その日、わたしは健康診断のために都内の小さな病院に来ていた。ツアーの合間に日本に帰って来たわたしに、気を利かせたチームのスタッフが『健康管理も大切だから』とスケジュールを整えてくれたのだ。事前の説明を聞いて指示通りにして資料を渡されたままに来て見ると都心の大病院に囲まれたエアポケットの様にある随分小さな病院だったけれど、普通の診察は小規模ながら口コミではかなり評判も設備も良いと一部では有名で、健康診断も人間ドックも含めた大体の健康診断ができ、英文の結果も出せるらしい。遠征でそういった診断書も必要だと判断したスタッフが探し出したそうだ。有名人が来ても別段騒ぐ人間もいないそうでわたし自身の事はもちろん、一応有名人の枠に入るらしい立場を気遣ったスタッフの配慮に感謝しながらわたしは病院に入った。

 今回のわたしの健康診断は人間ドックと婦人科。『どうせやるなら念を入れて』というこれもスタッフの配慮。入口で聞いて健康診断の受付の階まで上がり、受付を済ませて渡された検査着と寒いので用意してあったガウンに着替えた後検査をしている階に行き、わたしは誘導らしい人に受診票を渡して検査を始めた。1月下旬という時期なのでそれ程人は多くないからと予約の人は言っていた、と資料を渡してくれたスタッフは言っていたけれど、待合には小規模な所だという事を抜いても結構な人が待合には座っている。わたしは普通に検査をこなしていくつもりだったけれど最初の誘導にミスがあったのか、『この検査は身長・体重が終っていないとできませんので戻って下さい』といきなり誘導された先で戻されてしまった。戻って誘導の人に言われたままを話すと、その人は『あ…申し訳ありません』と謝って改めて身長・体重に誘導をしてくれたけれど、それと同時に対応を見ていたらしい検査着を着た女の人が、誘導の人を見て渋い顔をしているのが目に入った。長い髪をアップしたわたしより少し年上に見える、化粧っ気はないけれどかなり綺麗…というか可愛らしい女の人。その綺麗な顔と何で渋い顔をしたのかも手伝って、思わずわたしがその女の人を見詰めると、その人はわたしの視線に気が付いたのか、何故か取り成す様な柔らかい笑顔で会釈した。わたしも会釈を返すと今度こそ身長体重で呼ばれたので呼ばれた方に歩いて行った。その後は順調に検査が進んで、婦人科、一度戻された所で肺活量、お腹と胸の超音波と終らせるともう一度身長体重を測った所に戻され、今度は視力、血圧、採血等をする事になった。衝立が立てられた所で中年の看護婦さんから過去にかかった病気などを聞かれた後視力をして、その看護婦さんに採血に誘導される。それ程血を取られる訳ではないと分かってはいるけれど何となく血を採られるのは怖いし、実は何だか肺活量をやった後から少し目が回る様な感覚があった。一応採血で具合が悪くなった事があるか等は聞かれたけれど、淡々と仕事をこなしている看護婦さんを見るとどうもその事が言いづらくて、言われるままに腕を出して血を採ってもらう。でも血を採られていくのを見ている内に段々と頭の芯から冷えて行くような感覚が出てきた。貧血を起こすかも、と不安になったけれど看護婦さんは気付く様子もなく、「では次は眼圧ですのでそちらの椅子に座って下さい」と言ってわたしを座っていた場所から移動する様に促した。採血から眼圧までの距離はほとんどないので、仕方なしに立ち上がって2~3歩歩くと、本当に頭から血の気が引く感覚に襲われ、目の前が真っ暗になった。ああ、倒れるな…と思った瞬間、わたしは柔らかくて暖かい何かに支えられた。タッチの差で誰かがわたしを抱き留めてくれたらしい。その人の声だろうか。貧血のせいか多少遠くからだけれど特徴的な柔らかい女の人の声で、『大丈夫ですよ。まずゆっくり膝を折って座って下さい』という声が耳元に聞こえる。わたしはその通りにしてゆっくりと座り込んだ。周りが騒ぐ声も遠くなった耳で聞こえるけれど、とにかく気が遠くならない様にするのが精一杯でその声はあまり耳に入らない。でもその柔らかいながらもきっぱりとした声だけは遠いながらも耳元にしっかり届いた。
『この方の名前見せて下さい、いいから早く。…ありがとうございます…盾野さん、盾野瑛理さん、私の声、分かりますか?』
「はい…」
『今奥に行きますからね、楽にして下さい』
「ええ…」
 女の人の声に何とか応えようとはしてみるものの、呂律が回っていないのが良く分かる。座り込んでいる私をそれでも支えてくれているらしい女の人は、相変わらず柔らかながらきっぱりとした声で、周囲に何やら指示を出し始めた様だ。遠くなった耳にその声が聞こえる。
『鴨川さん、今日は確か診察に藤川先生いますよね。今の診察終ったらでいいから呼んで下さい。後待合のフォローお願いします』
『あ…はい』
『さあ、彼女を奥で寝かせないと。そちらの方、ここへ来て足を持ってください。そちらの方は中の受診者様のフォローお願いします。…じゃあ行きますからね、盾野さん。…せーの』
 一瞬身体が浮き上がって移動する感覚の後に、わたしは何かの台かベッドだろうかに乗せられたらしい。ぐったりしている私の耳にまた遠くながらさっきの女の人の声が聞こえて来た。
『さあ、この後の事は大丈夫ですよね。お任せしたいのですが』
『え…でも先生が来ないと…』
 もう一人別の女の人の声の後一瞬間があって、やはり柔らかいけれどそれでも厳しげな声で、さっきの女の人の声がまた聞こえてきた。
『…分かりました。私がやりますから、受診票とステート貸して下さい』
『あの、失礼ですがあなた誰なんですか。受診者様なのに口を出してくるなんて』
 不満げなもう一人の女の人の声に、女の人は柔らかな声のままだけれど、畳み掛ける様に続ける。
『私はここの職員で保健師です。疑うなら鴨川さんでも藤川先生でも、何なら上にいる谷口さん呼んで聞いて下さっても結構ですよ。…それより口を動かす前にやる事がありましょう?こういう時の対応は谷口さんなら絶対教えているはずですし、それ以前にナースの常識ですよね』
『…』
『じゃあお借りします。…盾野さんは楽にして下さいね』
 そこで言葉が途切れた。私は不思議と女の人の言う通りに力が抜けてくる。少しすると膝を曲げられ、何かを掛けられる感覚の後に右腕にひやりとした感覚と続けて圧迫感。そうしてまたしばらくすると、今度はまた違う温和なおじいさんの声が聞こえてきた。
『診察に騒ぎが聞こえてきて、気になったから来ちゃったよ。…おや、何してるんだい宮田さん』
『見ての通り血圧測ってます…って鴨川さんから呼ばれなかったんですか、先生』
『ああ、呼びには来なかったね…っていうか待合のフォローで手一杯みたいだ鴨川君、ほら』
『…ああ、本当ですね』
『ところで宮田さん。検査着って事はまだ受診者側だよね。だったらこういう事はここの看護師に任せなくちゃ』
『そうしたかったんですけど…そうもできなかったもので。でもこれでおせっかいは終わりにしますよ。血圧は84の56です。…じゃあ後は先生からこちらのスタッフにしっかりフォローの指示お願いします。後この方マーゲンあるみたいなんで、このままやってもらうか水分取らせて後日にするかの判断も頼みます』
『分かった、ありがとう。まあ出張チームの宮田さんにしたら、来院の対応は物足りなかったかな』
『言わないで下さい…越権行為だって自己嫌悪してるんですから。じゃあ後お願いします。余計な手出し申し訳ありませんでした。でも最後にもう一言…』
『何だい?』
『血圧抜けてます。回復した後の値を書いて下さい。でないと結果返す時また一騒動ですから』
『確かにそうだね。ちゃんと見てくれてありがとう。じゃあもう宮田さんは受診者に戻らなきゃ』
『はい。…じゃあ盾野さん、ゆっくりして下さいね』
 相変わらず柔らかい声でわたしに話しかけた後、その女の人は離れて行ったらしい。ぐったりするわたしに今度は温和なお年寄りの声が聞こえて来た。
『うん、少し顔色が悪いね…呼吸は多少浅いけど正常。脈はちょっと弱いか…マーゲンあるって事は昨日から絶飲食のはずだから多分一時的な貧血だね。頭は…打ってないんだ。名前は…うん。盾野さん、僕の声ちゃんと聞こえるかい?』
「はい…ちょっと遠いですけど」
『そうかい…その答えだとちょっと酷いかな。倒れる前の血圧は…本当だ、抜けてる。でもさっき宮田さんが言った計測値だと血圧もかなり下がってるから、とりあえずは完全に回復するまで、このまま回復体位で寝かせよう。酷いとは言っても今の様子ならそうして後の事は考えて大丈夫そうだ。三宅さん、このまま回復するまで寝かせて時々血圧含めて様子見て。おかしくなる様だったら呼ぶ様に。後回復したらその時の血圧、計測欄に記入してね』
『…はい』
『じゃあ楽にしてゆっくり寝て、辛くなるか回復したら傍の看護師に声を掛けてね。盾野さん』
「はい…」
 そこでわたしは完全にぐったりしてしまった。まさかあれだけの事でここまで酷くなるなんて思っていなかったので申し訳ない気もするけれど、それ以上に身体が辛いので、周りに言われるままにゆっくり休ませてもらう事にした。休みながらも、わたしは先刻の柔らかい声の主が誰だったのかふと考えていた。どうやら看護婦さんは普通の人だと思っていたらしいけれど、さっきの女の人本人とお医者さんらしい人との会話だと、ここの関係者みたいだ。二つの反応の落差に謎は余計に深まってくる。もっと考えたかったけれど、今の状態ではこれ以上考えられそうにない。わたしは考えることをやめて、ゆっくりと意識を遠ざけて行った。それからどれだけ休んだのか分からないけれど、大分身体が楽になったのでわたしは看護婦さんに声を掛けて起き上がり、検査の続きをする事になった。とりあえず眼圧の検査をした後状態観察も含めて診察をする事になり、わたしはさっき様子を見てくれたらしい先生の方の診察室に入った。聞こえた声の通りの温和そうなおじいさんのお医者さんは、さっきと同じ温和な口調でわたしに声を掛けてきた。
「うん、良くなったみたいだね。息苦しかったりめまいはもうないかな?」
「はい、もう大丈夫です」
「そう、今度から採血する時には、こうなった事があるって事前に必ず言う様にね。一度こうした貧血起こすとまた起きる事もあるし、念のためにね。言えば大体の医療機関なら配慮してくれるから」
「はい」
「じゃあ診察をしよう。でも見た所大丈夫そうだけどね、まあ一応…心臓と肺の音は…大丈夫。甲状腺は…異常なし…目を見せてもらうよ…貧血もない様だね。悪いけどちょっと僕の手を握ってみてくれるかい?…うん、しっかり力が入るから胃もできそうだね。既往症も無いみたいだから胃の動き止める注射打って大丈夫そうだけど、打っていいかい?」
「あ、はい。いいです」
「じゃあ普通に胃の検査する様に許可出すから…おや、まだ血圧が抜けてるね。看護師に測ってもらったかい?」
「あ、そういえば測ってもらってないです。…すいません」
「いいよ。ここでも測れるしこっちの不手際だから。今測るよ」
 そう言うとお医者さんは手際よく血圧を測ると書き込み、ふと呟く様に続ける。
「…まああれだけ言ってこれじゃ、宮田さんが手厳しくなるのも無理はない…か」
 お医者さんの言葉にふとさっきの事を思い出したわたしは思わず問いかける。
「みやたさん…って言うんですか?誰かあそこの人じゃない人がわたしを助けてくれたらしいのは、何となく覚えてるんですけど」
 私の問いに、お医者さんは苦笑いしながらも明るく答えてくれた。
「…ああ、少しは分かってたんだ。それなら答えようか。さっきあなたの対応をしてくれたのは宮田さんって言って、職員健診に来てた保健師だよ。とは言ってもいつもの居場所はここじゃないし、最近はこっちの手伝いにも来てなかったから、検査着だったせいで今日の看護師は分からなかった様だね。彼女達二人とも最近ここに来た看護師だから」
「そうなんですか…声だけは覚えてますけど、しっかりした方みたいですね」
「ああ、いい娘だし仕事も確かだよ。こんな事言ったら来院スタッフに悪いけど、彼女に対応してもらったのは良かったかもしれないな。仕事柄歳の割に腕もいいし、こういう対応の場数もかなり踏んでるから。それ以前に受診者で来てるのに手を出したって事は、僕がここで聞いていた様子からしたら、彼女の事だからよっぽど対応見かねたんだろうなぁ、多分」
「はあ、そうなんですか…でもそれだともしかして悪い事しちゃったんでしょうか、わたし」
「健診で具合が悪くなるのは良くある事だから、あなたは気にしなくていいよ。彼女は怒られるかもしれないけど、僕から事情を話しておくから。そうしなくても見かねて手を出したんなら、多分謝った3倍は言い返すだろうな彼女なら。…それはともかく、大丈夫そうだしゆっくりでいいから最後まで健診終らせようか。でもまた辛くなる様だったら、今度はちゃんとスタッフに言う様にね。そうじゃないと事故の元だし、何よりあなたが安全に快適に健診を受けるのが第一だからね。多分宮田さんがここにいたら絶対言うだろうし、僕もそれは同意見だからあえて言うよ」
「分かりました」
「おっと…おしゃべりしすぎたかな。こんな話をしたのは内緒だよ」
 そう言うとお医者さんはにっこり笑った。お医者さんの温和ながらもきっぱりとした口調に、わたしはさっきの女性の声も重なって何だか暖かく、安心した気持ちになって笑顔で頷く。こうやって暖かい対応をする人達を見ていると、色々あっても口コミは正しいのかなと思えた。そうしてその後は胃の検査だけは何で慎重になっていたか分かりつつも無事に最後まで検査を終らせて、暖かい気持ちが湧いたまま近所にあるホテルの食事券を貰ってわたしは病院を後にした。