「…へえ、大変だったんだな、瑛理」
それから3日経った夕刻、わたしは恋人の守さんとお茶を飲みながら話していた。わたしが帰国時に連絡したら帰国したのと守さんの自主トレが終った時期が丁度重なっていて、オフと自主トレのために四国から川越に戻ってきていた守さんが『久し振りに会いたい』と言って、キャンプで四国に戻る前の合間を縫って、東京まで出てきてくれたのだ。もちろんシーズン中などもうまくスケジュールが合えばわたしが遠征先に行ったり、東京に出て来た守さんが時間を作ってくれたりして会っているけれど、お互い忙しい身なので少ない時間をやりくりして会う機会は大切だと思えるし、やりくりしてくれる守さんの気持ちも嬉しい。そうして会えない時間の事を話しているうちに今回の話も何となく守さんにはしたくなって、お医者さんからは「内緒だよ」と言われたけれど、詳しく話さなければいいかなと思って健康診断をして具合が悪くなった事と、その時に助けてくれた女の人の事を少しだけ話してしまった。守さんは心配そうに言葉を続ける。
「だとしたら、その後また具合が悪くなったりはしなかったのか?」
「はい、もらったお食事券でお昼を食べたら完全に元気になれて、その後は好調ですよ」
「ならいいが…でも良かったな、いい所だったみたいで」
「はい。…でも助けてくれた女の人にはお礼が言いたかったかも。わたしの検査が終った時にはもう検査が終って職場に帰ってたらしくて。お医者さんにもお礼が言いたいって言ったんですけど、『彼女にしたら当然の行動だからお礼なんて困るだけだろうし、どうしてもって言うなら伝えておくから』って言って、どこにいるか教えてくれなかったですし」
「そうか、残念だったな」
「そうですね。宮田さんって名前は覚えたんで病院に聞けば分かるかもしれませんけど、そこまでするのもどうかなって思いますし」
「『みやた』?…まあありふれた名前だし、まさかな…」
私の言葉に守さんは怪訝そうな表情を見せて呟く。その意味が分からなくて、わたしは守さんに問いかけた。
「どうしたんですか?」
「ああ、いや…なあ瑛理、瑛理が行った病院の名前って何だ?」
「ええと、確かみなと病院って言いました」
「…」
私の答えに守さんは更にびっくりした表情を見せて、『いや…でも彼女は中にいないって聞いているし…』とぶつぶつと呟き始めた。その様子と言葉が更に不思議に思えて、わたしは更に問いかけた。
「守さん、どうかしました?おかしいですよ?」
「ああ、いや…ちょっとな」
そう言って守さんはわたしを宥める様に笑う。その様子がやっぱり不思議に思えて、わたしは守さんをその気持ちのまま見詰めていた。と、守さんの携帯が鳴る。守さんは「すまない」と言って電話に出ると、話し始めた。
「はい…ああ、土井垣さんですか。自主トレ中はお世話になりました。何か…え?瑛理ですか?はい、います。今会ってる所で…ええ、元気ですよ。でも大丈夫かってどういう…え?じゃあやっぱり…そうですか。あの後は元気になったって言ってますから、心配しない様に伝えて下さい。…はい、それじゃあ切りますね」
守さんは携帯を切ると小さく溜息をつく。その様子に私はまた問いかけた。
「今の、土井垣さんですよね。どうかしたんですか?」
「ああ、ちょっとな。…ところで瑛理」
「何ですか?」
「さっき言っていた女性に会えるなら、本当に会いたいか?」
「はい、会えるなら会いたいかもですけど…今言った通り無理でしょう?」
わたしの言葉に、守さんは苦笑して応えてくれた。
「いや、本当に会いたいなら会わせる事ができるぞ。…うまくすれば今からでも」
「え?」
あまりの意外な展開にわたしが驚いていると、守さんは更に続けた。
「瑛理の話を聞いてまさかと思っていたんだけど、その『まさか』が的中したらしい。その女性は俺の知り合いだよ。今土井垣さんと一緒にいるらしいから、段取りをつければ会わせてやれそうだ」
「そんな偶然、あるものなんですか?」
「あるものも何も事実だからな。…どうする?本気で会いたいなら土井垣さんに連絡するけど…瑛理は人見知りするだろう。初めてに近い人間だぞ、大丈夫か?」
「守さんの知り合いならそんなに悪い人じゃないでしょうし、土井垣さんもいるなら多分大丈夫…だと思います。会いたいです」
「そうか、分かった」
わたしの言葉を聞くと、守さんは改めて土井垣さんに電話を掛けた。
「土井垣さん、俺です。…さっきの話ですが、瑛理が彼女に会いたいそうなんで、今からどこかで会いませんか?…大丈夫です、こっちが会いたがってるんだから遠慮しなくていいって言ってあげて下さい…そうですか、じゃあ決定って事で。処で土井垣さん達今どこですか?…え、東京駅?何でまたそんな所に…はいはい。俺達は青山ですから、お互い行きやすいですし騒がれないからあそこにしましょう。…ああ、瑛理なら大丈夫ですよ。気に入ってくれると思います。じゃあ店で落ち合うって事で…失礼します」
守さんは電話を切るとふっと笑ってわたしに声を掛けてくれた。
「お見合い成立。じゃあ会わせてやるから」
「はあ…」
「とりあえず場所移動するからここは出よう」
「はい、でも…」
「何だ?」
「何でその女の人が土井垣さんと一緒にいるんですか?」
わたしの問いに守さんはわたしに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべると、ちょっと言葉を濁して答えた。
「それは…会った時のお楽しみって事で」
「…?…」
守さんの笑みの意味が分からず私は不思議な気持ちのまま守さんに案内されて地下鉄に乗る。いつもは会う時もバイクの事が多いけれど、守さんと町を歩く事の嬉しさも最近分かってきて、今日はバイクを使わなかったのが良かったみたいだ。地下鉄に乗って促された駅で降りると、そこは件の病院に近い所。それが益々不思議になった。そのまま守さんは駅から近くにあるビルの地下の小さな居酒屋さんにわたしを案内する。地下への階段を下りて守さんの後ろからお店に入ると、カウンター越しに初老の男の人が守さんに声を掛けてきた。
「…おっ、本当に不知火君だ。久し振りだねえ!四国に行ってから初めてじゃないか?ここに来てくれるのは」
「そうですね。マスター、久し振りです。不義理してすいませんでした」
「いいんだよ、忙しいんだろう?店のテレビで見てるよ。頑張っている様で何よりだね。でも、たまにはここも思い出してくれると嬉しいけどね」
「はい、こっちへ遠征に来たら今度からはなるべく顔を出す様にしますよ」
「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ…うん、今日は可愛らしいお連れさんまでいるんだね。お嬢さん、初めまして」
「あ…はい。はじめまして」
『マスター』と呼ばれたこのお店のご主人らしい人は明るい口調でわたしにも挨拶をしてくれる。その言葉にあるあったかい雰囲気に、わたしも自然とにっこり笑って挨拶できた。わたしの挨拶にご主人はまたにっこり笑うと、からかう様に守さんに話しかけた。
「…で、このお嬢さんが不知火君の彼女なんだ」
「ま、マスター、何で…」
慌てた様子を見せる守さんに、ご主人は悪戯っぽく笑って更に続ける。
「先に着いた土井垣君が教えてくれたんだよ、不知火君が彼女を連れてここに来るってね。ほら、そこでもう君達を待ってるよ」
ご主人の言葉にわたしもお店を見渡すと、奥の方のテーブル席で土井垣さんがわたしに笑顔で手を振っている。その正面には女の人がいて、その人もわたし達に向かって人懐っこい微笑みで会釈をしていた。よく見るとその女の人は少しラフなパンツスーツに腰まである髪を一つにまとめておろし、薄く化粧をしているけれど確かに病院で案内の人に渋い顔をしていた女の人。助けてくれたのはあの人だったんだ。…驚きながらもわたしも会釈を返した。
「じゃあ、ゆっくりしていってね」
「…はあ」
守さんはご主人に気の抜けた様な返事をすると、土井垣さん達が座っているテーブル席へわたしを促した。テーブルまで行くと、土井垣さんがわたしに声を掛ける。
「やあ瑛理ちゃん、久し振り」
「はい、土井垣さんこそお久し振りです」
「やあ宮田さん、久し振り。…少しふっくらしたか?」
「不知火さん、それが久し振りに会ったレディに向かっての第一声ですか」
守さんの言葉に確かに『宮田さん』と呼ばれた女の人は、わざとらしく少し怒った様な態度を見せる。
「い…いや、元気そうで良かったって事だよ。顔色もいいし、前は会う度に痩せてた時期があったじゃないか」
「…じゃあそういう事にしておきます」
女の人の態度に守さんはたじたじといった様子を見せて、それを見て不意ににっこり笑った女の人に土井垣さんは優しく、しかし少しお説教する様に言葉を掛けると、わたし達を席に促した。
「葉月、あまり守をからかうな。でも守の言う事ももっともな所があるんだからな、自覚しろ…まあ挨拶はここまでにしてとにかく瑛理ちゃん座って。守も座れ」
「はい」
そうしてわたし達が空いている席に座ろうとすると、女の人が不意に気遣う様に私達に声を掛けて来た。
「ああ、じゃあ私土井垣さんの隣に移りますね。お二人で隣どうしの方がいいでしょう?」
「あ、ああ。そうしてくれるかな、宮田さん」
「はい。じゃあちょっと待ってて下さい」
そう言うと女の人は素早く飲んでいたらしい飲み物を土井垣さんの隣の辺りに滑らせ、荷物を持って土井垣さんの隣に移った。そうしてわたし達が座ったのを確認すると、また気遣う様に言葉を続けた。
「じゃあ、何飲みます?不知火さんはビールからですか」
「え?ああ、そうしようかな」
「あなたはどうします?飲めるならそれなりに。飲めないならノンアルコールのものは少ないですけど基本のものはありますから」
「え?あ、ありがとうございます。あんまり飲む習慣ないんでウーロン茶頼んでいいですか?」
「はい。あったかいのと冷たいのだったらどっちがいいですか?」
「寒かったですから…じゃあ折角なんであったかい方で」
「分かりました」
そこまで聞くと女の人はまたにっこり笑って、この店の奥さんらしい人に声を掛けて今言ったオーダーをしてくれた。初対面に近い人間に気軽に話しかけ、てきぱきとオーダーをする彼女に少し驚いたけれど、病院での態度を思い出してこれがこの人の気遣いなのだと思い、何だか嬉しい気持ちになった。その気持ちのままその女の人を見ていると、その視線に気付いた女の人が申し訳なさそうに首をすくめながら口を開く。
「…すいません、挨拶もせずに仕切っちゃって。でも良かったです、元気そうな顔が見られて。あの後事後フォローしたかとぼけて確認したら、あっちの保健師何もしてないって分かってちょっと心配だったんですよ。あの日は誘導含めて本当にスタッフの対応悪くてすいませんでした。言い訳になりますけどあの日は誘導も慣れてない人で…せめて看護師の一人がベテランだったらあんな対応にならなかったと思うんですけど」
「ああ、いえ…そうだ。こちらこそありがとうございました。助けて下さったみたいで」
「いいえ。お腹すいてる状態で、まして胃があるなら水も飲まずに来るんですから具合が悪くなってもおかしくないですし、後の対応はスタッフが当然する事ですから。気にしないで下さい」
「そうですか…でもお医者さんから聞いたんですけど、怒られませんでした?あの後。もし怒られてたらすいません」
「え?まあ少しは叱られましたけど…藤川先生…あなたの対応したドクターで、うちの所長なんですけど…が理由話して取り成してくれましたし、そうじゃなくても全然気にしていませんからあなたも気にしないで下さい。それにスタッフならできなくちゃいけない事ができてないんですからむしろ言い返しましたよ。あの姿勢のままだと外でも一発でクレームですし、中なら尚更クレーム来てもおかしくないですしね。それは困るし、何より受診者様に嫌な思いをさせたくないですから」
「はあ…」
柔らかな笑顔と明るく人懐っこい口調ながら、かなり辛辣な物言いをするこの女の人に、わたしはまた少し驚く。でもその辛辣な言葉の裏にある、この人の仕事に対する姿勢の一生懸命さも同時に分かって何だか少し好感が持てた。と、申し訳なさそうに女の人は話を変えてわたしに挨拶をした。
「…っと、すいません。ご挨拶が思いっきり遅れちゃいましたね。私は宮田葉月って言います。あそこの病院の保健師で…とは言っても病院内勤務じゃなくて外の健康診断回っている部署にいるんで、ほとんど病院内にはいないんですけどね。でも中もあちこち手伝ったりするから、むしろ何でも屋っていうか…流浪の民かしら?」
宮田さんの楽しい挨拶に、わたしは人見知りも忘れて思わず笑ってしまう。宮田さんも笑ったところでわたしも挨拶を返す。
「そうなんですか~…あ、こちらも遅れました。盾野瑛理です。主に海外を拠点にしてバイクのレーサーをやっています」
「そうらしいですね。あの日内輪では話してましたし、土井垣さんからも少し教えてもらいました。そちらではかなり有名だそうですね。私はモータースポーツ門外漢なんで分からなくて悪いですけど、モータースポーツ好きな義兄とか友人だったらきっと知ってると思います。今度聞いてみますね」
にっこり笑って答える宮田さんに、土井垣さんがふと話しかける。
「ああ、隆さんは趣味が高じて仕事も車のエンジニアをしているんだったな。友人の方は…俺の知っている人間か?」
「うん、ヒナよ。ヒナは高校の頃から筋金入りのモータースポーツマニアだから、絶対盾野さんの事も知ってると思う」
「ああ、朝霞さんか。…そういえば最近は会っているのか」
「時々ね。あたしが引っ張り込んじゃったとはいえ、ヒナもうち系列の勤務医だから大変らしくてあんまり会えないけど。でも派閥争いとかが面倒そうだった他の病院と違って患者さんに専念できるし、やりがいがあるって楽しんでもくれてるみたいだから、引っ張り込んで良かったのかな」
「そうか…しかし音信不通状態だった所からまた縁が繋がった朝霞さんといい、仕事で一期一会のはずがこうして俺達と知り合いだったから知り合えた瑛理ちゃんといい、不思議とお前は人と縁が繋がりやすい様だな」
「そうですね~。『縁に連るれば唐のもの』って、私みたいな場合に使うんですかね」
「そうだな」
にっこり笑って話す宮田さんに、土井垣さんはいつもも優しいけれど、わたし達には見せた事のない様な、更に優しい笑顔でまた笑い返す。そんな二人の様子が私にはものすごく不思議に思えた。それに入った時から感じていたけれど、このお店自体の雰囲気が何だかとってもあったかい感じがする上、わたしはともかく守さんや土井垣さんが揃っていてもご主人はもちろん、お客さんが誰も騒がないのも不思議で、わたしは守さんに問いかける。
「そういえば…こういう小さなお店なのによく騒がれませんね、お二人とも」
「ああ、ここはそういう店なんだ。来るお客は皆肩書きを外して気楽に飲めるところでな…元々は土井垣さんが気に入って行きつけにし始めた所だったんだが、日ハム時代に何度か俺も連れてきてもらって、それからは俺も気に入っている店なんだ」
「そうなんですか~」
そう言ってにっこり笑う守さんにつられて私も笑う。そうしている内に頼んだ飲み物が運ばれて来た。それを確認すると土井垣さんが乾杯をしようと言い出した。土井垣さんの言葉にわたしはもちろん、守さんと宮田さんもにっこり笑って頷く。それを確認すると、土井垣さんが音頭を取ってわたし達は乾杯をした。
「じゃあ、新しい縁に乾杯」
乾杯をした後、今度は土井垣さんが奥さんに今日のお勧めを聞きながらおつまみになる食事を頼んでいく。しばらく飲みながら取り留めなく話しているとお料理が運ばれてきて、土井垣さんが皆に勧める。
「ああつまみが来た。ここの料理はうまいから瑛理ちゃん、遠慮しないでどんどん食べろよ」
「はい、ありがとうございます」
「葉月もちゃんと食べる様に。最近は割と規則正しく食っているらしいが、それでも俺がいないとどうせろくに食ってないだろう」
「はぁい、でも土井垣さんこそ食べて下さいね。久し振りに来たんですし、マスターの事だから腕を振るってくれてますよ」
「ああ、分かっている」
「土井垣さん、俺は?」
「勝手に食え。ビールや酒は自主的に頼めよ」
「…」
土井垣さんのそれぞれに対する態度にわたしは思わず笑う。守さんは複雑な表情。宮田さんもくすくす笑っていたけれど、ふと気が付いた様に土井垣さんに声を掛ける。
「…あ、土井垣さんビール切れてる。頼みます?それともお酒に変えます?焼酎ならうちの取り置きを提供してもいいですし」
「そうだな…じゃあ熱燗を頼んでくれるか」
「一本でいいですか?」
「守も多分飲むだろうし、とりあえず二本もらうか」
「はい。…そうだ、一口でいいんで私も飲ませて下さいね」
「分かった。しかし本当に一口だけだからな」
「分かってますよ。今の幸せな気分を味わいたいだけなんで、深酒する気ないですし」
「分かっていればいい。それから一口でも飲むならちゃんと食った後だ」
「はぁい」
そう言うと宮田さんは熱燗を頼んで、運ばれてくると土井垣さんにお酌をして、自分もほんの少し注いで口にしながらにっこりと笑い、注いだ分がなくなったのか『もう一口』とお銚子を手に取ったところを、土井垣さんに『もう駄目だ』と取り上げられて頬を膨らませる。土井垣さんはお説教口調なのにそれでもすごく優しく見えて、宮田さんもそれを嬉しそうに受け入れていた。その空気が本当に自然なだけでなく何だか陽だまりの様に暖かい気がして、それがさっきからの続きで本当に不思議になってわたしは土井垣さんに問いかけた。
「土井垣さん」
「何だい?瑛理ちゃん」
「守さんと宮田さんもそうですけど…それより土井垣さんと宮田さんて、そもそもどういう関係なんですか?今日一緒にいたって聞いた時から不思議だったんですけど、会話とか今の様子だと随分親しいみたいですし」
「…」
私の問いに、土井垣さんは何故か赤くなって沈黙した。見ると宮田さんの方も少し顔を赤らめている。その二人をにやにや見ながら、代わりに守さんが私に教えてくれた。
「宮田さんはね、土井垣さんの彼女なんだよ」
「ええ?」
「ちなみに知り合ったのはここ。土井垣さんがここで親しくなってた人に彼女を紹介されて、その人達と一緒に彼女がここに良く来る様になったのがきっかけ…でしたよね?」
「う…まあな」
「…はい」
「俺が宮田さんと知り合ったのは…ここに来た時の偶然のおまけだな。本当は俺にも隠したかったみたいだし…ね?土井垣さん」
「…」
「そうなんですか~」
からかう様な軽い口調の守さんの言葉に、土井垣さんは真っ赤になりながらも照れ隠しなのか無愛想な表情になる。その様子にやっと合点がいった私が赤くなっている二人ににっこり笑って頷くと、守さんが更にからかう様に言葉を続ける。
「さっき一緒に東京駅にいたっていうのは…待ち合わせだったんでしょう?どうせ」
「…悪いか」
「いいえ、いいんじゃないですか?別に。でも東京駅でその格好と化粧って事は…宮田さん、相変わらず今日も外だったのか」
守さんの言葉に宮田さんは気を取り直した様にまたにっこり笑うと、明るい口調で応えた。
「はい、千葉で頚腕があって。土井垣さんと会う事は決まってたんですけど、私が前の日に直帰になったって言ったら『迎えに行くから待っていろ』って言って、本当に来てくれたんですよ」
「迎えにって…東京駅までじゃなさそうだな。その話し方だと」
守さんのからかう様な問いかけの言葉に、宮田さんははっと口元に両手をあて、また真っ赤になって一瞬沈黙すると、恥ずかしそうに守さんに言葉を返す。
「…え?…あ…はい。…会場が駅から近かったっていうのもあるかもですけど…千葉まで来てくれました」
「へぇ…マメな事で」
「…やかましい。葉月は致命的な方向音痴だから直帰は危ないし、何より会場に何故かロッテの旗が立っていると聞いていたから、見に行ったついでだ。…葉月も余計な事を話すな」
「はいはい、そういう事にしておきますよ」
守さんはにやにや笑いながら、無愛想な表情を見せたままの土井垣さんをからかう様な言葉を続ける。わたしはその様子が楽しくて笑いながら見ていたけれど、その会話の中で分からない言葉が出てきたので、思ったままにその疑問を口にした。
「そういえば…『けーわん』…って格闘技の人に関係あるお仕事ですか?」
「ああ、瑛理もやっぱりそう思ったか…俺も最初聞いた時はそう思ったがそうじゃないんだ」
「違うんですか?守さん」
「ああ。宮田さん、瑛理に説明してやってくれるか?」
「あ、はい。いいですよ」
わたしの問いに守さんがくすりと笑って宮田さんに説明を頼む。分からなくてきょとんとしているわたしに、宮田さんは簡単に説明してくれた。
「『けいわん』は頸肩腕症候群…簡単に言うと酷い肩こりとかが症状に出る、ちょっと厄介な病気の略称なんです。かかる率は結構高い割に知られてない病気なんで、言葉で聞いただけだとやっぱりそう考えますよね。実際診られる医療機関も本当に少ないですし」
「そうなんですか」
「でもうちのカルテにはそのK1で書いてあるんで、初めて見た時私もおんなじ事考えましたよ。『うち格闘家の健康診断までしてるのか!』って。訳が分からなくって担当してるさっき言った藤川先生に聞いてやっと違うって分かった位で」
そう言って彼女は良く通るあの時と同じ、特徴的なメゾソプラノの声でコロコロと笑った。そこには全く嫌味がないどころか、話が難しくなったり、わたしが嫌な思いをしない様に気を遣って話してくれているのが良く分かり、物知らずな自分が恥ずかしいと思うより、何だかその語り口が楽しくなった。この人の明るくて優しい笑顔とこういう話し方を見ていると、この人は本当にいい人なんだなと何となく思える。それがきっかけで大分打ち解けられて、私と宮田さんは不思議と話が弾んでいった。お店の奥さんが『マスターからサービスよ』と言って追加してくれたお料理をつまみながら、宮田さんは健康診断での面白い話や土井垣さんと知り合いになったきっかけだという趣味の合唱の話等を色々してくれて、わたしも最初は遠慮がちにレースやバイクの話をすると、興味深そうに笑顔で色々問いかけながら聞いてくれる。その聞き上手な様子に、わたしはいつの間にかいつになく饒舌に話していた。守さんはわたし達が仲良くできた事に安心した様子で土井垣さんと話をしていて、土井垣さんは相変わらずの優しい目でわたし達(というよりむしろ宮田さん)を見詰めながら守さんと話しつつお銚子を開けていた。そうして暖かい時間が流れて行き9時を回った頃、不意に土井垣さんが声を掛ける。
「ああ、もうこんな時間か。…名残惜しいがこれでお開きにしないか?」
「え?でもまだ9時じゃないですか」
「まあ宵の口だが…お前達が二人で過ごす時間は少ないだろう?この後は瑛理ちゃんと二人でゆっくり過ごせ」
「…」
土井垣さんの言葉に、わたしと守さんは赤くなって沈黙する。土井垣さんはにやりと笑ってからかいながらも優しい口調で続けた。
「邪魔者は退散するからな、それに俺も遅くならないうちに葉月を送りたいし。こいつはほっておくといつまでここに長居するか分からんから」
「あ、酷いです。私そんな野暮じゃないですよ」
「そうじゃなくて、二人が帰ってもこの様子だと今度はいつもの乗りで、マスターや奥さんと遊びがてら話し込んでしまうだろう。いつもの皆もそうだが、マスターも奥さんも葉月に甘いから」
「いいじゃないか土井垣君、僕達もみやちゃんと話すのは楽しいから構わないし」
丁度カウンターから出ていたご主人の取り成す様な言葉に、土井垣さんはぴしりと言葉を返す。
「駄目です。仕事の邪魔になるでしょう。あんまりこいつを甘やかさないで下さい、すぐつけ上がりますから」
「…」
土井垣さんの言葉に、宮田さんは頬を膨らませながらも沈黙した。その様子を見ていた守さんが、不意に土井垣さんに話し掛けた。
「…土井垣さん」
「何だ」
「俺達やマスターへの言葉、そのまま土井垣さんに返しますよ」
「…~っ!」
守さんのからかう様な言葉に、最後は土井垣さんが顔を赤くして沈黙したが、すぐに気を取り直して言葉を続ける。
「…とにかく、今日はここまでにしよう。また会おうな、瑛理ちゃん」
「そうですね、宮田さんにも機会があったらまた会いたいです。また会いましょうね、宮田さん」
「こちらこそ。今日は私ばっかり話しちゃって…これで盾野さんが嫌にならなかったらまた是非会いたいです。私も」
「じゃあマスター、奥さん、今日は早いですけどこれでお勘定って事で…また来ますから」
「ええ。一人や二人で来るのもいいけど、今度はできたらいつもの皆が来る時にいらっしゃいな。皆も土井垣君や不知火君と飲むのを楽しみにしているんだから」
「そうですね、自分も皆と飲みたいですし」
「俺は今四国だから難しいかもしれませんけど、俺もあの人達に会いたいですし、土井垣さんに予定聞いてなるべくそうします」
「ありがとう。もちろんお嬢さんも良かったらこれから是非うちをご贔屓に。待ってるよ」
「はい」
ご主人のやっぱりあったかい言葉に、わたしも心からの返事を返す。そうしてそれぞれ割り勘でお金を払い、わたし達は別れた。