に甘えたらどうですか?」
「…」
医師と葉月の言葉に義経はしばらく黙っていたが、やがて搾り出す様に『返事』を発した。
「…いいえ、提案はありがたいのですが…僕が何とかして面倒を見ます」
「君」
「義経さん」
「確かに入院させる方が彼女のためにはいいと思います。でも…僕が耐えられないんです。もし病院にいなくてもいいのなら、これからしばらくは首都圏とドームの試合ですから、入院させて離れている所でどうなるかと心配で心を乱すより、家で…たとえ病院ほどの世話ができないとしても、傍に置いて自分で世話をして手元で心配する方が…僕は安心できます」
「義経さん…」
「…そうか」
医師は義経の言葉にため息をつくと、少し考える素振りを見せ、改めて治療の指示を出す。
「…なら、とりあえず自宅療養でも命の心配はないから、君の気が済む様にするといい。その代わり、そのための手助けは誰からの手でも遠慮なく受ける事。君だけが背負って共倒れしたら、お互いのためにならない」
「はい」
「宮田さん、君も協力してくれるよね」
「はい。義経さんがそう決めたなら私ができる事は何でも。場合によっては同じく親友のヒナ…おっと、Y病院の朝霞先生にも協力してもらいます」
「ああそうか、朝霞先生も君と同窓だったっけ。そういう繋がりなら安心だ。こう見えて彼女達は腕のいい医師と保健師だから、敏腕医療スタッフが身内にいてよかったね。…でも今夜は彼女の身体が大変だし、休ませるためにもこれ以上動かさない方がいいから一晩だけ入院させなさい。それで明日の朝、会計がてら彼女を迎えに来るといい。それとも明日はデーゲームだったっけ?」
「いえ、ナイターです」
「じゃあ何とか彼女を引き取る位の時間は取れるね。それからこっちで静養中は私が彼女を診るから、まずは月曜日に彼女を連れて来て。その時血液検査の結果と治療の説明ができる状態にしておくし、その状況によっては別の事もプラスされるけど、まず貧血の経過だけは見ていく必要はありそうだから。で、こっちでの静養の経過を見て向こうに帰れる状態になったら改めて診断と紹介状を出すよ。それを彼女から地元のかかりつけの医師に出してもらって今後治療が必要な症状に関してはバトンタッチする様にする。とにかく今の彼女には栄養と休養だ。薬も出すが、まずは食べられるものを少しづつでもいいから食べさせてあげて、よく眠らせてあげる様に。そのためには君が彼女の環境を整えて、何の心配もいらない様に休ませてあげる事。分かったね」
「はい、分かりました」
「…ああ、そうだ。言い忘れていた」
「何ですか?」
「当座の治療の計画を立てなきゃいけなかったから、悪いけど奥さんに承諾とって妊娠してるかの検査もさせてもらった。とりあえず妊娠はしてないから、幸か不幸かこの熱と治療で胎児がどうなる、とかいうプラスの心配はないからそれは安心しなさい。奥さんの心配だけで大丈夫だよ」
「あ、ああその…そうですか。…ありがとうございます」
そう軽い口調で言葉を足してウィンクする医師に義経は赤面して口ごもる。それを見て葉月はくすりと笑うと医師に軽く言葉を掛ける。
「でも、知らないでここ勧めたんですが、今日の当直が上村先生で良かったですよ。専門とか腕もそうですけど、野球マニアで少しは選手の内部事情とか生活状況もかじってくれてるから話が通りやすくて。ドクターによっては選手第一をごり押ししかねないっていうのもそうですけど、『御夫君』って言ってる割に名字違うからその時点で突っ込まれると思ったんで、ちょっと心配してたんです」
「まあ義経君の『恋人』に関しては裏確かめるでもなく結構有名じゃない。宮田さんの身内って事は知らなかったけど、どうせ宮田さんとこと同じ様な事情だろうって何となくは分かったからね。それに私は訳ありの患者さんに対しては相手が言いやすいような状況は整えて聞くべき時はきちんと聞くけど、基本的に相手方から言い出さない限り必要以上の詮索はしない事にしてるんだ。それぞれの事情抱えて思い切って来てくれた患者を、詮索ではじき出す様な事はしたくないからね」
「確かに、上村先生の一方の専門の産婦人科だとそういう患者さん多いからその手ありかも。義経さんは違いますけど。隠す気全くないですから」
「そうなんだ」
そこまで言って笑い合う二人が若菜の心配はあっても不思議に思え、義経は問いかける。
「宮田さん、随分この医師と親しい様だが…」
義経の問いに葉月はにっこり笑って答える。
「だってこの病院、法人違えどうちと同じ組織系列ですから。最近健診関係で法人同士の連携も強くなってて、上村先生はその健診にも関わってるから同職種のヒナはもちろんですけど、私も懇意にさせてもらってるんです。ちなみに野球マニアでプロ野球の裏情報にも詳しいですよ」
「そういう事。でも東京はいいねぇ、一時救急なら系列病院がかなりあって。受ける方は大変だが、駆け込む方は困らない。他の大病院は二次、三次救急なんだからそっちに専念させたいし」
「ですね」
「そう…だったんだ…で、監督が救急車を使わずここへ来たのは…」
「確かに急病だとびっくりするだろうけどね、むやみやたらに救急車呼ぶと本当に必要な所に救急車が行けなくなるんだ。それに救急車を使うと色々余計な手続きも入る。彼女位の命に別状ない容体なら一次救急の当番病院に連絡して指示をもらって翌朝まで待つか、そのままその病院に向かうにしても普通の車で来るのが一番スムーズに診察に入れるんだよ。それに本当に命が危ない状態で救急車呼ぶ時も、なるべくならまずは医療機関の確保から。でないと受け入れ可能な病院探さないといけなくなる危険性もあるから、必要以上の時間ロスするよ?」
「…はい。全くもの知らずで…申し訳ありません」
「まあ普通の人はこんな緊急事態滅多にないから、そこまで冷静にはなれないか。君の監督さんが冷静に対処できたのは彼女で慣れてるからだしね」
「という事は…」
「私もしょっちゅう具合悪くして将さんに迷惑かけてるんです。最初は将さんも義経さんみたいでしたよ。それを病院慣れした私が色々具合悪くても気持ちだけは冷静にこうしてああしてって頼んで慣らしてったんです」
「…それは…監督も大変だったんだな」
「ですね」
そう言って葉月はにっこり微笑んだ。そこまで和やかに話せたものの、不意に若菜の事が心配になって義経は表情が曇り、声も低くなりつつ口を開く。
「…しかし、若菜さんは…大丈夫なのだろうか…」
義経の表情と言葉に上村医師は表情を戻すと優しく言葉を返す。
「じゃあ入院手続きと病室に送りがてら、彼女の顔を見せてあげよう。彼女も君に会いたいだろうしね。それからうちは差額代取らないし丁度空いてるから、遠慮なく君が騒がれない様に彼女を個室に入れるからよろしく」
「はい、ありがとうございます」
そう言うと医師は処置室に義経を連れて行く。そこでは若菜が丁度点滴が終わったところらしく、後の処置をされて熱のせいかやはり少し浅くか細い呼吸でベッドに寝かされていた。それを見た義経は先刻の底知れない恐怖がまた心の中で荒れ狂う。その心のままに義経は彼女に駆け寄り、手を取り覆いかぶさる様に抱き締め、必死に声を掛ける。
「若菜さん、しっかりしろ!」
「ひかる…さん…?…」
「お願いだ!…俺を…もう、置いていかないでくれ…!」
自分で発した言葉なのに義経は発した途端その言葉に困惑していた。『もう置いていかないでくれ』?――彼女はいつも離れた時には微笑んで自分についてきてくれるか、追いかける自分を待ってくれていた。置いて行かれた事などただの一度もなかったはず。それなのにどうしてこんな言葉が出て来たんだ――?――心配と困惑で混乱する彼を熱のせいかぼんやりとした眼差しで見詰めていた若菜は、それでも力一杯の優しい微笑みを見せ、優しい口調で囁く様に返す。
「ええ…大丈夫。大丈夫よ…これ位ならすぐ治るから…それに、もう私は…前みたいに…あなたを…置いて行ったりしない。ずっと…一緒にいるから…」
「若菜さん…」
熱のためのうわごとともとれるその言葉に、しかし義経自身も理由が分からない言葉の意味を彼女は理解している様で、分からないなりの嬉しさと共に謎が深まっていく。一体自分達のこの言葉はどうして発せられたのだろう――そんな謎を持ちつつも、それ以上に彼女の身体が心配で胸が潰れそうになりながら彼女の手をずっと取っていたが、やがて医師が『入院手続きは今監督さんが済ませてくれたから。病室へ案内しよう』と彼を促した。その言葉に辛い気持ちを持ちながらも彼女をとにかく落ち着けようと医師の言葉に従い、用意された病室へ土井垣と葉月と共についていく。そうして病室に落ち着くと、医師は若菜と義経に『じゃあ一晩ここでゆっくり休んで。あなたは一晩入院してから彼の家へ帰る事になったから。今夜はとにかく何も考えないで寝なさい。何かあったらナースコールで。それからここは完全看護だから君も安心して帰って明日に備える事』と言い残し病室を出て行った。義経は心配で潰れそうな心を堪えながらもう一度彼女の手を取り、懇願する様に声を掛ける。
「ああは言われたが…今夜はやはり…俺はここにいる。いや…いたい。怖いんだ…少しでも離れたら、あなたが遠くへ行ってしまいそうで…」
その言葉に彼女は抜ける力を必死に集中したかの様な力を入れたいが入らない位弱々しい力だったが、それでも心の強さを伝える様に彼の手を微かに握り返し、熱で朦朧とした意識を必死に彼に合わせて優しく微笑み少し頭を振ると、消え入りそうな声で言葉を返す。
「駄目よ…光さん。私にかまけて…本来の役目を…おろそかに…しないで。そんな…光さんは…わたし…嫌。大丈夫…私は大丈夫だから…光さんのためにも…わたしのためにも…ちゃんと…いえで…やすんで…万全な状態に…して」
「若菜さん…」
義経の不安と恐れが荒れ狂っていた心が、この若菜の自分に対する気遣いで不意に自分のあるべき姿に立ち戻る。そう、彼女は周りがあってこその自分達であり、そう思っているが故にお互いのすべき事を大切にした上で自分を愛しているし、自分に対してもそういう形の愛を望む女性。そして自分も彼女のその生き方を愛しているし、自らもそうあるべきだという思いが二人で歩いてきた道が進むごとに彼自身にも分かって来た。それ故に彼女が望むからでもあるが、それ以上に彼女をきちんと守っていくためには自らの事も大切にしないと本当に共倒れになってしまう、と改めて自覚した。自分がすべき事はまず自分の責任をきちんと果たした上でそこから彼女を守る事。それを思い出した彼は荒れ狂う不安と恐れを胸の中に持ちながらも、彼女の心を信じ、自らのあるべき姿へと立ち戻った事を伝える様にもう一度彼女の手を力強く握り返すと、朦朧とした意識の彼女に分かるかどうかは分からないが、今の自分にできる最高の微笑みを彼女に見せて囁きかける。
「…分かった。そうだった、俺達は互いの周りがあっての俺達だったな…。まず自分がきっちりしないとあなたを守れない。まだ本音は怖いが…あなたを信じて、まず俺は俺の役目を果たす。でも明日は…一番に迎えに来るから」
「…ありがとう」
「とにかくあなたも今夜は良く眠って、少しでも早く身体が楽になる様にしなさい。俺もちゃんと休んで…万全な状態であなたを守れる様にするから」
「…はい」
そう言うと、若菜はまだ熱で浅く弱々しげな呼吸だったが、目を閉じてゆっくりと眠りに入る様子を見せた。それを見た義経は手を静かに離してシーツの中へ入れ、額に軽くキスをした後二人の様子を見守っていた土井垣と葉月に向き直り、頭を下げる。
「…本当にありがとうございました。それで更に厚かましいんですが…監督、明日と明後日試合でいない間、彼女の看病のために宮田さんを貸してもらえませんか。いない時に悪化した場合に…宮田さんなら冷静に対応してもらえると思ったので」
義経の心からの頼みに、土井垣はふっと笑うと頷いて言葉を返す。
「当たり前だ。俺はお前のチームメイトで、監督だ。そうじゃなくても乗りかかった船だ、最後まで面倒は見る。それから…明日お前と一緒に彼女を運ぶのは俺がやろう。タクシーだと金もかかるだろうし、一緒にこいつも運べるし、そのまま試合にも一緒に行けるからな。いいな、葉月」
「私も当たり前ですよ、お姫は私のちっちゃい頃からの親友。そうじゃなくてもこれは関わった以上ナースとして私がやるべき仕事です。今週末は運よく公休だから職場の許可もいらないですしね。自宅療養で必要なものは私がリスト作って明日渡しますから」
「監督、宮田さんも…ありがとうございます」
「さあ、とりあえず帰ってお前もしっかり寝ろ。万全な状態で責任を果たすんだ」
「はい」
そう言うと義経は土井垣に車でマンションへ送ってもらいながら、翌日の打ち合わせをした後部屋に戻る。試合の支度をして寝ようと思った時、ふっとキッチンにぽつりと残されていた鍋に気づいた彼は中を覗く。そこにはいつもの様に自分が欲しい味付けで汁物が彼の分残してあった。それを見て彼は本来ならここにいてこの汁物を自分に出しながら微笑みかけてくれているはずの彼女がいない胸の痛みを堪え、それ以上におそらくこれを作っていた時から具合が悪かったろうに、それでも辛い体を必死に堪えて懸命にこれを作って自分を待っていてくれた事が容易に想像できる彼女の愛が込められたその汁物の存在と彼女の想いが辛くても嬉しくて、その想いを大切にする様に温め直すと飲み干し、風呂に入って眠りに就いた。